願い


* * * * *



 人の声がする。悲鳴がする。血の匂いがする。

 暗闇に満ちた森は、私たちを飲み込もうとするかのようだ。


「かあさま」


 私を案じる真白の呼びかけでどうにか意識を保つ。

 彼のいる方向を目指して森を進んでいたものの、息が苦しく、思い通りに足が進まなかった。数歩進むだけで膝が震えて両手を地についてしまう。今までこういうことなどなかったのに、一体私の身体はどうしてしまったのか。


「かあさま」


 膝をついた私を真白が覗き込んだ。


「ごめんなさい、少しだけ休ませて」


 うん、と頷いたその子は私の隣に身体を小さくして座った。

 私はそのまま息子を抱き寄せて、大きく息をついた。

 胸がぐっと痛む。呼吸が落ち着かない。身体が言うことを聞かない。真白が何度か治そうと試みてくれたが、それも効かなかった。あの社の場所を出たのがいけなかったのか、彼の力が弱まっているためなのかは分からなかった。

 目を閉じれば、また人の声が聞こえた。叫び声だ。恐怖に蠢いている。森が騒いでいる。血に濡れている。そして獣の咆哮。これには聞き覚えがあった。


 ああ、あなた。

 あなたもそこにいるのだろうか。

 人とカミはもう相容れないのか。


 私さえ行けば、治まるかも知れない。もともと人とカミとを結ぶことが巫女としての私の役目だった。きっと兄もそこにいる。


「兄様……どうか」


 あの人をどうか殺さないで。


 私は願うことしかできないでいる。彼を一人で行かせないために森の最奥を出てきたというのに。


「早く、行かなければ……」


 どうにか樹を支えに立ち上がったが、思うように足が動かせなかった。

触れた足がひどく冷たく、戸惑った。体温がない。まるで死人のもののようだ。

 もしかしたら、私の身体はもう。


「真白」


 私を気遣いながら進む子を呼びかけた。真白が足を止めると同時に、また私の足は崩れてしまう。


「かあさま」


 泣きそうな顔をして私の前に屈むその子の頭を撫でた。


「冷たいでしょう。ごめんなさいね」


 足だけではなく、手も顔も冷たかった。それでも我が子に触れていたかった。だいじょうぶ、と呟く真白は私の言葉を聞こうと円らな瞳を向けてくる。


「お父様がどこにいるか分かるわね」


 こくんと息子は頷いて、ある方向を指さした。


「あなただけでもお父様のところに行ってちょうだい。母の身体ではお父様のところまで行けないから……真白、あなただけでも」


 言いかけた私に、間髪いれずに真白は縋り付いた。


「いや!」


 私が言わんとしていることを察して、それを全力で拒む。


「いやあ!ひとりじゃいかない!」

「真白、お願い。お父様のところへいって、お父様を助けてちょうだい」

「かあさまがいないのはいや!」


 真白はついには泣き出して、私の衣から離れなくなってしまう。

 こんなにも小さな子を、父親がいる戦いの場所へ向かわせようとすること自体がおかしいのは分かっている。けれど、今にも尽きそうな身体の私のもとにいても、この子が無事である確証はない。私の身体がどこまで保つか定かではない今、父親のもとへ行かせることが賢明だろう。

 普段なら私から離れてどこまでも行ってしまうのに、今回ばかりは私から離れてくれない。私の命の短さを、この子もまた感じているのだろか。


「……真白」


 困ったままの私から顔をあげた真白は目を青くして、くるりとした子犬に姿を変えた。私に白い毛並みの背中を向けて振り返ってくる。乗れということだ。

 この子は私と一緒に獣姿の彼の背に乗って空を飛んだことがある。楽しかった、幸せだった時の思い出だ。

 この獣の姿ならば、この子は風に乗って父親のところにまで行くことができるが、この子に私を背に乗せて運ぶことは出来ない。


「ああ……真白、真白、優しい子ね……ありがとう。いいのよ、いいの」


 自分の不甲斐なさに涙が溢れる。子犬姿の我が子を抱き締めた。


「大丈夫、このまま行きましょう」


 傍の樹を頼りに立ち上がった。

 少しずつであれば動かせる。もしかすれば彼が私たちに気付いて来てくれるかも知れない。


「人の姿に戻って、また私の冷たい手を引いてくれる?」


 頷いた子犬はまた青い光を放って見慣れた幼子の姿になって、私の手をぎゅっと握った。



 何度か転ぶように膝をつき、しばらく這いながら進むことを繰り返していた時、真白がはっと空を見上げた。


「……真白?」


 強く風が吹き込み、その子の髪を吹き上げる。蒼穹を貫く光のようにまっすぐと空を仰ぐ我が子は、恐ろしいくらいに神々しく、人からかけ離れた存在に見えた。まるで出会った当初の彼のように。

