白梅
* * * * *
鎧も武器も、何もかもをかなぐり捨て、軽い衣一枚で次々と倒れていく木々の間を走り続ける。
どれだけ進んだかは分からない。それでもまほろばの男たちと進んでいた時と比べれば断然行くべき方向が分かっていた。森のすべてを知ったかのような、不思議な心地が全身を支配している。身体が軽い。どこまでも駆けて行ける。私は自由だった。
そうだ、あの頃。
妹を連れて森へ入った、子供の頃のように。
倒木の音を聞きながら感覚に任せて走り続けていると、突然梅の香りが強くなり、開けた場所に出た。
夜明けに近い空の下で私は一人、その光景に見入った。そこには春があった。鈴を鳴らした時にだけ感じていた春。沙耶の歌声が聞こえてきそうな場所だった。
足を止めて息を整えながらゆっくりあたりを見渡すと、緑の苔に囲まれた先に小さな社があった。森の入り口付近にあるものとほとんど同じ造りのようにも見えたが、近づいてみてやや小さく、かなり古いものであることを知った。造りを見るに、立て直されたことは無いだろう。
人の気配はないものの、社の傍の、日当りの良さげな所に小さな畑があった。作物の葉を認め、誰かが育てたのだとぼんやり考えつく。明らかに人工的なものだった。
沙耶だろうか。
ここは沙耶が過ごした森の最奥と呼ばれる場所か。
夜明けの冷たい空気に誘われて視線を上げた先に、大きな根と緑の苔に囲まれ、澄み渡るような深く青い水を静かに湛えている泉があった。傍に屈み込み、その青さを覗くと、空を映す水面に梅の花がいくつか流れてきた。
緑に覆われたこの大地には鮮やかすぎる紅で、この森のどこかに沙耶のいる梅の存在を悟る。
ふと、沙耶がよく、森には梅があると言っていたのを思い出した。幼少期に初めて森に入って迷い、一人生還したあの時、沙耶が握りしめていたのも梅の花だった。
立ち上がって泉の流れを追った。泉はある方向から小さな細い川となって続いていた。ひとつ、ふたつであった梅の花は、私が進むにつれその数を増やし、やがては川を紅色に染め上げるほどの数になった。まるで幻でも見ているような心地になった。
川を辿るにつれ、紅が濃くなるほどに私は理由が知れぬ焦燥に駆られ、地を蹴る力は強まった。この先に、血のような紅を湛えるもののその先に、沙耶がいる気がしたのだ。
尋常ではない数の梅の花が水面に零れ落ちている。おそらく樹があるはずだ。
これだけの梅を湛える主が。
無我夢中で駆け上がり、ついに森の樹に囲まれてある大きな梅の樹が現れた。あの樹だと分かった私の足の運びは速まった。
ようやく目前まで辿り着いた梅の樹は枯れ始めていた。その幹は私が両手を広げても回れぬほどの太さがあり、天を仰げば紅色の梅に視界が満たされるほど枝に花を湛えていたが、枯れているがためにその花を絶え間なく大地に落としている。気付けば、地面を覆う緑の苔も、梅の樹を囲む木々もすべてが茶色に枯れ始め、美しかった情景が無残にも一変し、枯れ葉が落ちる掠れた音の底知れぬ虚しさが一面に広がっていた。春が失われ、永遠に続く冬がすぐそこにある。死に飲み込まれているのだ。
森が、死ぬ。
胸が締め付けられるようだった。何がこうも変えてしまったかと言えば、それは間違いなく我々なのだ。
ここに本当に妹がいるのかと梅の樹へ歩を進めると、その根元に寄り添う人の姿を認めた。誰であるかを知って鼓動が跳ね上がった。頬を強く打たれたように我に返り、存在を確かめようと駆け寄った。
「沙耶!」
巨大な根に抱かれるように寄りかかっていたのは、血を分けた実の妹だった。
地に膝をつき、顔に掛かった長い黒髪を手で払い、目を閉じる妹の頬に触れた。そこに思い描いていた温もりはなく、こちらが震え上がるほどに冷たい。薄明かりではっきりは見えないが、沙耶の顔は青白く、髪は顔に垂れ、傍に落ちた紅の花とは対照的だった。まるで死人のようだ。しかし辛うじて呼吸はあった。浅く、今にも途絶えそうであったが息はしていた。
生きている──安堵するのも束の間で、沙耶の身体半分が梅の根に埋まっているのを見て驚愕した。梅の樹が沙耶を引き込もうと飲み込み、沙耶の腰から上がまだ人として存在していた。
