終章

終章



 カミは凪いだ。


 今や森は、誰にでも開かれている場所となった。というよりかは、森が人との関わりを絶ったという方が正しい。人が立ち入っても決して追い出そうとはせず、静と化している。

 森と関わらずには生きられない我々はそんな森に立ち入り、必要な獲物を狩り、畑田のための水を引き、子供たちを遊ばせる。我々がその樹を切ることもある。それで人が森で死ぬこともある。森の獣に襲われて命を落とす者も、洪水や土砂が崩れてそれに巻き込まれて行方知れずになる者もいる。

 我々は樹を切った代わりに新しい樹を植え、狩り得た獲物は肉や皮や骨を無駄なく使う。必要以上に獣を狩ること無く、森の中に響く鳥獣の声に耳を傾ける。

 森と共に生きられているのか、彼らの言葉を聞き届けられているのかはまだ分からない。いつかその答えが分かる日が来るだろうかと自問自答するばかりだ。


 まほろばはあの一件以来、森の開墾から一切の手を引き、我々はまほろばの大王の存在を認めながら、影響を受けにくいその場所でささやかに過ごしていた。巫女もなくした今では沙耶がこの森の最後の巫女となった。森の入口の社だけが残り、カミへの供物を年に数回そこに供えることをしていた。かつて巫女だけが捧げていた歌や舞もムラの皆で行っている。

 生きていくためには世の流れに乗らなければならない。そうであっても忘れられないものや胸の奥底にしまったものがあるのも確かだった。



「お父様!早く!」


 夕暮れの中で勇敢にも馬に跨がった娘が私を呼ぶ。十になったばかりだというのに、熟れた様子で馬を操る姿はムラの同い年の少年たちに負けないくらいだ。


「陽が暮れちゃう!」

「心配ない。陽が暮れた方が良いのだから」

「分かっているけれど、あそこで夕陽も見たいのよ」


 そう答えた娘は、馬に乗って進めぬところまで来ると、馬からひょいと降りて手綱を引きながら進み始めた。

 馬の足元を気遣いながらも早く目的の場所にまで行きたくて仕方が無いようで、娘は馬に何度も声を掛けながら先を見つめて進み続ける。決して休もうとはしない。


「お父様、ほら!」


 娘がぱっと私を振り返り、森の奥の、開けた場所を指さした。木々に囲まれたそこには光が溢れている。目が眩むほどだ。

 そこに出てしまえば馬にも乗れる。娘は当然だと言わんばかりに馬に飛び乗って走り出した。


「沙世」


 呼んでみたが娘は止まらない。分かっていたことだったと苦笑する。あの子はこうと決めたらとことん進んで行ってしまう。一体誰に似たのだろかと肩を竦めた。


 娘が駆けていく場所には古い社があり、青い泉があった。どれだけ年月が経ってもここで起きたことを昨日起きたことのように思い出せる。


「お父様、沙耶おばさまの樹だわ」


 沙世は沙耶のことをよく覚えているらしく、沙耶そのものだというこの樹が好きだった。馬を降り、ここまでの道のりを労うと梅の樹へと駆けていく娘の後を追った。


 歩いて進んでいる内に、僅かに残っていた陽の光は山並みに消えていく。そうして夜がやってくる。カミが形を持つ夜が。


 私は冬の寒さに身を震わせながら娘の隣に立ち、その樹を仰いだ。ムラの人々と建てた小さな祠が目の前にある。沙耶が梅となった場所だった。

 樹は白い花を枝に溢れさせ、私たちの視界を埋め尽くしている。花の白さは何もかもを飲み込むかのようだ。満開の季節だ。


「ああ」


 ひとしきり祠の前で祈っていた沙世が梅を眺めて感嘆を漏らした。


「綺麗ねえ」


 そうして沙世は小さな声で歌い始める。かつて沙耶が歌っていた巫女の歌だ。カミに捧げるための、森に孤独に存在するカミを慰める歌なのだと沙耶が言っていた。

 不意に背後から風が吹いた。何かがいる気配に振り返ると、遠く離れたところに一人の少年が佇んでいるのが見えた。まだ十五ほどの、幼さが残る顔つきの美しい少年だ。

 私に見つかったと知ったのか、彼はたんと地を蹴り、風に乗りながら光の尾を引いて我々の傍の梅の樹に音無く着地した。梅の花弁に埋もれたその姿は、まるでこの世のものではないような神秘さを取り巻いていた。

 夜にここを訪れる理由はこの少年を見たいがためだった。私がここへ来る度に、その子はよく私の近くに姿を現す。


「風が吹いたわ。私の従兄弟がいるのね」


 長い髪を抑えて沙世が笑った。

 沙世は沙耶の忘れ形見である従兄弟の存在は知っているものの、その姿は見えなかった。妻にも息子にも、ムラの人々にも見えない。私にしか彼を見ることが出来ない。

 ただ、姿が見えても言葉を交わすことは無い。彼は私や娘を、この森と共に生きる人々を傍観し続けている。


「また背が伸びたのよ。凄いでしょう。今に見てなさい、もっともっと伸びるのだから」


 少年は沙世の言葉を聞いて、子供らしい笑顔を湛え、返答の代わりに暖かな風を起こした。春を思わせる暖かさだった。


「ああ、もうすぐ春がやってくる。命は巡るのね」


 巫女であった沙耶と同じことを告げる娘に、口元を綻ばせる少年の顔は、どこか妹を思い出させ、妹が愛したあの男を彷彿させた。私は懐かしさに少年の表情から目を離せなくなる。

 そこに私が失った存在たちがいる気がした。決して手が届くことは無い存在が、彼の中にはあるのだと。


 やがて少年は枝を蹴って器用に宙で一回転すると、真っ白な犬になった。凛々しく、気高い白い犬。どこへ行くのかと尋ねようとした私を前に、神々しい獣はやがて鳥になって夜空へ羽ばたいた。


 同時に花が零れ、私は視界を埋める白さに息を飲む。


 その白さに垣間見た気がした。

 妹の姿を。真っ白な巨大な犬の首もとに頬を寄せて笑う、沙耶の姿を。


 目を開けて己の手の中に、いつの間にか握られていた白い花に気づき、自然と口元が綻んだ。

 カミも沙耶もあの子も我々と共にあるのだ。

 彼らは見ている。カミが凪いだこの森と共に、人々がどのようにこれからを歩んでいくかを。






 さあ。

 耳を澄ませよう。




 風の調べにそっと瞼を閉じ、囁く命の声に耳を傾け、巡る季節を見送ろう。

 沈黙したカミの声を聞き届けるために。



 生きていこう。

 皆の想いを継いで、己の命を抱きながら。




 この、神凪ぐ森で。





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