 その時、己の中に繋がれていた泉のような青の糸が薄れていくのを知った。彼が私を生に繋いでくれていたものだ。私の命を繋いでくれていた、あの青い光が消えた。


──ああ。


 私も今まで自分が向かっていた方向を、愛しい人がいる方角を見やった。

 あの人は、彼は、死んだのだと。


「……あなた」


 信じがたい気持ちがありながら、命を失ったという確証が、自分の中にあった。

 私は間に合わなかったのだと。あの別れが、最後になってしまったのだと。そして私の命ももう間もなく尽きるのだと。


「ま、真白」


 これが我が子とも最後になることを思い出し、その子の姿を探して駆け寄った。先程まで天に向かって立ち尽くしていた子は、地に蹲って藻掻いていた。


「真白……!どうしたの、真白!」


 血相を変えて地面を引っ掻くようにして苦しんでいる。その子の背を擦り、抱き寄せようとすると、小さな身体が淡く光り始め、その子が呼吸をするほどに身体は大きくなり、見る見るうちに十五ばかりの少年の背丈になった。


「……真白?」


 やがて光は失せ、私に名を呼ばれた真白はゆっくりと顔をあげて私をその目に映した。瞳の奥には青がある。最初は兄に似ていると思ったその顔は、つい今し方亡くなった父親によく似ていた。


「……ああ」


 私は思わず成長した我が子の頬に手を伸ばした。


「かあ、さま」


 私の手の中で瞳を青くしたまま、その子は悲しさに顔を大きく歪めた。男性らしく低くなった声音は幼子のように震えている。


「とう……とうさま、は、死んで、しまった」


 ぼろぼろとその青い目から涙を零す。額を付き合わせるようにした私の目からも同じように涙が落ちていった。そのまま強く我が子を抱き締めた。彼の死への悲しみを共感し、泣くことができるのは、きっとこの子だけなのだ。


「かあさま……まことの、名」


 私の耳元で、その子は震えながら声を発した。


「名を、かあさまに」


 あなたの名。

 彼が言っていた、生まれて来る時にその身に宿す音。いずれ森のカミから自然と授けられ、自ら名乗るようになるものだと。

 真白という私がつけた名を捨てる時がこの子にやってきたのだ。


「私の名、は」


 耳元で告げられたその名に、私は息をのんだ。その名は、この子の父が私を妻にする時に告げたものと同じだった。今し方亡くなった、私の夫の名だった。


 ああ、と息を吐く。

 そうだったのだ。この子は。


「行かなければ」


 そう告げたその子は、父親似の面持ちで私から身体を離して立ち上がった。その背丈は私を優に超えている。


「父の代わりとなるために」


 行くのだと知った。己の生まれてきた意味、その役目を理解して。私と出会う前の、自分の父と同じように。


「お父様のもとへ……?」


 その子は静かに首を横に振った。


「森はもう人に何も与えることはない。父を殺めたことで人と森の関係は絶たれた。森は自らをも静と化す」


 なんて人から離れた表情だろうか。これがこの子のさだめなのか。


「私は人々の行く末を見届ける。カミと人との間に生まれた存在として」


 告げてから私に視線を落としたその子は、悲しげな顔をした。私の命の儚さを知ってだろうか。間もなくやってくる別れを知ってだろうか。


「かあさま」


 その呼び方は幼い姿の頃と何も変わっていないのだと、愛おしさに笑みが零れた。両手を伸ばした私に身を屈めてくれた我が子を、これが最後なのだろうと思いながら力の限り抱き締める。


「あなたを愛してる」


 幸せだった。愛おしかった。辛いことの方が多かった私の人生を、一番華やいだものにしてくれたのは間違いなくこの子と彼だった。


「忘れないで。お父様とお母様はあなたと一緒にいるのよ。どこまでも。いつまでも」


 その子は、私の肩口に顔を埋めて頷いた。

 永く続く命の中で、私や彼に愛されたことを忘れないでいてほしい。

 願わくは、この子の生が幸せでありますように。


「……願いを聞いてくれるかしら」


 私から身体を離したその子は父に似た顔で私を覗き込んだ。


「私をあの梅のもとへ連れて行って」


 私が死ぬことは、もうこの子の力でも救えないことは、きっと知っている。我が子がいやだと泣くことはもうなかった。


「最期は、あの場所で」


 彼が大事にしていたあの梅の樹へ。私と彼が最初に出会って仰いだあの場所へ。


「私は、あの場所で、お父様と共に逝くことができる。母の最後の願いをどうか」


 愛しい子は涙を流し、動かない私の身体を抱き上げ、たんと地を蹴って青みがかった空へ飛んだ。


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