「沙耶!沙耶!」
必死に沙耶の冷たい肩を揺さぶって呼びかけた。沙耶の身体をどうにか樹から離そうとしたが、樹に接している沙耶の身体そのものが樹であるかのように離れない。
「沙耶!!!」
ほとんど叫ぶようにして名を呼ぶと、沙耶の瞼が震えながら動き出した。瞼の間から覗いた懐かしい瞳は、ゆっくりと私を捉え、驚きに少しだけ見開かれた。
「……兄、様」
掠れた声も、私を映す透き通った黒い瞳も、間違いなく自分の妹のものだった。
「そうだ、私だ、お前の兄だ」
生きていると知って、弱々しく微笑んで見せる妹の上半身を胸に抱いた。
「沙耶、沙耶」
「また、会えるなんて」
私の胸元に頬を寄せ、嬉しそうに頬を綻ばせる妹を、噛み締めるように腕に力を込めて抱いた。そのまま樹から引き離そうとしたが、やはりびくともしない。太刀か何か刃物で根を傷つけようにも、すべて捨ててきた今の自分には沙耶を樹から切り出す手段がなかった。
「この樹は何だ、何故お前に張り付いている」
「駄目です。もう離れない。私がそう願ったのです」
沙耶自身が願った、とはどういうことなのか。
「兄様、どうか、どうか聞いて下さい」
どうにか樹を離す術はないかと思考を巡らす私の衣を掴み、沙耶は懇願した。
「私は……私はここで幸せに暮らしたのです。立派に子も産みました。あの人との子です」
か細い声ながらも、妹は私に伝えようと懸命になった。
子供。あの時沙耶が腹に宿していた森のカミの子のこと。はたと思い出してあたりを見渡した。妹は腹の子を産んだとあの男は言っていたのだ。
「……産んだのか」
カミの子を。
「はい」
沙耶が力強く頷いた。
「私は母となったのです」
彼女は私の腕の中で誇らしげに微笑む。思いを馳せるように視線を頭上の樹に向けた。
「とても可愛いのよ。泣きたいほどに愛おしい。兄様に会わせてあげたかった」
沙耶にとっての我が子だ。己の命よりも愛おしいのは私にも分かる。
沙耶は、母となったのだ。私や母が望んだように、普通の娘と等しく愛した者と結ばれてその間に子を宿して産み落とした。そして育てたのだ。
私が願っていたのは妹のこの笑顔だったのではないか。母として、人としての誇りを漲らせ、一本の強い光のようにまっすぐとした眼差しで微笑む、この表情。
私は愚かだ。妹の幸せはここにあったというのに。何故、今更それに気付くのか。
「その子は、どこにいる」
尋ねると、妹の微笑みに寂しさが浮かんだ。
「兄様でも見つけることは出来ないでしょう……あの子は、父親と同じようにこの森と人を見守り続けるのです……兄様にも私にも手の届かぬところへ行ってしまった」
「幼子が一人で生きて行けるのか」
「あの子はただの子ではありませんもの」
弱々しく妹は顔を綻ばせた。
「カミの血を受け継いだ、カミの力を持つ私の子です。あなたの甥はそういう子です」
もう我が子とは永遠に会えないのだと告げているようでありながら、絶対的な確信めいたものが沙耶にはあった。
「あの人は、亡くなったのですね……人の手によって」
沙耶は我々が殺めたあの男ことを言っていた。妹もまた、すべてを知っている。
「私を庇って命を落とした。彼は私を知っていた。私のことをすべて……そしてお前のことを教えてくれたのだ。だからここへ来た」
あの男は私を見て、沙耶の名を呟いたのだ。
私をまほろばの兵からの攻撃から救い、私の傷を癒し、妹の居場所を教え、こうして私たち兄妹を会わせてくれた。
「あの人が、兄様を……」
妹は瞼を閉じると一層の涙を頬に流した。
「沙耶、私はお前だけでも救いたい」
「……兄様」
「ムラへ帰ろう。母上も叔父上もいる。皆お前を心配している。まほろばも何もない場所で生きよう。共に帰ろう。ムラと森とともに、昔と同じように」
しかし沙耶は緩やかに首を横に振った。
「それはできません」
「何故」
「一度変わってしまったものは、二度ともとには戻らないのだから」
それに、と沙耶は目を伏せる。
