第六章

殺める者

* * * * *

 私は母の反対を押し切ってまほろばの男沙耶の夫に沙耶が森のカミに攫われた旨を記した文を送った。何度か繰り返し使者が遣わされ、沙耶の姿がない事実を認めると、三月後にようやく大げさに飾り立てた馬に乗って多くの従者と共にその男は我らのムラへやってきた。

 まほろばの男には、沙耶やカヤが言っていた通り右腕がなかった。包帯で首からつるし、そこを覆うように衣を纏っている。


「久しいな」


 屋敷へ上がり、上座に座った男の表情には冷たい笑みが張り付いてあった。

 さて、と男はその視線を向かいに跪く私に向けた。


「私の妻である沙耶が連れ去られたと聞いている。それで間違いないな?ムラの長、与一よ」


 従者から報告を受けながら男は屋敷を見渡して告げた。私はその男に跪き、「はい」と頷く。


「沙耶はあなた様より休養を頂きここで身を休め、病を癒やそうと尽力しておりましたが、戻ってひと月が経った日の夜に連れ去られたのです」

「今から六月前のことになるのだな」


 沙耶の子は、生まれているかも知れない。無事出産を終えたのか。沙耶の安否を知る術はなかった。


「それも相手は森の化け物であると?」

「はい」

「それは人の姿であったというではないか。私のこの腕を噛み切ったのは犬の姿であったぞ」


 沙耶を連れ去ったあの化け物は紛れもなく人の形をしていた。息を飲むほどに美しい男の姿で沙耶を抱いていたのだ。


「仰せの通りです。しかしあの化け物は人や獣に姿を変えることができると聞き及んでおります。おそらくはその犬と同じ存在であるかと」


 彼はまた冷たい声で笑った。


「ならば、その化け物がやはり私の憎むべき対象であるのだな。私の腕を噛み切り、我が妻を連れ去ったと」


 そう言いながら相手は己の失われた腕を擦る。


「我が腕を噛み切ったこと、許しはせぬ。この残った腕であの首を引き裂いてくれよう」


 恨みの籠もった低い声だ。あのカミの森へ足を踏み入れるつもりだと、相手の目を見て確信した。

 沙耶がその子供を身籠っていることは伝えていなかった。あくまで連れ去られたというだけで、沙耶が自らそれを望んだこともこの男は知らない。ここへ戻った沙耶が、普通の女としての幸せな暮らしをするためにも。夫を裏切った女という烙印を押させないためにも、私はこれ以上のことを言うつもりはなかった。


「与一、そなたとの話はこれからのことに関してだ」


 姿勢を変え、相手は改めて静かに告げた。


「沙耶は私の大事な妻だ。妻を奪われた私は怒りが心頭に達している」


 心にもないことを言う男に、私は頷きを返す。


「そしてまほろばの大王は不思議な力を持つ我が妻に興味をお示しになられ、差し出せと仰せであられる……ということは、沙耶は大王のお側に仕えるべき、得がたい娘ということになるのだ。それを奪われたとなれば古より守られてきた神聖な森を踏み荒らす理由は十分となる。そうだな?」

「仰せの通りです」


 この男は取り戻した沙耶を、大王に差し出す気なのだ。己の名誉のために。

 面を床に向けながら相手には見えない唇を強く噛んだ。取り返した妹をみすみすこの男の思うままにするつもりはなかった。そもそもこの男さえ沙耶に興味を示さなければ、沙耶はここで慎ましく生きていたのだ。あの化け物の子を身籠ることもなく。

 沙耶を連れ戻した暁には死んだと偽り、遠くの地に逃がし、どこか他の男と添い遂げさせることが出来ればと密かに考えていた。


「あの化け物の襲来により、カミへの信仰復活を説く声もあるが、我らは最早古のカミを奉る気はない。そもそも得体の知れないものを神だと信仰の対象として崇めていた人間が愚かだったのだ。人の神は人であろう。我々はその古びた伝統を打ち破る必要があるのだ」


 その意見には賛同だった。我々は妄信的にカミというものを、森の棲まう化け物を勝手に崇めていただけなのだ。


「よってあの森のカミを潰そうと考えている。他の森にしてきたように」


 男の至った結論に喉の奥が笑うようにひくつく。

 そうだ。森に行くのだ。踏み入れるのだ。

 これを私は待っていた。


「与一」


 呼ばれて顔を上げ、冷たい表情に優雅さを醸す男を見据える。


「大王の欲するお前の妹を取り戻すには、あの森のカミを殺さねばならぬということだが、森のムラの長であるそなたはそれを如何に考える?」


 沙耶をあの化け物から取り戻されるのであれば何であっても厭わない。

 これでいい。我々は森を信じることをやめるのだ。時代の先へ、行かなければならない。昔のままで滅んでいくわけにはいかない。時は流れていく。あまりにも大きな変化を伴って。

 ムラの者たちの森への信仰は以前のまほろばとの戦いで失われた。沙耶を失い、森と人を繋ぐものが無くなった今、森の存在はムラにとっても非情で無意味なものとなりつつある。

 人を救えるのは人だ。私のこの考えに、全うから反対する者は、今このムラに誰一人としていまい。

 息をつき、私ははっきりとした声で返答する。


「森を潰さねば。カミを殺さねばなりませぬ」


 カミを。


 殺せ。


 ──カミを、殺すのだ。


 その言葉が何度も脳裏に反芻する。


「どうか尊きまほろばのお力をお貸しください」


 まほろばの男は、跪く私に大きく頷いて優雅に笑って見せた。



 まほろばの男はまず大王に遣いを走らせた。大王が望む沙耶が森のカミに攫われたこと。カミを討たんとするために挙兵をすることと相成ったこと。加えてその挙兵に大王の力を貸して欲しいと願い出た。

