祟り
予定よりも早く、二月程でまほろばの男は五百の猛者を連れ立って戻ってきた。ムラの人々はその異様とも言える集団を見て怯え、自らの住居に身を隠した。
「与一、息災であったか」
男は迎えた私に対してそう告げる。煌びやかな装飾をつけた馬から身軽に降り、地面に膝をつく私の前に立った。
「状況は変わらぬな」
「はい、何も」
振り返った彼は、ムラの奥に聳える巨大な森を仰ぎ、自らの新しい太刀を抜いて不気味とも言える森を示した。
「あれが忌まわしきカミの森ぞ。我々は太古よりここに住み着く化け物を殺め、新たな世を築くのだ」
声高々に放たれた言葉に、彼が連れだってきた猛者たちは野太い声を上げ、森を睨み付けるようにした。
嫌な風が森側から流れてくる。冷え切った空気が己の髪を揺らした。木霊のように男たちの声が響く。
森は、気づいているだろうか。この声に、殺意が含まれていることに。
早速、まほろばの男は意気揚々と私の屋敷へと足を踏み入れた。大量に持ち込んだ武器や馬、見たこともない器具たちを降ろし、猛者たちが組み立てていくのを眺めながら屋敷の奥へと歩き出す。私は近侍と共に彼に従った。
「与一よ、少し待てば更に精鋭と呼ばれるカミ殺しの男たちが五百ほど到着するぞ。ただし、二日後に一度森へ踏み込む」
「二日後にですか」
まだ精鋭たちが到着していないというのに。
私の返答に歩みを止めた男は庭にある大量の武器を指さした。
「どれくらいの鉄の量であの化け物が怯えるか試すのだ。雨風が起るのだろう?力を封じられる鉄の量を調べようと考えている」
この最初の部隊で森への侵入を試みる──。
精鋭が到着した時にカミがいるという森の最奥に少しでも早く近づけるようにするため、道を開けておこうという算段らしい。まずは今まで森を殺めたという方法、つまり大量の鉄を持ち込むという手段を試すことになった。
二日過ぎるといくつかに分けてムラへ運び込まれる鉄の大部分が到着し、男が宣言したとおり早朝から森の入り口に配置され、森への侵入が開始された。
濃い霧が漂う中、朝陽が差し込み始めた中に浮かび上がる巨大な森の姿は恐ろしさを湛えて我々を見下ろしているように感じた。多くの者がその人の世から掛け離れたただならぬ雰囲気に息を飲み、誰もが口を開かず、足が動かせないでいる。息をも潜めるようにして沈黙が漂う。
何の音もない。気配も何も。
ただただ大いなる者と敵対しようとしているのだと気づかされる。
自分がこの森を侵そうとしているのだという事実が、嫌と言うほどに身体を取り巻き、罪悪感なのか何であるのか得体の知れないものにとらわれている感覚だけが鮮明にあった。
「……この先にまず、巫女のための社があります」
辛うじて喉から声が出た。私の声で我に返ったかのように馬上の男と隣にいた近侍はこちらを振り返る。
「そこにさえ未だ鉄を持ち込んだことはありませぬ。一度そこを目指すのはいかがかと」
男は頷いた。
「与一の言うとおりに進むぞ。まずは社だ」
主人の言葉を聞き届けた近侍は他の猛者たちにそれを大声で伝えた。近侍が太刀を引き抜き、真っ直ぐ森へ向けた。これが合図だった。兵たちは森に向けた足先を前へ動かした。鉄で成した見たこともない武器と、鉄の太刀を携えて。
私はまほろばの男とその様子を眺めている。兵たちがいざ森へ一歩、踏み入れようとした時、男が馬の手綱を握り直したのを見た。同時に私も足を進め、そのまま森への侵入が叶うかと思った瞬間。
地響きが起った。地が波打つ。地がうなり声を上げる。声が地を伝い、我々の足裏から身体へその振動を伝えるかのように。
「怯むな!!」
皆が動きを止めようとした中で、男の声が響き渡る。
「進め!!!我々はカミを殺し、次の世に進む者たちであることを忘れたか!」
太刀を握りしめ、進めと切っ先を森に向けた。彼らが更に踏み込もうとすると今度は突風が森から吹き荒れ、空に忽ち暗雲が生まれ蠢き、雨風が起きた。
