禁忌
彼のいない昼間は真白を連れて外へ出た。遠くに行かないよう真白を背に負ぶって畑の様子を見に行ったり、衣を洗ったりと動き回る。我が子を背負いながらの作業も随分と慣れた。
今日もいつもと同じように畑の世話をしていたのだが、そのまま作業が最後まで済むわけもなく、むずかったその子がまたころころとした犬に姿を変え、帯から抜けて私の前へ走り抜けた。彼のものと比べてまだ短い尾を振り、毛並みの白さを反射させながら飛び跳ねるように前を行く。
「ああ・・・・・・駄目よ。戻ってらっしゃい」
最近何度も同じように抜けて逃げ出されてしまうからきつめに帯を結んでいたのに、やはり犬の姿の時は小回りが利くらしく、今回も容易く抜け出されてしまった。
犬の方が融通が利くと覚えたようだ。悩む私を傍らに、その子は子犬の姿のまま軽快な足取りで進んでいく。
犬の姿で歩くことに随分と慣れたようで今ではすっかり走ることも出来ている。
「駄目よ、真白。待って」
姿が見えなくなる前に捕まえなければと慌てて追いかける。
「真白、どこにいるの。真白」
血相を変えて見えなくなってしまった我が子を探していると、梅の樹の下で人の姿に戻ってきゃっきゃっと笑っているのを見つけて腰が抜けるほどに安堵した。真円に近い瞳の奥に泉のような青を呈し、仰向けに寝転んで手足を動かす我が子の傍に私も腰を下ろす。
樹はむせかえるほどの花で満ちていた。なんて美しい色だろう。花と花の間から零れる空の青が、涙が出るほどに目映い。
風が唄う。草木が囁く。
真白は、梅の樹の枝の合間から覗く空を仰いで声を立てていた。言葉はないが、この子もまた力があるのならば森と語らっているのかも知れない。
我が子と同じ目線になってみたくなり、ついには私も梅の樹の根元に寝転んだ。穏やかな心地が胸の内にじんわりと広がっていく。隣にいる私に、真白が笑いかける。私もその子に笑いかける。その子の柔らかな頬を撫で、自分の頬を寄せる。
私の頬に触れた小さな手がくすぐったい。
ああ。
この子は、どのように育っていくだろうか。
この子は、幸せになれるだろうか。
この子は、どうやって生きていくだろうか。
愛しい子の、無邪気な笑顔を目の前に眺めていたら、何故だか微笑みながら涙が溢れた。
夜に彼が戻れば三人で過ごした。
彼も真白を愛した。彼は私の傍で、我が子を愛おしそうに抱き寄せる。その様子を眺めていることが幸せだった。その時の彼の横顔が何か思い詰めているように感じながら、私は気のせいだと自分に言い聞かせることをしていた。
その日は真白が帰ってきた父に喜んで犬の姿になり、はしゃいで社の中を走り回り始めた。彼も同じように姿を変えれば更に真白は大きく飛び上がって喜び、その勢いで外へ出ようとする。それに気づいた彼は小さな子犬を慌てて追いかけ、しばらくしてから我が子を口に咥えて戻ってきた。ちょろんと父の口元から垂れている小さな存在が可愛らしくて思わず笑ってしまった。
「ああ、本当にやんちゃな子」
咥えられた真白を私が受け取れば、彼はすぐに姿を人に変え、真白も真似をするように私の腕の中でまた赤子の姿に戻った。
ひとしきりにこにこしていたが、次第に眠くなったようでくたりとして寝息を立て始めた。その重みを噛み締めるように抱く。小さなぬくもりがある。何より守りたい存在だ。
「あなたもこうやって小さい頃を過ごされたの?」
よしよしと身体を揺らしながら隣にいる彼に尋ねた。よくよく思えば、私は彼の幼少のことを知らない。また物思いにふけるような面持ちだった彼は私の素朴な質問を受けてやや困った顔をした。
「母が死んだのはあまりに遠い昔のことで、そこからはあまり記憶にない。母が残したのはこの社とあの梅の樹だけ。あとは一人だった」
それに、と彼は続ける。
「父は私に声を与えるだけで己の姿を現したことはない。父の姿を見たことがあるのは、おそらく母だけだ」
そうなのかと息をのむ。
「……ならば何故、カミは母君の命を繋がなかったのでしょう」
例えば彼が私にしたように、何故カミは自分の妻である最初の巫女に命を与えなかったのだろう。森のカミであるのならば、彼と同じように命を奪うことも与えることもできるだろうに。
カミは最初の巫女を愛したからこそ、彼という子を儲けたのではないのか。孤独になるであろう我が子が哀れではなかったのだろうか。我が子にさえ姿を見せない存在が、唯一姿を現した相手だというのならば尚更ではないか。