「私はカミの妻です。私はこの梅の樹になるのです。そしてこの森と一体となり、あの人と共に参ります」
気付けば、先程よりも妹の身体は樹に食われていた。腰から上腹部まで根は浸食している。これ以上飲み込ませてなるものかと妹の身体を抱き寄せた。
「駄目だ、巫女としてまた社で暮らせば良い!それならば……」
「いいえ、兄様」
話を聞いて欲しいと、妹はまたもや私の衣を掴んで引く。
「私はあの子を産んだ時、この命を一度落としているのです。それをあの人が繋いでくれたから、今まで生き長らえて来ただけだった」
「それはどういう」
「彼の命が絶えたのなら、私のこの命ももう長くはない。まもなく消えゆくものです。私の命はあの人の最後のカミの力で、あの人の命に繋がれていたのですから」
あの男の命と、沙耶の命が、繋がっていた。
告げられていることの意味が把握しきれず、頭が真っ白になる。
「私の生は、あの人の生と共にありました」
ようやく飲み込む。沙耶の言わんとしていることに。己のしたことに。
「兄様がここへ辿り着けたのは、あの人が導いたからなのでしょう……あの人はいつも、私を喜ばせようとしてくれたから」
沙耶の命は、あの男と繋がっていた。その男を、私たちは殺めた。繋がれていたものを失った沙耶は死にゆくしかない。
「沙耶、そんな、沙耶」
妹は、死ぬのだから、森に守られるようにしてあるこの梅の樹になるのだと言っているのだ。
「死ぬな、沙耶。死なないでくれ」
取り乱したように私は妹を深く抱き締めた。母に縋り付く幼子のようだった。
「兄様、最期にお会いできて良かった」
私の懇願に、妹は頷かない。
穏やかな笑みを浮かべ、その瞳に涙の膜を張っている。瞳は僅かな朝の光を細かく反射させ、何もかもを見透かしているようだった。
妹の姿は今にも消えてしまいそうなほどに美しく、儚く、透き通って見えた。
「兄様と森へ遊びに入ったあの頃を思い出します……あの頃は幸せだった。苦しみも怒りも、悲しみもなく、純粋に森を愛して、他の何物にもとらわれず……そして、何よりも無垢だった」
妹の顔に私の涙が落ちた。恵みの雨を浴びるかのように、妹は眩しそうな表情をしてそれを受け入れている。
「森はこれから、人との関わりを無くします。それが人のさだめなら、そうして生きていくしかない……けれどたとえどれだけ世界が変わってしまっても、兄様たちは生きていける。だって兄様は森を、森のカミを知っていますもの。その存在を感じたことがありますもの」
嗚咽が漏れた。肩が震え、噛み締めた歯と歯の間から呻きが漏れる。
「そしてまだ、愛していますもの」
何も変わらなければ、私は無垢でいられただろうか。この沙耶のように。
私はまだ、森を愛して生きていけるだろうか。
「忘れないで。カミはいるのです。私はこの梅の樹から見守っています。ずっと、これからを」
ぽろぽろと音無く落ちていた紅の花の数が増す。妹の周りに次々と落ち、そこらを紅に染め上げる。
「森の声を聞いて。花や風や、あらゆるものの声に耳を傾けて」
沙耶は微笑みながら私の頬に流れる涙を拭い、柔らかな声音で告げた。
「それらには皆、名があり、言葉があるのですから」
沙耶。沙耶。
私のただ一人の妹。
こんな結末を願っていた訳では無かった。妹とのこんな別れを望んでいた訳ではなかった。
「兄様」
花が舞う。視界を紅でいっぱいにする。風が吹き、梅の香りで埋め尽くされる。
「──生きて」
風が止み、私の腕の中には沙耶の身体の代わりに沢山の紅梅が溢れていた。
花をかいくぐり、あたりを探しても妹の姿はどこにもない。
「沙耶……!」
仰いだ梅の樹は、まるで沙耶の命を表すかのように突如芽吹き、新たな白い梅の花を咲かせていた。
魂が抜けたようにしばらく梅の樹の根元に座り込んでいた。身体が動かなかった。動かすのも億劫だった。思考を働かせることも憚られて、宙をぼんやりと眺め続けている。虚ろだった。
沙耶はもうこの世のどこにもいない。骨も血も、何も残さず無くなってしまった。沙耶はもう、我々の記憶の世界でしか存在しない。
苦しい。虚しい。自分がここで生き長らえていることが。
