バイバイ、ホーケイ

 どしゃ降りの中、私はただただバスを待つ。

 欲しかった本を探すのに、本屋を5件も回る羽目になった。ようやく入手できたものの、全く来たことのない地区まで足を運んでしまっていた。

 屋根すらない、いかにも利用者が少なそうなバス停だ。現に今も私以外誰も並んでいなかった。

 傘が重たい。だから梅雨は嫌いだ。

 それにしても、バスはまだだろうか。

 視線をふと横に向けると、いつの間にか人が立っていた。

 少しだけドキッとして、彼の横顔を認識したところで更に心臓が跳ねた。

「……ホーケイ?」

 私の声に反応し、彼がこちらを振り向く。

「……あれ? イタコじゃん! え、マジか、久しぶりだなぁ!」

 ニカッと笑顔を見せる。

「う、うん……久しぶり」

「卒業以来だから1年振りくらいか?」

 1年と2か月振りだよ。心の中でそっと答える。

「うわーマジ懐かしい。どうよどうよ、高校生活は? 確か、女子高だったっけ」

「まあ……それなり、かな」

 嘘だった。本当は友人すら満足にできず、本だけが心の支えという、色のない毎日をやり過ごしていた。

「そ、そう言うホーケイはどうなのよ? 相変わらずバカやってんじゃないの?」

 だから、話題を彼に逸らした。

「いやいや、俺らもう高校生だぜ? あの頃みたいなはしゃぎ方はもうできねーよ」彼は少しだけ昔を懐かしむような表情を見せた。

「つーか、その呼び方やめてくれよなぁ」

「え、なんで」

「いや、だからもうガキじゃねーんだからさ。恥ずかしいって流石に」

「……別にいいじゃん。単なるあだ名なんだし。それに、あんただってさっき、私のこと「イタコ」って呼んだよね?」

「ああ、そういや……悪かったよ」

 ばつが悪そうに彼が謝り、苦笑いを浮かべる。

「今考えると、お互い、完全にセクハラだったよな」


 イタコ。小学生の頃に彼が私につけたあだ名。別に霊的なチカラがあるとかではない。由来は洗濯板。つまり私の貧相な胸をからかっているというわけだ。

 だから私も対抗して彼にあだ名をつけた。ホーケイ。由来は言わずもがな。彼がそうなのは彼の友人からこっそり聞いていたし、本名の「北条圭介」を縮めたとも言える、二重に馬鹿にできる命名だった。

 出会った頃は彼のことなんて正直、大嫌いだった。

 だけど不思議なもので、毎日いがみ合っているうちに、いつの間にか仲良くなっていた。

 周りからは「まるで姉弟みたい」と言われるくらい、いつも一緒だった。「まるで恋人同士みたい」じゃないのは少し不満だったけど、それでも悪い気はしなかった。

 それなのに中学卒業以来、ぱったりと関係が途切れてしまっていた。別に特別な理由なんてない。お互い別々の高校だったし、入学直後は何かとバタバタして忙しい。ようやく慣れた頃には、今更連絡するのも何だか気恥ずかしくなっていて、気が付けば1年と2か月も経っていたというだけに過ぎない。

 でも、偶然にも今日、こうして再開することができた。

「何が『ガキじゃない』よ? ホーケイ野郎がいっちょまえにさ!」

 敢えて強く口調を使ってみた。本当はもうこんな話し方なんてしていないけど、彼の前では勝気なキャラだった事を思い出したからだ。また昔のような関係に戻れるかも知れないと期待した。

「……ははっ。お前は変わんねーな。なんか、安心するよ」

 嬉しいのと同時に、何故だか少しだけ罪悪感が芽生える。

「でもさ、言っとくけどな、俺はもう違うんだぜ?」

「はあ? 何が違うってのよ」

「だからその。もう被ってないっつーか」

「なによ? ハッキリ言いなさいよ」

「いや、だからぁ!……切ったんだよ、皮を! 手術したの、包茎の!」

「……え?」

 彼の顔が真っ赤に染まるのと反比例するかのように、私の顔から血の気が引いた。

「なんで?……もしかして、気にしてた?」

「ま、まあ……。そりゃ多少はな。あ、でも別にあだ名が嫌だったからじゃないぜ?」

 そう言いながら、ポケットからスマホを取り出した。

「ほら」自慢げに、待ち受け画面をこちらに向ける。

「これ、彼女」彼と知らない女が仲良さげに笑いかけてくる。

 バカみたいに幸せそうな笑顔。

「やっぱさ、好きな女の前ではカッコつけたいもんじゃん? 勢いでつい、さ」

 声が遠くてよく聞こえない。雨の音がうるさい。

「ああ、マジ照れるわ。こんな恥ずかしいこと、お前以外には絶対言えねー」

 傘が重たい。だから梅雨は嫌いだ。

「そんで、お前はどうなのよ? そっちの方は? ってこれもセクハラかぁ?」

 彼がポリポリと頭を掻く。照れくさそうな、誇らしそうな表情。そんな表情、知らない。見たこと、ない。

「……セクハラなんて」

「え、なに?」

 あの頃は、セクハラなんてそんなこと、気にするような仲じゃなかったのに。


「あ、来た来た」

 ぷしゅう、と音を立ててバスが停まる。

「あれ? 乗らねーの?」

 立ち尽くす私に、彼が不思議そうに問いかける。

「ん。ちょっと。忘れ物したの、思い出して」

「おお。そっか」

 彼がバスの入り口に向かい、振り返る。

「久々に会えて嬉しかったよ。せっかくだしさ、近いうちに遊ぼうぜ。昔みたいにさ」

「……彼女に悪いよ」

「気にすることねーよ。俺ら、昔から姉弟みたいなもんだったじゃん。そんなんじゃないってこと、あいつもすぐに理解するって」

「……そっか。そうだね。うん。じゃあ、近いうちに」

「おう! 約束だぞ、佐藤!」

 彼が手を振る。バスのドアが閉じる。

 佐藤、か。自分の本名なのにしっくり来ないな。

 走り去るバスの背中を見送る。

 きっともう、彼とは会わない。

 切られてしまったという彼の皮に妙な親近感を抱いている自分が、滑稽で笑えた。


 どしゃ降りの中、私はただただバスを待つ。

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