「命に終わりがないというのは辛いことだ。父はそれを知っている。故に母を人のままにしたのだ」
終わりがないことは辛い──その一言に、今まで彼の置かれてきた立場を思う。時が存在しないこの森の守人として気の遠くなるほどの間を存在し続ける。この孤独な世界で。終わりのないままに。
「母は人として死に、その亡骸を樹が飲み込み、あの梅の樹となった。それ故に枯らしてはならぬと梅の樹の命を私は繋いだ」
だからあの梅は咲き続けているのだ。彼と共に、遙か長い年月を。
「だが私は沙耶を失いたくはなかった」
そう言って私を抱き寄せるその手は温かかった。幼い頃に差し出された手と同じとは思えない、人と同様の暖かさがある。
「どうやら人の考え方に私は似ているらしい」
人であろうが、人でなかろうが、私はこの彼という存在を愛しているのだ。
「私はそう思ってくださったあなたの心が愛しい」
私は真白とこの人をおいて死んでいくことなどしたくはない。あの時命を繋ぐ行為がなければ私は今こうしていない。この子を腕に抱くこともできなかった。私の命を繋いだ時、彼は「これで良かったのか」と呟いた。その真意はこれだったのだ。
長年生きていくという終わりのない命故の苦しみ。この人はそれと共に今までを孤独に過ごしてきた。だからこそ人から掛け離れた孤高の存在、森のカミとして有り続けた。
共に過ごすようになり、人に近づいていると思える部分が彼に現れているのも確かだ。笑うことや何かを望むということ、悲しみもあれば怒りもある。
私と出会った頃は淡々と人を見下ろし、観察するのみで閑かに佇む森の樹のようであったのに。
「だがカミはそれを良しとはしない」
相手の低められた声に、はたと顔をあげてその人を見つめた。
「カミと人の間に生まれたからこそ、私はどちらにでもなり得る」
森のカミと人の間に生まれた特異な存在──それがこの人。
「私はカミと人の間をつなぐ仲介。沙耶が任されていた巫女という役目と同じ、我々が森と人との接点であった」
私たちは森の言葉を人へ伝え、人の祈りを森へ伝えてきた。互いにそういう存在だった。だがその繋がりを切り、私はここへ来た。人が森のカミを必要としなくなり化け物と呼んだ。それに絶望した。そして何より私は自分の居場所が欲しかったのだ。この人の隣に。何の柵しがらみもない場所へ行きたかった。
「仲介であるための私はカミと同様、人に対して見守る存在であることが求められる。それが森を司る者の役目であるからだ。だが私はその役目を放棄した」
「それは私も同じです」
耐えきれず訴えた。
「私は与えられた巫女の役目を捨ててあなたのもとへ来ました。今、人の心は森から離れています。私たちが森と人との間を切って何も咎められることはない。先にその関係を裏切ったのは人なのです。悪いのは森を忘れた人ではありませんか」
「勿論それも理由だがそれ以上のことがある」
彼の目元は悲しげに伏せられる。
「私はこの森にとっての何よりの禁忌を犯した」
「禁忌……?」
「そしてこの身は人になりつつある。人としてのものを取り戻している。人と同じとなれば、カミはこの力を持つことを許すまい」
「待ってください。何故人になることがいけないのです。何故、カミは許してくださらないのです。禁忌とは何なのです」
私は縋るように問う。
目まぐるしく展開されるものに恐怖を感じる。
何の。何に対する恐怖なのか。
我が子を腕に抱き寄せ、息を殺すようにして相手の口元が開くのを待った。
「私は本来、人の営みに関わることは許されぬ身。だが人前に姿を現し、私はその掟を破った。これが森やカミの禁忌だった」
禁忌。漠然とした言葉でありながら確信めいたものがある。張り詰めていたものがゆっくりと力なく降りていくような感覚があった。
あの時だ。私がまほろばの夫に触れられるのを嫌がったあの時。
「……でもそれは、私を守るためにしてくださったことではありませんか」
声が震える。知りたくないことをこれから面と向かって突きつけられる気がして。
「何故それが……なぜ」
なぜ──理由は分かる。尋ねなくても良いほど十分に。
古来、森というものは人の生き死にを見守っていくだけの存在であった。その中で私がまほろばの夫から逃げた時、異形の存在であるはずの彼が人の世に飛び込んできた。カミと同様の存在が姿を現すなど前代未聞。カミと人の繋がりが強かった昔ならばともかく、カミの存在に疑いを持ち、森を潰し、人一人を唯一の神としつつある人々が、突如地を揺らし、雨風をもたらし、人の腕を一瞬にして噛み切った、この世のものとは思えぬ巨大な真白の犬の姿を目の当たりにしたのだ。
