棺桶に届く声
マーカスが目を覚ました時、そこは暗闇しかなかった。まだ夢の中のように身体の輪郭がぼやけていた。しかし時が経つにつれて意識は鮮明となって、自分の置かれた状況がただ事では無いと気づいた。
手を動かすと眼前に壁がある。力いっぱいに押すが、木製らしい壁は揺るぎがない。顔を巡らせながら周囲を両手で探った。壁は自分を囲むようにあった。横たわっている自分の下だけは柔らかな布張りだったが、拳で叩くと固い音が返ってきた。
箱だ。自分は箱の中にいる、とマーカスは気づいた。
おおい、と声をあげた。
狭い箱の中に甲高さを残したかすれた声が響いた。耳を澄ませた。
おおい、だれか。もう一度叫んだが、やはり返事はない。
途端に、恐怖が両肩に手を置いた。必死に壁を叩いた。鈍い音と固い手応えだけがあった。
なんとか身体を動かそうとするが、ぴったりと型にはまっているように頭と脚は横に動かせない。かといって上げればすぐに壁にぶつかった。まるで棺桶だ、とマーカスは考えて、息を呑んだ。
自分が堅苦しい服を着ていることに気づいた。触って確かめれば、純銀のボタンが四つある。死者に着せるための装束だ。
ここは、棺桶の中だ。そしてぼくは死んだと思われた。
ボタンを握りしめたまま、マーカスは歯を噛んだ。
死者は棺桶に入れられて地中に埋められる。けれど、時間が経ってから掘り返すと、棺桶には爪痕が無数にあって、穏やかな顔で死んだはずのその人は恐ろしい表情になっている。実は生きたまま埋められていた、なんて話は昔からあった。ただの作り話だと思っていた。まさか、自分が同じ目にあうなんて。
心臓が荒く拍動して、呼吸は浅くなる。濃密な死の足音が小さな棺桶の中に満ちていた。黙って耐えていることはできなかった。マーカスは両手足で思い切り壁を叩いた。だれか、助けて。
死者の亡骸が野生の動物に荒らされぬように、棺桶は深く掘った穴に埋められる。子どもでも知っていることだった。どれだけ押しても、叫んでも、どうしようもないことだった。
手を止めて泣いていたマーカスは、ふと耳を澄ませた。
……い。
どこからか、たしかにくぐもった声が棺桶の中に届いている。
「だれか! たすけて!」
必死に声をあげた。
「……こ……し……」
「あ……さ……」
声は二つあった。
その声が頭の上の方から響くことにマーカスは気づいた。両手で探ると小さな凹みがあった。指をかけると扉のように開いた。声が明瞭になった。
「おい、大丈夫か」男の声だ。
「助けてください! ぼくは生きてます!」
「まあ、なんて事かしら」と女の声もあった。
「早く、助けて」
安堵とともにマーカスは泣き出しそうになった。暗闇の中で身体は震えていた。
「しっかりしなさい。男の子だろう。泣くんじゃない」
「あなた、そんなに厳しく言わなくても良いじゃありませんか。大丈夫よ、ちゃんと助けてあげますからね」
くぐもった響きながらもその声は温かで、マーカスは不思議と落ち着いた。
「でもね、ここはエフスキー教会の墓地なの。朝まで人が来ないわ」
エフスキー教会は小山にある静閑な墓地だった。マーカスの一族は先祖代々がそこに眠っている。自分が埋葬されるのも同然だった。
「あの、なんとか助けてもらえませんか。こんな場所、耐えられません」
「駄々をこねるんじゃない。無理なものは無理なんだ」
「あなた」
鋭い女性の声に、男性がぴたりと黙り込んだ。マーカスも黙り込んだ。
「怖いでしょう。助けてあげられなくてごめんなさいね。でも私たちが朝までここにいて、話し相手になってあげるから。ね? お話しをしていれば怖くないでしょう?」
女性はマーカスの耳がとろけそうなほど甘い声で言う。
「は、はい。ありがとうございます。助かります」
「ま! そんなに堅苦しく話さないで。あなた、何を笑ってらっしゃるんですの。おかしいことでもありまして?」
「いいや、何でもないさ」
あまりに穏やかな、まるで食卓で交わされているような会話に、マーカスも気が抜けた。そうだ、朝が来れば助けてもらえる。大丈夫だ。慌てなくても良い。
すると、どうして地上にいる二人と会話ができるのか不思議に思えた。訊ねてみると、男が笑って教えてくれる。
「棺桶から地上まで管が伸びているんだよ。もし死者が生きていたら、こうして助けを呼べるようにね。空気も入る」
「こういうものがあって良かったわ。頑張ってね、すぐに朝が来るわ」
二人はたくさんの話をしてくれた。遠い国まで旅行をしたときのことや、古いお伽話、どこまでも広がる海という塩辛い湖のこと。マーカスは棺桶に閉じ込められていることも忘れて話に聴き入った。
「マーカス、辛いことはないかい」
ふとした沈黙を挟んで男が言った。
「たくさんあります。でも、頑張っています。父の手帳があって、困った時はこうしなさいとか、悩んだ時はこう考えなさいとか、たくさん書いてあって、辛い時はいつもそれを読み返します」
「そうか。これからも辛い時はあるだろうが、頑張りなさい」
「頑張ってばかりじゃだめよ。ちゃんと休まないと。甘えられる人がいると良いのだけれど」
「メイドのリリアンが良くしてくれます。たまにすごく怖いですけど……」
マーカスのぼやきに二人は笑った。
時間が経つほどにマーカスは二人と打ち解けあった。たくさんのことを話した。マーカスがずっと抱えていた悩みを話すと、二人は真摯に聴いて、温かい理解と思いやりある言葉を贈ってくれた。
マーカスは不思議な気分を感じていた。ここは地中深くの棺桶の中である。自分は閉じ込められている。地上のだれよりも死者に近い場所だ。なのにどうして、これほど心が安らぐのだろう?
