一章 人魚姫、遊学先に到着する

1

 リベルトは国境の平野で人を待っていた。

 時折風が彼の黒い髪を揺らしていく。薄い茶色に少しだけ緑色を混ぜたような博美が見据える先に見えるのは国境の検問所だ。

 大国トレビドーナの王太子である彼がわざわざ王都から馬車で数日もかけてコゼント王国との国境へやってきたのには訳がある。


 もうすぐ、ここにコゼントから一人の王女がやってくる。

 王女の名前はアウレリア・ソラ・ロヴァッティ・コゼント。青銀髪の豊かな髪を持つ、深窓の姫君はつい最近十六になったばかりだという。コゼント城の奥で、めったに人前に出ることもなく暮らしてきた彼女がトレビドーナで今後暮らすことになる。


 それは彼女の国、コゼントがトレビドーナに有利となる軍事・経済同盟を結んだからだ。九年も前の話だ。

 トレビドーナはいくつかの従属国を持っており、コゼントへの待遇はそれよりも少しばかり上といったところ。


 リベルトは側付きのフィルミオと二人でまっすぐに前を見据える。

「王女を乗せた馬車はまだか」

「そう焦るなよ、リベルト殿下。彼女は病弱だということだ。ゆっくりとした行程になるって前もって聞かされていただろう」


 フィルミオは王太子相手に軽い口調で話す。

 背の頃は同じくらいで、黒い髪のリベルトに対してフィルミオは似たような褐色色。

 飄々とした態度のフィルミオに比べてリベルトは厳しい目つきだ。


「わかっている。その王女を遊学へと招いたのはトレビドーナだ。ちゃんと誠意をもって応対する」

「それが誠意って顔かね」

 フィルミオは肩をすくめた。

 彼は幼少時からリベルトに仕える側付兼護衛兼懐刀だ。多くの歴代宰相を輩出する名門トゥーリオ家の嫡男で、そういった縁もあり幼いころから王太子の話し相手として宮殿に出入りしている。

 だからリベルトも彼のぞんざいな口調は気にしていない。

「予定の日程よりも、すでに五日も遅れているんだぞ」

「途中で倒れて休んでいたって伝令がきただろうが」

「わかっている」


 病弱な姫君に対してトレビドーナは遊学という名目を使った。

 トレビドーナは従属国をいくつか抱えており、代々かの国らから遊学という名目で人質を差し出させる。通例年若い王女や王子がトレビドーナの宮殿に滞在する。

 コゼント王の子供は王子と王女の二人のみ。聞けば王女は確かに病に伏せがちだが、今日明日の命というわけでもなく、きちんと規則正しい生活をしていればすぐに命に係わるというわけでもないらしい。

 実に曖昧で、元気なんだか悪いんだかどっちだ、という病状だが、コゼント王が娘を差し出すと言ってきた。これまでのらりくらりと躱してきたというのに。


 しかし、コゼント王は王女がトレビドーナ入りをするにあたって一つ条件を出してきた。

 王族に準ずる者が王女のトレビドーナ移動の際付き従うこと、というものだ。

 なんだその条件は、とリベルトは思ったものだが、父王フレミオが承諾した。そしてリベルトが遣わされる羽目になった。


「なにがちょうどいいから視察がてら行ってこいだ」

「まあまあ。いい息抜きだとでも思えって。俺は昨日国境を越えてコゼントで妹用の土産を買ったぞ」

「おまえは楽しそうでいいな」

 リベルトは横に並ぶ従者兼友人の顔を見た。

 頭は悪くないのだが、楽天家すぎるのがたまにきずだ。文官肌というよりは武官のほうが合っていると豪語しており、父親とそれで意見が合わないとぼやいている。


「っと、そんなことを言っていると。ほら、馬車が見えたぞ」

 遠くの方から黒い点が見え隠れする。

 黒い点がいくつか。それはやがて、大きくなり、馬車の形が目視で確認できるようになる。

 リベルトとフィルミオは待たせてある護衛隊と合流する。

 それから一時間もしないうちにリベルトはコゼント側の一団と相対した。


「わざわざ王太子殿下自らお越しいただけて恐縮に存じます」

「顔をあげよ、イルファーカス殿下」


 リベルトは命令し慣れている口調だ。

 今目の前で神戸を垂れているのはコゼントの第一王子、将来のコゼント王となるであろうイルファーカスだ。青銀髪の髪は肩よりも少し長めで、顔を上げた彼はリベルトよりも幾分背が低い、優しげな面持ちをした青年だった。