あの光景のなんたる神々しさか。誰もが畏れ、大きく目を見開き、己らが忘れかけていた大いなる存在を思い出した瞬間だった。
だからこそ人々は混乱した。彼が人々に与えた恐怖や畏怖は、ある者の中で滅ぼすべき対象となり、ある者の中では敬う対象とも姿を変えた。
「……あの時、私が」
カミと同等の存在は決して人に干渉してはならない。だが、彼はそれを破ってまで人々の前にその姿を現し、私を救った。だがこれはカミが許さぬこと──禁忌であったのだ。
私を守るためにそれを犯した。
「沙耶のせいではない。起きるべくして起きたことだった。変わらぬままでは誰もいられない」
私の髪を撫で、私の腕に眠る我が子を見下ろす。
「……カミが許さなくともあなたは人として生きていけるのでしょう?」
カミの力を失ったとしても、人となって共に生を全うできるのであれば後悔はない。
「真白が成長するまでで良いのです。大人になるまでとは言いません。短くても構わない。共にこの子を見守っていられるのならそれで」
それだけでいい。人となって、寿命が生まれ、我が子の成長を見届けることが出来なくとも、我が子が一人で生きていけるくらいになるまでだけでも傍にいられたら。
だが相手は答えようとしない。もしや失うことがあるのだろうかと漠然とした恐怖が突如として現れる。
「お願いです。教えて」
彼は更に私を抱き寄せた。白く長い指が私の頬を撫でていく。
「私が人となれば、私がまず失うのは沙耶だ」
意味が飲み込めず、聞き返す。
「カミの力で命を繋いだ沙耶を失うことになる」
息が止まる思いとは、こういうことを言うのだろう。
そうか。この命は、カミの力で生き長らえているのだ。何かが自分の胸の内にぽつりと落ちていく。
「そしてこの傷を負った私も、力を失えば死にゆく。私とお前は共にある」
目眩がする。信じたくない事実があちらこちらに転がっていて逃げ場がない。
どうにかなりそうだ。手を伸ばして相手の首元にある未だに癒えぬ傷を撫でた。癒えることのない深い傷だ。彼が特異であるから今の今まで命は長らえているが、人となればこの傷に負けて命を落とさざるを得ない。
「もともと鉄で傷を負った私は遅かれ早かれ弱っていくことしかできない」
鉄による傷は何よりの毒だ。毒はこの人の身体を蝕み続けていた。彼が言い淀み、悲しげな表情を崩さなかった理由を知った。彼が人となることは私たちの別れでもある。
私は相手の腕の中で大きく震える呼吸をした。我が子を抱き、相手と己の鼓動を確かめる。彼は強く私たちを胸に抱いた。
ぐっと瞼を閉じて感じるのは、一度切れた私の命の綱を繋いでいる澄んだ青の光。これが失われ、彼や我が子と別れなければならない未来が近いうちにやってくるかもしれない。
「世は移り変わる。私の変化と共に森への信仰は最早失われ、人をただ一人の神としている」
呟くような彼の言葉に、思い返されるのは森が死んだ光景。私に触れた「死」という存在。この森もあれに満たされてしまうのだろうか。
「他の死んだ森と同じように、この森も死んでしまうの」
相手の胸元に額をつけたまま尋ねると、いいやと彼は首を横に振った。
「この森は他の森とは違う。人が森への信仰を完全に無くすのならば、森が人を見限る」
森が、人を。
「そうなれば、森が人のために何かを与えることはない」
当たり前のように受けてきた森からの恩恵を失ったら、人はどうなるのだろう。
「人はまもなくカミに見限られる」
人は生きるために危険を冒し食糧を探さなければならない。命を落とすことも多くなるだろう。奪い合いのため戦が今以上に起り、これまで以上に流される血も多くなるだろう。
人は、何故今の与えられるものだけで幸せを感じられないのだろう。
何故、何かを得るほどに強欲になってしまうのだろう。
何故、森を忘れてしまったのだろう。
自分の繋がれた命を感じながらただただ思う。命があることだけで、生きているということだけで、生かされているということだけで、それは何よりの奇跡ではないのだろうか。
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