森が拒んでいることは明白だ。時間が止まっているかのようだった。
最初差し込んだ朝陽が幻だったかのように、見慣れたはずの風景は夜のように暗く嵐の前触れに似た情景に変貌する。
気づいた時には夜だった。おそらく夜になったと言った方が正しい。
何せ、辺りは暗いまま我々を何かで覆い尽くしているかのようで暗闇は恐ろしいほどその深い色を増していた。どれだけ鉄を増やしてもそれは変わらなかった。鉄を持っているという事実だけで森は我々の侵入を許さなかった。
纏う衣はひどい雨に打たれて重くなり、動きを鈍らせ、雷鳴が轟き、あたりは一瞬昼間のごとく明るくなった。
我々の前にあった一本の樹がその雷に打たれ、瞬く間に燃え上がった。天にまで昇りそうな炎に誰もが侵入への足を止める。
ざわめきが起った。明らかに「祟り」というものだと考えが行き着く。まほろばの男は猛者であった者たちを叱咤するが、彼らの足は竦み始めた。
やがて、燃え上がっていた樹が我々めがけて倒れ込むのが見えた。枝が折れ、幹が軋み、耳を塞ぎたくなるほど大きな音を立てて樹が折れたのだ。その真下にいた兵が動けなかったのか下敷きになった。
悲鳴が上がった。助けに走った者たちもいたが、あれでは助かるまいと漠然と感じた。そもそも火が消えないのだ。これだけの雨が降っているというのに。
隣の馬上の男を見上げると、彼は顔面蒼白の状態でありながら未だ森を睨み付けている。
「一度、立て直した方が宜しいのでは」
近侍が提案した時、嫌な気配が近づいているのを知った。
ざわりと背筋が騒ぐ。どっと、不安と言う名の感情があふれ出るかのようだ。ここは危険だと全身が言っている。
何かが、来る。
こちらに近づいているのが分かっていながらどこからやってくるのか分からない。
どこからだ。
はっとして森を見る。
森だ。森の暗闇の中から。炎と森の沈黙と共にこちらへ。
あの男だろうか。沙耶を連れ去った、今回の標的の。
いや。違う。
得体の知れない、この世のものではない、何か。
「……駄目だ」
本能的に口から出た言葉だった。冷や汗が背中を伝う。
おかしい。変だ。
周りは誰も感じていないのか。
これを。この身の毛が弥立つような悍ましい感覚を。
今にもここから逃げ出したくなるような。
「駄目だ!離れろ!」
弾かれるように叫んだと同時だった。燃え上がった樹の傍にいた者、森への入り口にもっとも近くにいた二人が突然何の前触れもなく倒れたのだ。
誰もがぎょっとして倒れた男たちを凝視した。雷に打たれた訳でも無く、何かに刺された訳でもなければ流血などしていない。何もなかった。だというのに今その男たちは何かに弾かれたかのように倒れ、動かなくなったのだ。
瞬きもせず、呼吸のための胸の上下の動きも見えない。目を見開いたまま、天から落ちてくるいくつもの雫に打たれ続けている。
倒れた二人には「生」がなかった。奪われたのだ。彼らは、死んだのだ。
それをここにいる誰もが察したのだろう、皆が言葉を発さなかった。
身体の奥が震え出すのを感じながら森を仰いだ。それ以上声が出せなかった。兵二人を突然無としたその存在が、何より恐ろしいものだと知っていたからだ。
「何をしている!」
獣のような叫び声に、誰もが我に返るように振り向いた。人の世ではないところに入りかけていた我々を人の世に引き戻すような声。そして恐ろしく聞き覚えのある声だと思った。
「駄目だ!祟りが落ちるぞ!これ以上立ち入るな!」
顔は白髪の交じった髭に覆われ、身に纏う衣は泥や雨に濡れて汚れている。
「お前たちが手にしているのは鉄だろう!森が威嚇を始める!死を放つぞ!」
吹き荒れる雨風とその伸びきった髪で顔が判別できない。浮浪者か旅人か、だがその声に聞き覚えがあるのは何故なのか。
「……一旦引くぞ」
何が起ったか把握できないまま、まほろばの男は兵たちを撤退させた。
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