いっそのこと、ここで死んでしまおうか。
そんなことをぼんやりと考える。それしか思考が回らなかった。
手元に視線を落とすと、影が濃くなっていた。
光がなければ影は生まれない。影が濃くなると言うことは、光があるということだ。
どこから。背後から。
軋む音が聞こえそうな固まった身体を動かし、私は背後を振り返った。
朝陽が、昇っていた。暖かな、生を象徴するかのような黄金の光。その光が枯れた大地に降り注ぎ、私を照らす。
固まった顔の筋肉が動き出す。声が出る。呻くような声。指先が動く。小刻みに震える感覚。朝明けの空気の冷たさを全身で知る。感覚というものすべてが甦るようだった。
私は、生きている。
ここでひとり。沙耶もカミも森も、死んでしまったというのに。
──生きて。
沙耶が私に最期にかけた言葉が頭の中に落ちてきた。それは私の身体の奥底から暖かなものを沸き立たせた。咄嗟に胸元の衣を掴んだ。
これが命なのだ。生というものなのだ。
命というものを、これほどに感じたことはない。
何かが絶えず、私にこの生を、命を知らしめてくる。虚しく生き残ったこの私に。
呻いて地面に額を押しつけた。腹の奥から沸き上がるものを声にして押し出した。獣のような声は地鳴りを起こすように辺りに響いた。
償いは、死ではない。生きていかなければならない。森を殺めた存在として。
ここで、この枯れた森と共に生きることこそが、あの男や沙耶を殺めたことへの報いとなる。
沙耶や沙耶の愛した男の最期を知るのは自分だけ。伝えなければならない。かつて森やカミを愛した者たちに。沙耶の言葉を。森の言葉を。カミの存在を。沙耶の死の意味を。
震える足を奮い立たせ、二本の足で大地を踏みしめる。ふらついて倒れそうになりながらも立ち上がった身体は大きな殻を破り出たかのような清々しさを感じた。
息をする。己の鼓動を聞く。己の生を噛み締める。
私はまだ、生きている。
ムラへと歩き始めた大地は、死に包まれた茶色の奥から徐々に緑を生み出していた。森が生き返ろうとしているのだ。
しかし生き返ったとしても、もう私たちの知る森では無い。沙耶が言ったように私たち人と森の関係は絶たれた。これからこの森といかにして共存していくかが、カミを殺し、新たな道を歩み出した我々に課せられたものなのだろう。
──生きて。
「生きなければ」
妹に向けて放たれた私の声は、朝霧の中に吸い込まれていった。
叔父たちのいる場所に戻った私を叔父は迎えてくれた。何も聞かず、憔悴した様子の私の肩を撫で、すべて分かっていると言わんばかりに泣きそうな顔で何度も頷いた。
「……カミの遺体は」
尋ねた私に、叔父はあるところを指さした。その先に生き残った人が集まって呆然としていた。
誰も何も言わない。座り込む者も、項垂れる者も、頭を抱え、身を小さくしている者もいる。あれほどカミの首を取ると息巻いていた近侍も、主の死体の傍で祈るようにして蹲っていた。
彼らを掻き分けてその場所を覗いた先にあったのは、白い梅の花だった。どこから飛んできたのか、白い花がこれでもかと積もり、そこ一帯に梅の香りに満ちていた。沙耶の梅だと気付くのにそう時間は掛からなかった。
梅の下に遺体が埋もれているのかと一人屈んで花を避けてみたが、そこにあったはずの男の亡骸はなかった。
叔父の話に寄れば、突風が吹いて花が飛んできたのだと言う。降り積もった花を避けても避けても遺体が見えず、ようやく掻き分けたと思うと地面しかなかったのだと。
遺体が消えた事実に、やはりとんでもない物を我らは殺したのではないかと周りの者たちは震え上がって放心しているのだとも。
ああ、と息をつき、空を仰ぐ。
なんて果ての無い青さか。風と共に梅の香りが昇り行く。
目を閉じても梅の白さが離れなかった。
沙耶が連れて行ったのだ。
自分の愛したあの男を。
瞼を閉じたままに耳を澄ませれば、沙耶の柔らかな手が私の頬を優しく撫でていった気がした。
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