プール
私は自分が通う中学のプールサイドで一人、ぼんやりと体育座りをしていた。
ここには誰もいない。
当たり前だ。今は夏休みなのだから。
……セミの鳴き声がうるさい。
眩しすぎる太陽も目障りだ。
段々とイライラし始めてきたその時、目の前に大きな影ができた。
「よお! 久しぶりだなぁ。元気だったか?」
顔を上げると、そこには兄がいた。
「お、お兄ちゃん? 何で……」
「あ~いや、なんだ……たまたま通りかかったらお前の姿を見かけてな」
「…………」
兄と会うのは一年ぶりだった。
「……それよりお前さ、折角の夏休みなのに、こんなとこで何やってんの?」
兄は昔からお節介な人だ。どうせ、たまたま通りかかったというのも嘘なのだろう。
「別に。プールに浮かんでる虫の死骸を数えてた」
「暗すぎだろ……」
そう言って、兄は困ったようなおかしいような、何とも複雑な表情を見せた。
この顔も、昔のままだ。ちっとも変わらない。
「何だかなぁ……なあ、その手に持ってる袋、なに?」
「え、水着。別に必要ないけど、何となく」
「ああ、そういやお前、泳げなかったな……あ、そうだ! 兄ちゃんが泳ぎを教えてやるよ!」
「え…………あ。うん」
私は珍しくあっさりと承諾した。
だって、気づいてしまったのだ。兄がわざわざ私の前に姿を現した理由に。
「おーい、何してんだよ! 早くこっち来いって!」
いつの間にやらパンツ一丁でプールに飛び込んでいた兄が呼んでいる。
「待って! 今着替えるから」
――そっか、お兄ちゃん、未だにあの日のことを……
「あ~そうじゃない! そんな力入れても逆効果だって」
「ぶくぶくぶくぶく」
「もっと、水と一体化するような気持ちで!」
「ぶくぶくぶくぶく…………ぶはあ!! はあ……はあ……」
私は無様にもその場でじたばたともがいた挙句、息が持たずに顔を上げた。
「ああもう!! 何言ってるかぜんっぜんわかんない!!」
「え、そうか?……すげー分かりやすいと思うんだけど」
「お兄ちゃんは人に教えるのが下手くそなんだよ。いい加減自覚したら?」
「ええ? そんなことないだろう」
そう言って兄はケラケラと笑う。
まったく。のんきな性格も相変わらずだ。
「……しっかし暑いなぁ。プールに入っていても汗が吹き出てくるぜ」
「汗、ね」
「何だよ……まあいいや。続きやるか」
「ええ、まだやるの? もういいよぉ」
「駄目だ。お前がちゃんと泳げるようになるまで、やらないと」
兄は珍しく真剣な表情でそう言った。
「……分かったよ」
――そうだ。私がちゃんと泳げるようにならないと、兄は……
「よーし! いいぞ、いいぞ! 進んでる、進んでる!!」
「ぶくぶく、ぶはあ!……ぶくぶく、ぶはあ!」
「おし! 息継ぎも完璧だ! なんだ、やれば出来るじゃねーか」
「ぶはああ!! はあ……はあ……まあね、私が、本気を、出せば、これくらい……はあ……げはあ……」
死ぬ思いをして頑張ったかいがあった。これで、兄は……
「ん? どうした」
「……私が市民プールで溺れた日のこと、覚えてる?」
「あ、ああ。そういや、そんなこともあったな」
「あの日、お兄ちゃんが助けてくれなかったら、私……」
「大げさだなぁ」
「大げさじゃないよ!」
自然と声が大きくなってしまう。
「だって……だって、私のせいでお兄ちゃんが…………」
「…………」
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはいつまで『こっち』にいるの?」
「え、ああ、やっぱお盆が明けるまでかな」
「お母さんには?」
「ああ、さっき会った……元気そうだったな」
「うん。ようやく、立ち直ったところ、かな」
「立ちなお……?」
私はもう、感情を抑えることが難しくなっていた。
「あの日も、私に泳ぎを教えようとしてくれたよね……でも私が調子に乗って、準備体操を怠ったせいで、足をつってしまって……」
「そうだったかな」
「私、ずっと悔やんでいたの。あの時、ちゃんとお兄ちゃんの言うことを聞いていればって。そうしたら、あんなことには……」
「もういいよ。お前も忘れろ」
「忘れられないよ! だって、だって……」
――お兄ちゃんが死んだのは私のせいだ。
――兄が私の目の前に現れた時、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
――兄はもう、この世にいてはならない人間なのだ。
――兄はあの時、溺れた私を守って死んだ。
――兄はきっと、私に泳ぎを教えられなかったことが心残りだったのだ。
――だから、兄は……
「……お前さ」
「……なに?」
――私は真っ赤になった目を兄に向けた。
「……さっきから、何ブツブツ言ってんの」
「……え??」
「いや、その独り言みたいなの。なんなの? 目が赤いのは、さっきまで泳いでたからだろ?」
「あれ? 声に出てた?」
「うん、丸聞こえ! 俺が死んだとかどういうことだよ??」
「……幽霊ごっこ」
「…………は?」
「お兄ちゃんが昔、私を守って死んで、その私の元に幽霊になって現れた。って設定。私は悲劇のヒロイン的な」
「なんっじゃそりゃ……」
――お盆だし、丁度いいと思ったのだ。
「だから、その『心の声』みたいなの止めろ! つーか、あれは全然大したことなかっただろうが……お前はショックでゲロ吐いてたけど」
「ああ! 忘れろって言った癖に!」
「自分で蒸し返したんだろ」
「だって、お兄ちゃんが泳ぎを教えるとか言うから……あの時、お兄ちゃんが溺れて死んだことにすれば美味しいかなって。ピーンときたの」
「勝手に殺すな…………そんなんだから友達の一人もできないんだぞ」
「それは言わないで」
「お袋、心配してたぞ。『あの子、いつも一人で遊んでいるみたいだけど、大丈夫かしら』って。今日も何故か学校に行ったみたいだと聞いたんで、様子を見に来てみりゃ……お前、いつもこんな、変な遊びとかしてんの?」
「時々」
「楽しいのか?」
「相当」
「……じゃあ、まあ、いいか」
――結局、兄は私に甘いのだ。
「よく本人を前にして恥ずかしげもなく……お前さ、演劇部でも入れば? いい線いくと思うよ」
――兄の顔はすっかり疲れ果てていた。
「お前のせいだよ!」
ああ。楽しいな。お盆明けまで、退屈しなさそうだ。
――これは、心の中だけに留めておいた。
「なにが?」
「なんでもない」
蝉の声も太陽の日差しも、何だか今は少し、心地いい。
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