料理にこだわりのある男を前にした場合のひとつの現実
俺、チャーハンにはこだわりがあるんだよね。と堀田くんが言ったせいだ。
そんなことを言われたら、私は「え、食べてみたい」と言うしかないではないか。
スーパーの袋から6個入りの卵パックを取り出している堀田くんの背中を見ている。早まったかな、とも思う。ちょうどいい機会だったのだという気もする。
「米はこのパックのやつでいいよね。お腹、空いたでしょ」
振り返って、堀田くんが言った。私はもちろん、と頷いた。
自分の部屋のキッチンに、自分以外の、それも男の人が立っているのは、奇妙な感覚だった。見知らぬおじさんがいた方が、まだ心が定まった気がする。騒いで逃げ出せばいいから、感情の方向はひとつだ。
自分の部屋のキッチンに、自分の彼氏である男の人が立っている。その状況のほうが、やっぱり心は揺れてしまう。そうだ、私は動揺しているのだ。
部屋の主である私が、所在もなく立って、動揺に困っているのに、堀田くんは平気な顔をしている。ああ、やっぱり、慣れているんだな、と、そんなことを冷静に考えてしまう。
私は、部屋に男の人をいれるの、初めてなのにな。堀田くんは前にも、誰かの家に入ったことがあるんだろうな。
それは当然だなと納得する自分と、やっぱり寂しいなと、少しだけ見たこともない過去に嫉妬をする。
付き合って2ヶ月は、早いのだろうか、遅いのだろうか。
手を繋いで、キスをして、じゃあ、次のステップへ。そりゃ、世間では当たり前なのだろうけれど。20歳にもなって緊張している。
鍋に水を入れて火にかける堀田くんの背中。私のキッチンに立っている背中。そういえば、彼を後ろからこんなにじっくりと見るのは、初めてだ。手や腕や脚は細いのに、背中はけっこう、大きい。
そんなことに気づいてしまうと、なぜだか急に現実感が足元から這い上がってきて、思い出したみたいにバクバクとうるさくなった心臓と、焼けるように熱くなった頬に、私はもうどうしようかと思った。
やっぱり帰ろう、と言いかけた。でも、ここは私の家だった。
やっぱり出ていって、と言いかけた。いや、言えるはずもない。
だから私は部屋に戻って、テレビを点けた。夕方の、地元の情報番組がやっている。詐欺事件を食い止めることに協力したという郵便局員の女性が表彰されている。
見慣れた番組の音声が部屋に流れると、少しだけ自分の日常を取り戻せたような気がする。肩の力が抜けた。私は何度も深呼吸をした。
堀田くんがスーパーで食材を買ってきてくれるまでに、部屋の掃除はしていた。大急ぎで片付けた。それでもなにか見落としていないかと、また部屋中に視線をさまよわせる。よし、大丈夫だ。大丈夫なはず。いや、大丈夫だろうか?
キッチンの方から食器がこすれる音が聞こえる。卵を割る音。箸がリズミカルに鳴っている。ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ。
「夏希はさ、チャーハンの具材って何が好き?」
「ぐ、具材?」
チャーハンの具に、好き嫌いを感じることがない、というのが正直なところだった。
チャーハンは、チャーハンではないだろうか。でもそんな解答は求められていないに違いない。私は必死に頭を巡らせた。
「お母さんは、玉ねぎとか、にんじんとか入れてくれてたかな」
「ああ、そういうのか。ちょっと甘めの味付けじゃない?」
「そういえば、甘かったかも」
「玉ねぎの甘味が出るからさ。家庭のチャーハンって、そうだよな。焼き飯って感じ」
「でも美味しかったよ」
とっさに言い返すような声音になった。馬鹿にされているような気がしたから。だめだ、と自分に言い聞かせた。堀田くんがそういうつもりで言ったわけじゃないのに、私が過敏に反応してしまっている。
「今から、もっと美味いチャーハンを食べさせてやるよ」
キッチンから顔を覗かせて、堀田くんが言う。自信を感じさせる笑みは、やっぱりかっこいい。堀田くんは中性的な顔立ちをしている。それでいて目元の印象がはっきりとしていて、男らしい。
流行歌を口笛で吹きながら、堀田くんがチャーハンを作っていく。私は部屋とキッチンの境目に立って、その姿を見ている。
「チャーハンはさ、料理酒を使うと味が深くなるんだ。味付けに醤油を入れすぎるとだめなんだよ。茶色くなって見た目も良くないし、醤油の味ってけっこうくどいだろ? 風味をつけるためにちょっと入れるだけでいいんだ」
「へえ、そうなんだ」
堀田くんの手際は、たしかによかった。
フライパンを熱し、卵を流し込み、半熟になったそこに温めたパックのご飯を落とす。それをお玉でほぐしていく。ざっ、ざっ、とフライパンを振ると、ご飯が波打つようにひっくりかえる。
それがすごいと、素直に思う。私にはできないことだ。堀田くんが来なければ、このキッチンでご飯があんな風に炒められることはなかったに違いない。
「チャーハンって具材が、けっこう選択肢があるだろ? それで俺もさ、いろいろ試したんだけど。チャーハンってやっぱり、シンプルなのがいちばん美味いと思うんだよ」
「なるほど」
と、言ってはみたものの、ちょっとぴんとはこない。私は自分なりに考えてみる。
「ナチュラルメイクが一番って気づいたって感じかな。簡単なように見えるけど奥深いとか」
「……うーん、たぶんな」
堀田くんもぴんとこなかったらしい。無念。
卵とご飯がきれいに混ざる。堀田くんは小皿に分けていた調味料をさっと落とした。
それ、なに? と訊くまでもなく、堀田くんが説明してくれる。
「これさ、うま味調味料と、鶏ガラ顆粒と和風だしを調合してるんだ。俺のオリジナル」
「すごい。こだわってるんだね」
「ポイントは隠し味でさ。特別に教えてあげようか」
「え、う、うん」
「花椒だよ。これで香りがぐっと引き締まるし、独特の深みがでるんだよね」
「へええ!」
と感心した声を出してはみたものの。花椒とはなんだろう。黒胡椒ではだめなのだろうか。いや、そんなことを言うのは無粋に違いない。それは堀田くんのこだわりなのだから。
「仕上げに醤油を少し入れたら……ほら、完成」
お皿に盛り付けられたチャーハンは、たしかに美味しそうだった。パラパラに火が通っているし、卵も鮮やかな黄色だ。中華屋さんのような香りもする。
堀田くんはフライパンや調理器具をまとめて流し台に置いた。まだ熱を持っていたフライパンが、じゅっと悲鳴をあげる。堀田くんが放るように落としたお玉が、フライパンとぶつかって、耳にトゲを残すような金属音が響いた。
「食べていいよ。絶対に驚くほど美味いから」
自信に溢れた笑顔の堀田くん。スプーンを渡される。山盛りのチャーハンを押し付けられる。かっこいい。顔は良い。
私はできるだけ嬉しそうな笑顔を浮かべて、チャーハンをすくって、口に運んだ。
熱々だ。かすかに焦げた醤油の香ばしさと、不思議なスパイスの香り。舌が少しだけピリッとする。これが花椒だろうか。
「うん、美味しいね!」
と、私は言った。声のトーンを少し上げる。私は喜んでいる、感動している。そんな雰囲気を伝えようとする。
「でしょ!」と堀田くんは満足そうに笑った。「それから?」
「……それから?」
「いや、もっとあるでしょ、感想。ほら、どんな風に美味しいか、とかさ。火の通り具合とかも絶妙でしょ?」
ああ、と私は頷いた。
もうひと口、チャーハンを食べる。
それから、感想を探す。
そういえば、いつもこんな感じだな、と。急に思い出す。
私はいつも堀田くんを褒めている。堀田くんがそれを求めるから。私も褒めるのが当然だと思っていたから。だって堀田くんは、かっこいい。
私はチャーハンを見る。卵だけのチャーハン。綺麗に火が通っている。よく分からない調味料が入っている。
堀田くんを見る。
私の褒め言葉を期待して待っている。
彼は、私に褒めてほしくてチャーハンを作ったのだ。私を喜ばせたいから、私のために作ってくれたわけじゃない。彼は自分のチャーハンを、自分のこだわりを、自分の世界を、褒めてほしいだけなのだ。
私はチャーハンを飲み下し、うん、と頷いた。
「堀田くん、帰ってくれる?」
「は?」
「別れよう。もう連絡しないで」
状況が理解できていないのだろう。ぽかんと口を開けた表情はマヌケなのに、それでも堀田くんはかっこよかった。顔は、かっこよかった。
「私、チャーハンにこだわりのある人、無理なの。ごめんね」
戸惑う堀田くんの大きな背中を押すようにして部屋から追い出した。
流し台に置かれた洗い物を綺麗にして、ご飯粒の散らばったコンロ周りを掃除する。手を拭きながら、改めてキッチンを眺めた。誰もいない。落ち着く。
チャーハンを持って、部屋に戻る。夕方の情報番組はコーナーを変え、視聴者と電話を繋げてクイズを出している。それをぼうっと眺めながら、私はチャーハンを食べる。変なスパイスの入っている、卵だけの素朴なチャーハン。堀田くんが作ったといえど、チャーハンに罪はない。
ご飯粒も残さず食べ終えると、ようやく区切りがついた気がした。
ごちそうさまでした。
ふう、と天井を見上げる。うーん、と考える。
「冷凍チャーハンのほうが美味しい」
間違いない。あと、できればチャーシューの刻んだのとか、ネギとか、具材も入ってる方がいい。
食べ終えた食器をすぐに洗ってから、部屋に戻る。お腹の具合を確かめると、ちょっと物足りないな、という気がする。
私はケトルのスイッチを入れて、カップラーメンの封を切った。
了
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