「長旅ご苦労だった。まさか兄自らが王女を送ってこようとは思わなかった」

「大事な妹姫ですから。私自ら護衛をしたまでです。くれぐれも、我が妹をよろしく頼みます」

 イルファーカスはリベルト相手に臆することもなく、しっかりと目線を合わせる。


 背後ではフィルミオが感極まっているのが気配で分かった。

 彼には十も年の離れた妹がいるのだ。

 おそらく、自分に置き換えて想像しているのだろう。溺愛する妹を人質として異国に差し出すという状況を。

「わかる、わかるぞ……」


(心の声がダダ漏れだ。黙っていろフィルミオ)

 リベルトは内心舌打ちをした。

 大国の威厳が台無しだ。


「それで、肝心の姫は?」

 今この場にいるのはイルファーカスと彼を守る近衛隊の兵士たち。

「姫は体調を崩しています。馬車に乗せたままでご容赦ください」

「しかし、中にいるのが本当にアウレリア姫だという確証も持てないまま出発するわけにはいかない」


 リベルトはじっとイルファーカスを見据える。あらかじめ肖像画を手に入れてあるから、顔を見れば本人だとわかるはずだ。

 長いにらみ合いの末、イルファーカスは息を漏らした。

「わかりました」

 短くそう言って、彼は一つの馬車へと足を向かわせた。


 馬車の扉を開けて、なになら話し合うこと数分。

 短くない待ち時間の後、一人の少女が馬車の中から姿を現した。車いすに乗った少女がこちらへ近づいてくる。


 イルファーカスよりも濃い青銀髪を惜しげもなく背中に垂らしている。ドレスは胸元で切り返されており、裾は車いすで踏みつけてしまいそうなくらい長くて幾重にも重ねられている。

 深い青の瞳に日の光に照らされて輝いた日のような海の色をした髪の毛。向いた卵のように白くみずみずしい肌に、小さな唇と通った鼻筋。昔見たことがある、大海原の海色の大きな瞳がこちらを仰いでいる。しかし、リベルトは王女の顔色が悪いなと思った。

 緊張のせいか、本当に体調が悪いのか。


「殿下申し訳ございませんが、座ったままで容赦ください」

「……ああ」

 肖像画で顔は知っていたが、実物の方がそれの何倍も美しい少女だと思った。


 それに。

(これが、人魚の……末裔か)