いつも張り詰めるようだった緊張もなく、マーカスは本当の自分に戻れたようだった。ともすれば、ずっとこうして話していたいと思うほどだった。
「マーカス、夜が明けてきたわ。もうすぐ出してあげられますからね」
「残念です。ようやく棺桶の中も居心地が良くなってきたのに」
女は「まあ!」と呆れた声をあげた。男が大笑いしている。
「いいぞマーカス、頼もしくなったな」
マーカスも笑った。狭い棺に自分の笑い声が響いた。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
出るのは少しばかり残念だけれど、地上で二人の恩人に会えるのは楽しみだ。たくさんのお礼を言いたかったし、もっと話したいと思った。
「ぼくと友人になってもらえませんか?」
「そんなことは言わなくても良いんだよ、マーカス。私たちはとっくに友人じゃないか」
「ええ、その通り。これからもずっとそうですからね」
「……よかった」
暗く狭い棺の中で、小さな丸い孔がひとつある。覗いても暗闇だけのその孔から響く声が、マーカスを絶望から救ってくれたのだ。彼らがいなければ、朝が来て助け出されるころには気が触れていただろう。夜を徹して墓の下にいる自分に話しかけてくれたことに、どれほど感謝してもし足りない。
そこでマーカスは、二人に名前すら訊いていなかったことに気づいた。
「マーカス、墓守りが朝の見回りにやってきたぞ。もうすぐそこだ。丘を登ってきてる。私たちが合図したら声をあげるんだ。最後は自分の力で成し遂げないとな」
「よく頑張ったわね、マーカス」
そうか、墓守りが来たのか。なら、ここから出られて、二人と直接、顔を合わせて、それから名前を訊ねようと思った。
男が「今だ」と言った。マーカスは声を張り上げた。今までに出したことのない大声だった。自分はここにいる。生きている。精一杯に声をあげた。
足音が駆け寄ってきた。
「なんだ、おい、生きてるのか!」
マーカスは返事をした。地中深くの棺桶で一夜を明かしたマーカスよりも、墓守りの方がよほど冷静を失っていた。
墓守りはすぐに人を呼んできて、マーカスはあっという間に掘り出された。
棺が開かれると、太陽の光に目が眩んだ。思い切り息を吸って、思い切り両手を伸ばした。
「棺桶も悪くないですけど、やっぱり外が一番ですね」
マーカスが笑って言うと、集まった男たちは恐れとも呆れともつかない顔を向けた。
「死から目覚めたってのに、なんとまあ。やっぱりクレイドル家の坊っちゃんはお人が違う」
墓守りが感嘆しながら腰を落とし、両手を組んだ。
「さ、坊っちゃん、ここに足を掛けてくだせえ」
言われた通りに足をかけると、ぐいと押し上げられた。すぐに穴の上に集まっていた男たちが手を貸し、マーカスは地上に立った。
美しい緑の茂る丘に墓石が並んでいる。遠くに小さな教会があって、慌ただしく走ってくる人たちが見えた。先頭はメイドのリリアンだ。
マーカスは周囲を見回した。墓守りに呼び集められた男たちがいるだけで、女の姿はない。
遅れて穴から這い上がってきた墓守りに、マーカスは訊ねた。
「最初にここに居た二人はどこに?」
「二人? いや、墓にはだれも居ませんでしたぜ」
「そんなはずないでしょう。ひと晩中、ぼくに声をかけてくれたんですから」
墓守りは瞳に憐れんだ表情を見せた。両親を亡くしてから、何度も向けられてきた瞳だった。マーカスは首を振って、それ以上、口にすることは諦めた。
自分が埋まっていた穴を見下ろした。小さな棺があった。狭く、息苦しく、絶望と孤独に満ちた場所だ。あの二人はたしかにいたのだ。でなければ、自分がこうして光を浴びることなど出来なかったに違いない。
マーカスは横にある墓を見た。もの心ついたころには亡くなっていた、両親の墓だった。
リリアンの声が近づいてくる。坊っちゃま、と誰もがそう言う。
マーカスは、自分の名を呼んでくれた二人の声を思い出していた。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます