真白


 生まれたその子は男児だった。

 出産から五日が過ぎると、私の身体は命ある者としてのぬくもりを取り戻し、不自由なく動かせるようになった。そうして左右が分からぬまま我が子を抱えての日々が始まった。

 空腹に泣き、寂しいと泣き、襁褓が汚れると泣いて私を呼ぶ。その度にその子を胸の前に抱いてあたふたしながら世話をし、まるで普通と変わらぬ母のようにその子に接する。乳を口に含ませて懸命に母乳を飲む姿は、いつか目にした人の赤子と何も変わらないように見えた。

 半分私の血を引くのだから、もしかすればこの子は力を持たずに生まれたのかも知れない。そんなことを考えながらまだふにゃふにゃとしたその子の身体を抱き直した。

 赤子というのはあまりに小さく、頼りなく、軽かったが、時に泣きたくなるほどに暖かく愛おしいものだった。その子への沸き上がるほどの愛情を感じて私も人の母というものになったのだと実感した。


 我が子が生まれてひと月が過ぎる頃のことだ。我が子がすやすやと寝息を立てているのを見届け、今の内にと、外の畑の世話をしていた私の耳に不思議な音が届いた。

 小さな獣がぱたぱたと駆けるような音。不意に顔をあげて耳を澄ませる。そうすればまた。同じような駆ける音。

 やはり空耳ではないようだ。獣など樹が生い茂るところへ行かなければいないのにどうして足音がするのか。

 どこから。

 更に耳を澄ませてみて、次に聞こえた音で反射的に社の方へ視線を投げた。

 社だ。あの子が眠っている社から、獣の足音がする。


 はっと青ざめて社の中に駆け込み、中の状況を目にした途端、私は呆気にとられた。社の中を走り回っている子犬がいたのだ。状況がうまく飲み込めず、真っ白な毛並みの子犬を見つめる。

 社の真ん中で寝ていた我が子の姿がない。篭の中は空で、私が繕った衣が傍に脱ぎ散らかしてあり、中身であったその子がいない。その代わりにあの子犬が楽しそうに跳ねているのだ。


「……ああ、まさか」


 私の姿を認めた子犬はこちらへあどけない足取りでやってきた。真っ白の毛並みに、柔らかな尾。その瞳はよく私が己の腕の中で眺めているものによく似ていた。

 今まで何も変わったことがなかったために力を持たずに生まれたのかとも考えたことがあった。だがそうではなかった。私の子は。この子犬は──。


「あなたなのね」


 腰を屈めて問いかけると、その子は小さく吠えた。問われて応えたというよりかは、己の声がいつもと違うことに驚き、楽しんでいるように見えた。

 手を伸ばせばこちらへやってくる。自分で動けていることが嬉しいらしく、そして不思議にも感じているらしい。

 見える景色を獣の目で眺めている。尾を振り、細い声で吠え、四本の足を大きく動かす。初めてのことにその子は円らで澄んだ瞳をどこまでも美しく輝かせる。

 触れた毛並みは驚くほどに柔らかい。犬の毛並みだ。彼が獣に姿を変えた時と同じような。


「力を、持っているのね。あの人と同じように」


 紛れもなく、我が子は彼の子なのだ。彼のようにカミの力を持った子なのだ。


「……ああ」


 そうだと分かり、胸に抱き込んだ獣姿の我が子に一抹の不安を覚えた。彼の持つ力は大きい。こんなにも小さく幼い子が、それを抱えて生きていかねばならないのだと。

 覚悟はしていた。それでも一度事実に向かい合ってしまうとこれから我が子の身に起きることが心配でならなくなる。

 強く抱き込まれた獣の子は反発するように大きく身を捩り、目を青く光らせ小さな突風を起こした。それに驚き、私の腕の力が緩んだ瞬間、その子は腕の中から身軽に飛び降りた。降り立った床を駆け巡るのかと思いきや、外から呼びこんだ風に乗り、滑るように宙を行く。自由に動けることが嬉しいのか、小さなころころとした犬は私の傍を通り過ぎてしまう。


「ああ、駄目よ。駄目」


 社の外へ行こうとしているのだと知って、咄嗟に追いかけた。


「外へ行っては駄目」


 どうにかこうにか宙を滑っていた小さな子を捕まえ、再度胸に抱き込み、脱ぎ捨てられた衣でぐるりと包んだ。


「……危ないわ」


 逃がすまいと、守るように我が身の中に閉じ込め、その場に私は屈み込んだ。

 決して慣れた足取りではない。危なっかしい、いつ転んでしまってもおかしくはない状態だ。先程まで首も据わっていない赤子だった。ずっと犬のままの姿であるはずがないのに、この姿で怪我をすれば人の姿に戻った時にどうなるか。人と獣の姿ではとても勝手が違うのだから尚更。

 小さく一声吠えたその子は私の胸の上でいつもの赤子の姿に戻った。くたりと私の胸に身を任せる、普通の子と変わらない赤子。我が子が己の腕の中にいることに安堵して息を吐く。

 人の姿ではまだ起き上がることもできないのに対し、獣の姿になれば走り回ることもできてしまうのだ。


 獣に姿を変えたのはこれが初めてだった。目を離したらどうなるか分からない。どこへ行ってしまうか。何が危険かも分からないというのに。心配ばかりが前のめりになり、私はその子をしばらく抱きしめたまま蹲った。




 その夜に帰ってきた父の前でも、その子は無邪気に姿を変えて見せた。

 少し驚いたような面持ちをしながらも彼は同様に己の姿を変え、白い子犬の我が子を見下ろした。父の姿を目の当たりにした子は大きく飛び跳ね、興奮したかのように尾を振り、私の周りをぐるぐると回る。そんなに走り回っては危ないとあたふたとしたものの、無邪気に跳ね回るその姿にどうにもこうにも笑いがこみ上げた。

 ようやく動きを止めた我が子を抱き上げてその白い毛並みに頬を寄せる。柔らかく、優しい感触に泣き出しそうになった。

 背後にある包むような彼の毛並みに寄りかかり、腕に我が子のぬくもりを抱き、目をぐっと閉じてみると、自分は今言い表しようのない幸福の中にいるのだと、つい先程まであった不安が溶けるようにその影を潜めていくのを感じていた。


 我が子は人の子よりも成長が早いようであった。初めて姿を変えたあの日から数日後に首が据わり、更に十日ほど経つとつかまり立ちをするようになった。それと比例するように犬に姿を変える頻度も多くなり、犬の他にも己の目で捉えた獣、たとえば鳥や兎にも姿を変えられるようになっていった。

 それでもやはり、父と同様犬の姿が一番多かった。

 我が子の犬の姿は陽に当たると目が眩むくらいに白い毛並みで、父の犬の姿をそのまま丸ごと小さくしたような姿だった。少し違うのは毛がふわふわと多く、それも相まって丸々とした形であることと、目の形がくるりとしているところ、尻尾が短いところだ。

 犬になった際、瞳に美しい青を灯すところは何より父親にそっくりだ。


 ただ、その子の「人」の姿は、目元が兄に似ているようにも思えた。優しい光を宿すこの子の円らな瞳には、幼い頃に私に向けられていた兄の眼差しを彷彿させるものがある。この大きな目の形、茶色がかった目の色。見つめて笑いかけられると、一瞬驚くほど兄の顔が浮かぶ。


 この子が生まれたと知ったら兄はどう思うだろう。生まれた甥に当たるこの子を見ても、兄はまだ殺そうなどと考えるだろうか。人の姿の我が子を眺め、柔らかな髪を撫でるほどに、もう会うことのない兄の姿が否応なく脳裏を過ぎっては消えていった。


 そして我が子にはまだ名がなかった。

 生まれて数日後に彼に言ったのだが、彼は名に関してそういうものではないと言った。


「我らがつけるものではない。生まれて来る時に誰もがその身に宿す音。それが名であるが故」


 いずれ森のカミから自然と授けられ、自ら名乗るようになると彼は続けた。己の名も、そうであったからだ。物心つく頃には自ずと己の名を知ったと言う。


「呼び名だけも駄目かしら」


 その真の名が与えられるものならば、せめてそれが分かるまでの名をつけたい。この調子ですくすくと育っていくのであれば、名は必要になる。一人で森にいるわけではない。呼び、呼ばれる相手がいるところで生きていくとなれば名は不可欠になる。


「この子が己の名を知るようになるまで私たちがこの子を呼べる名だけでも」


 そう尋ねた私に、彼はそれならばと微笑んだ。名をつけられることに嬉しくなる。


「何が良い」


 問われて考えを巡らせた。


「そうね……」


 ふるふると尾を振りながら前足を私の膝に乗せる我が子を見つめる。撫でるとこれでもかという柔らかさが指先から伝わってきた。


「美しい毛並みだから……そう、この白い……ましろさ」


 呟く私の腕の中でその子は人の姿にくるりと戻った。


「──真白ましろ


 私のぽつりと落とした音に、彼は隣で頷いた。二人で頷き、微笑み合い、再度「真白」と呼びかける。

 私たちがこの子を呼ぶ、その名。いつかは捨てられてしまうかも知れないこの名前。


 真白。

 私たちはこの名で、あなたを呼ぶのだ。


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