 イルファーカスのそれよりもずっと濃い青色の髪の毛。日の光を受けて、銀色に輝くそれは、まさしくおとぎ話の中だけの生き物とも呼ばて久しくなった人魚の血を引く証だ。

「よろしくお願いしますわ、リベルト殿下」

 王女は可憐な声で挨拶をした。

 それがリベルトとアーリアの最初の出会いだった。

◇◇◇


 それは今をさかのぼること二か月半前。

 まだ、寒さ厳しい二月の頃だった。

 コゼント王国の王都スキアの東側の高台に建つ王城の奥のさらに奥。


 アーリアは人工池のほとりに座っていた。

 南に位置するコゼントだけれど、冬場はそれなりに気温は低くなる。

 それでも彼女は彼女の居住する離宮の庭園に設えられた人工池に腰かけていた。


「きみのトレビドーナへの遊学が正式に決まったよ」

 兄イルファーカスはアーリアの側に膝をつく。彼もアーリアと同様青銀の髪に瞳はアーリアよりも薄い青のそれをしている。

「わたしももう十六よ。とっくに覚悟はできていたわ。毎日トレビドーナ語も歴史も勉強していたし。大丈夫、任せて頂戴」


 属国となった国の王の子供はトレビドーナに召喚される。もうずっと、何年も前から話は出ていた。

 青みの強いふわふわとした銀色の髪を背中に垂らしたアーリアはあっけらかんと言い放った。

 まだ二月だというのにその身にまとっているのは薄手のドレスで、それもひざ丈までしかないという頼りなさだ。

 胸のすぐ下でリボンで切り替えた、体を圧迫しない意匠のドレスはアーリアの定番だ。


「気合入っているね」

 イルファーカスは苦笑する。

 少し大きな声を出しすぎたのかもしれない。

「わたし、嬉しいわ。これでちゃんとコゼントの王女の使命をまっとうできるもの」

「話を進めたのは私だけれどね。苦渋の決断だったと、それだけは分かってほしい。何も、進んできみをトレビドーナへ渡すわけではないんだ」

「王子の言葉ではないわね」

「これは兄としての言葉だよ。それに、きみは自分の、その姿のことをわかっているのかい?」


 アーリアはその言葉を聞いて、ふいに人工池へと飛び込んだ。

 まだ二月。水は冷たい。

 けれどアーリアは気にしない。人工池の中をすいすいと泳いで跳ねた。

 池の中を一周してから再びバシャンとイルファーカスの前に顔を現す。


「わかっているわ。わかりすぎるくらいわかっているわよ。わたしが、月の半分は人魚の血のおかげで先祖返りをするってことくらい」

 アーリアは肩をすくめた。

 そう、十分にわかっている。

 今アーリアの下半身にあるのは魚のような尾ひれだ。

「やっかいな体質よね。不自由な体けれど、要するに鱗が完全に乾かなければいいのよ。浴槽にでも浸かっているわ」

 アーリアは努めて明るく言った。


 アーリアの生まれたコゼントは海沿いの小さな国。周り三か国を大国に囲まれている。

 小さな王国がどの国にも併合されなかったのはひとえに他の国同士が睨みを効かせ、長い間暗黙の不可侵ルールがあったからだ。 

そこにコゼントの意思は関係ない。

その均衡を崩して北の国境を有するトレビドーナ有利の軍事・貿易同盟を結んだのが九年ほど前のこと。嵐と不作に見舞われた年で、苦渋の決断だった。


「我が国がもっと強ければ」

 イルファーカスは無念そうに奥歯をかみしめる。

 こればかりは一長一短でどうにかなるものではない。アーリアは微苦笑した。

「もしくは、人魚の呪いなどなければ」


「そうねえ。わたしだって……ほんとはもっと自由に外を歩きたいわよ! なんって面倒なの! 人魚の呪い!」


 アーリアは叫んだ。

 物心ついたときから叫び続けているのでイルファーカスは慣れているのかアーリアの頭をぽんぽんと撫でた。

「アーリア……」

「大体! ご先祖の王子が人魚の姫に恋をしたからいけないのよ! おかげで子孫が苦労する羽目になるんだわ。人魚の血が濃いのか先祖返りだか知らないけれど月の半分は人魚になるなんて」


 コゼント王国に古くから伝わる昔話。

 この昔話にでてくる王子と人魚の姫がアーリアのご先祖様だ。今から約百五十年ほど前の実話。

 海の王の嘆きはねじれた魔法となり、子孫に降りかかった。

 時たま人魚化する子供が生まれる。

 魔法のかかり具合なのか、人魚の血の濃さなのか人魚返りする期間は、まちまちだ。

 アーリアはその中でも特に魔法の影響を濃く受けている。月の半分以上は人魚の姿になる。


「お父様は大人になったら魔法が解けるかもしれない、なんて慰めてくれていたけれど。わたし、もう十六になったのよ」

 呪いはいつ解けるの? と小さなころから尋ねれば、父ビアージョルトはアーリアの頭をぽんぽんとやさしく撫でながら、『大きくなったら解けるよ、きっと』と繰り返した。アーリアももう十六になった。十分に大人だと思うけれど、魔法が解けるような気配はまるでない。


「市井の人魚返りの者たちの中には魔法が解けた者だっているだろう」

「そうねえ。でも、実際のところよくは分からないのよね。だって、みんな自分は人魚返りしています、なんて言わないのでしょう」

 アーリアは兄を仰ぎ見る。

 尾ひれは水に浸かったままでぱしゃぱしゃと前後させる。真冬の水に浸かって、それも濡れたままのドレスを身にまとっているのにアーリアはまったく寒さを感じない。

 これも人魚返りをしている者の特徴だ。完全に人魚と同じ身体能力になるから、氷の張った水でもへっちゃらだし、水の中でも呼吸ができる。


「まあね。大抵のものは隠すね。それでもご近所さんはなんとなく察するみたいだけれど何も聞かないし話さないね」

 長い歴史の中で、ひっそりと生きてきた人魚返りたちはあまり多くを語らない。書物にも具体的な例が残っていない。

 人魚返りの者たちは珍しさから他国の人買いに狙われることもあると聞く。

 アーリア自身も両親や兄たちから口を酸っぱくして言われている。自分の正体を絶対にばらすな、と。

 コゼント城の奥で暮らしているアーリアにしてみれば誰にもばらす機会などないのだが。


「アーリア、苦労を掛けるね」

 イルファーカスはアーリアの肩に腕を回し、引き寄せた。

 アーリアはされるがままになる。

 幼いころから優しい兄はこうしてアーリアを慰めてくれる。


「大丈夫よ。トレビドーナは内陸国よ。もしかしたら海の王の魔法だって及ばないかもしれないじゃない。そうしたら、ほら、月のうち人魚になるのも三日とか五日くらいに軽減されるかもしれないわ」

 アーリアはあえて明るい声を出した。

 いま思いついた考えだけれど、もしかしたらと心が一気に軽くなる。


「アーリア……」

 イルファーカスは健気な妹に瞳を細める。

「それじゃあせめて遊学道具は立派なものをそろえようか。何が欲しい?」

「そおねえ……。何がいいかしら」

 兄の気遣いに乗っかることにしたアーリアは人差し指を顎に当て、しばらくの間虚空を見つめた。


◇◇◇ 



 旅たちの日は快晴だった。

 この日は人魚の日ではなかったため、きちんとドレスを身に着け、臣下の前で礼をした。

 王城には少なくない見送りの人々が集まった。

 家族との私的な別れは昨日のうちに済ませてあるのに、母は名残惜しそうにアーリアの頬を撫でる。


「無事にトレビドーナの宮殿についたら手紙を書いて送って頂戴ね。絶対ですよ。ああそれと、向こうにはコゼントの大使もおります。何かあれば彼を頼るよう―」

「これこれ、昨日も散々言うたであろう」

 幼子に言い聞かせるように何度も同じことを繰り返す妻に夫である国王は窘める。

「ですが……」

 可愛い娘と離れる王妃は眉尻を下げる。


 アーリアは母に抱き着いた。

 見送りに来た者たちの内、幾人かが手巾を目に当てる。

 アーリアは母から体を離して、小さく首を横に振った。


「みなさん。わたくしのために今日はありがとう」

 アーリアは清楚に微笑み、優雅に膝を折ってから馬車に乗り込んだ。

 優しい兄はコゼントとトレビドーナの国境まで付き従ってくれる。彼はこれまで不自由な生活を強いられるアーリアの元に足繁く通い、勉強を教えてくれた。

一度トレビドーナへ入れば、次はいつ故郷へ帰って来られるかもわからない。


 アーリアは馬車の窓辺に寄り、外を眺めた。

 王妃の寂しげな瞳から目が離せなくなる。

 いよいよ出発する。ようやく、その実感がわいてきて、アーリアはきゅっと目をつむった。生まれてからずっと暮らしてきたお城を離れる時が来た。


 ずっとずっと城の奥で大切に育てられた。人魚返りなんて厄介な体質に生まれたアーリアは満足に王女の役割も果たせなくて、いつも歯がゆい思いをしていた。せめて知識だけは人に負けたくないと外国語や歴史や淑女のたしなみを猛勉強した。

この城を出れば、アーリアはコゼントの王女としてトレビドーナに入る。王女としてようやく一歩を踏み出すことができる。


 馬車はゆっくりと動き出した。

 思えばお城の外に出るのは生れては初めてこのことだった。

 王城の門を抜け、坂を下ると市街へ入る。馬車の通る大通りには大勢の市民が道の端に集まっている。皆、自国の姫君が宗主国へ向かうことを知っている。

 締め切った馬車の中にも「姫様―」という声が時折聞こえてくる。


 アーリアは市民の声に応えるように優雅に手を振った。

 アーリアの乗る馬車の後ろにはこれからの生活に欠かせないものがたんまりと乗せられている。

(最後に、海に行きたかったな……)

 遠ざかる故郷を尻目にアーリアは何と話に思った。

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