 大王からの使者は思っていたよりも早くやってきて、カミ討伐のための道具を揃え、今まで他の森を殺してきた猛者たちを送り込んでくれるとの快い返事だったそうだ。


「準備まで三月はかかろう」


 男は言った。


「それほどにかかるのですか」


 私は驚いて聞き返すと、男の隣にいた近侍が目をむいたが男は軽く嗤って宥めた。


「そう慌てるな。この森は今まで戦った森とは比較にならぬ。備えは万全にする必要がある。念には念をだ。ここはまほろばからも遠い地故、時間はかかるのは必然と言えよう」


 相手の言い分に私は頷く。


「鉄を用意しているのですか」


 そうだと相手は頷いた。


「鉄はもっともカミが苦手とするものだと聞く」

「我々も古来、森へ鉄を持ち込むことは禁じられておりました」

「そうだろうな。一度カミと相対した際、私はその首にひとつ鉄の鏃で傷をつけた。あのカミに、だ。あの神々しい犬の苦しむ姿はそう見られるものではなかろう。今頃苦しみもがいているに違いない」


 興奮気味に語る男の手の中には鏃があった。鉄で出来ているのだろう、怪しげな銀の光を宿している。その光にふと沙耶の顔が浮かんだ。


──私が夫を拒んだ時、あの方は獣に姿を変えて現れ、怪我を負ったのです。怪我の源は夫が放った鉄の鏃です。


 そうだ。沙耶は確かにそう言った。あの化け物は怪我を負ったと。鉄の鏃で苦しんでいるのだと。


「すべての武器を鉄とし、大量にここへ用意させる。以前森へ入らんとした時とは比較にならぬ量だ。さすればあの時代遅れの化け物は我々に太刀打ち出来ぬぞ。良い見世物となろう」


 男はせせら笑う。


「この鉄で化け物の首を切り落として人々への見せしめとする。古のカミは死に、唯一なるもの、真の人の神だけを崇めよと」


 相手が鉄刀と思わしき太刀を近侍から受け取り、片手で引き抜きながら湛える冷笑に私は跪いた。


「仰せの通りです」


 持てるだけの情報を相手が森へ行くよう仕向けながら使っていかなければならない。

 ムラのために演じろ。この男に傾倒する者として。


「カミは今その怪我で力を弱めていると聞いております」


 はたと顔をあげて嬉しそうに目を見開いた男は私を見返した。


「やはりか」

「間違いありません。沙耶がそう申しておりました。森のカミは、昼間は姿を現しませんが、夜になれば形を持つと聞いております。夜、形を持った時に鉄をもともと傷のある首に放てばおそらくは」


 にたりと男は口角を上げる。


「死ぬか」


 ぞくりとするような表情だった。憎しみの根源を見たかのような恐ろしさがこの男にはある。


「人がカミを殺せるか」


 ぐっと喉の奥が引き締まっており、「おそらくは」と答えた自分の声は掠れていた。


「やはり巫女の家の者を味方につけると良い話が聞ける。その話に違いは無いのだな」

「左様です」


 こちらの返事を聞き届けた男は持っていた太刀を近侍に渡し、ゆったりと寛いで私を示した。近侍は言われるがまま、こちらにやってきてその太刀を私に差し出す。


「カミを殺さんとする者よ」


 男の声は否応なく響き渡る。言葉にされ、己の行うことの大きさを知る。私は、カミを殺そうとしているのだと。


「与一、お前をこのカミ討伐の際の私の近侍とする。私をカミのもとへ導け。さすれば我々の名はカミを打ち負かした者として永劫に語り継がれよう。私の配下としてその太刀を受け取るが良い」


 そうして私は、差し出された恐ろしく見事な太刀を受け取った。この黒塗りの鞘の中には鉄がある。その不気味な銀が黒を通して見えたような気がした。

 受け取った私を見て男は満足げに大きく頷いて見せた。


「共に森へ向かおうぞ。古の化け物を討つために」


 そうしてその男はまほろばから増援が到着次第また訪れると言って、己の屋敷へ帰っていった。

 見送った私を、妻と子供たちが心配そうに見ていた。

 手元にあるのは先程受け取った、恐ろしいほど立派な太刀。ここでムラ長をしていては決して手にすることなどなかったくらいの上物。だというのに、重い鎖のように感じるのは何故なのか。


 ひどく目眩がする。

 家族を守るため、今屋敷で伏している母のため、妹のため、死んでいった者たちや父のため、そしてムラのために私はやり遂げなければならない。

 足を踏みしめ、背後に広がる強大な森を仰ぐと、血の涙が出るのではないかと思うくらいに目元が痛んだ。そのまま視線を足元に落とした先、昨夜振った雨でできた足元の水たまりに己の顔が映し出されたのを見た。

 虚ろな目。生気の無い、醜くなった顔。幼い頃は妹によく似ていると言われたこの顔は沙耶の面影も何もなく、深い虚無に陥っているようだった。

 森のカミに会えた喜びを静かに噛み締め微笑む、儚げに美しかった沙耶の顔が記憶の中から蘇る。あれとはとてもではないが似つかない。

 のろのろと自分の頬に触れてみる。真上から落ちてきた残り雨で顔を映した水面が揺れた。


 ああ。

 この顔こそ、化け物ではないか。



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