死
己の屋敷に遺体と共に戻り、混乱する兵たちを休ませた。
運ばれた遺体には何一つ傷がなかった。刺し傷もなければ流れ出した血さえない。落ちてきた何かに頭を打った訳でもない。だが、目の前にある人の身体には「死」があった。
森から離れたというのにも関わらず兵たちは緊張を解こうとしなかった。いや、解けないのだ。我々が触れたのは異界のものだ。人が決して触れることのないような。怯えて蹲り、屈み込んで震える者もいれば、遺体を目の前にして黙りこくる者もいる。共通なのは恐ろしいほど皆が沈黙を貫いていることだ。
あれが何であったのか知る者は、この中にはいないらしい。まほろばの男が戻ればまた彼らを叱咤して立ち上がらせるのだろうか。
兎にも角にも食事を運ばせ、衣を着替えさせ、そして全体が落ち着いたのを見計らってから私はある一室に向かった。そこには一人の男が座っていた。その光景は、暗い一室に真っ黒な影がひとつ置いてあるようだった。
「……叔父上」
濡れそぼった衣を脱ぎ、顔の汚れを取ったその男を目の前にして声がぽつりと零れ落ちた。
「まことに、叔父上なのですか」
叔父は仕切られた部屋の真ん中で私を見上げた。私は向かいに膝をついてその顔を見つめた。灯りの炎が揺れる。揺れた灯りの中にぼうっと相手の顔が浮かび上がり、はっきりと誰であるかを私に認識させた。
間違いなかった。まだ伸びきった髭と髪に顔が埋もれ、替えの衣も継ぎ接ぎだらけで汚れていたが、紛れもなく父の弟だ。父が死に、このムラがまほろばの支配下に入り、沙耶が父の仇である男の妾になったことを悔やんで放浪の旅に出たはずの我が叔父。数少ない血縁。
「まことに……」
こちらを見つめ、叔父は静かに頷いた。
「生きて、おられたのですね」
声が震えた。血縁が生きていた。それだけで嬉しい。泣き出しそうになるのを堪え、唇を噛み締めた。
「今までどこにいらっしゃったのです。皆、どれだけあなたのことを心配していたか。母もきっと喜びましょう」
奥でまほろばの男たちがなにやら騒いでいたが、そんなことはどうでも良かった。
母に伝えなくては。叔父が生きて戻ってきてくれたことを父の墓に伝えなければ。
「与一」
叔父が静かに呼んだ。緊張を孕んだ声音だった。
「カミに連れて行かれた娘の話を聞いて、沙耶だと確信して帰ってきたのだ」
はっとして叔父を見た。叔父の目は真摯そのものだ。昔と違わず獣のような眼差しを奥に秘めている。
「間違いないのだな、それは沙耶なのだな」
伝わっているのだ。叔父がいたところにまで。沙耶が森のカミに攫われたことが。
「ええ。それは沙耶です。妹はカミに誑かされ、その子を身籠り、連れ去られました」
叔父は大きく目を見開いた。
「カミの子を……?連れ去られただけではないと?」
「正確にはムラの伝承にあった初代巫女と森のカミの間に生まれた子が実在していたのです。沙耶が会ったのはカミの子の方でした。それとの子を、沙耶は身籠ったのです」
叔父はこれでもかと見開かれた眼球をぐるりと回し、何度か荒い呼吸をしてから額を抑え、ぐっと目を閉じた。その仕草は、沈黙を貫き、動じる姿を見せなかった亡き父に対して、叔父は父の代わりに感情を表すかのように激情的だった。
「何と言うことだ」
沙耶がそうなった経緯を私は叔父に話して聞かせた。
沙耶が妾となったその後の孤独。そこに現れた不思議な男がカミの子であり、沙耶はそれを分かっていてその男を愛し、受け入れたこと。夫のことを拒み、カミの獣──巨大な白い犬を呼び出し、夫が犬に右腕を食い千切られたこと。そして沙耶の懐妊が発覚し、体調を崩したと理由をつけてこのムラに戻ったが、そのまま風のように現れたカミの子である男と共に森へ消えたこと。
「沙耶は連れ去られたのではなく、自らついて行くことを望みました。ここへ戻った時も私と母にすべてを話し、一刻も早く森へ行きたいと私に願った。だが私はそれを許さなかった……その中であの男は沙耶を見つけ出した」
叔父は黙って私の話に耳を傾けていた。夢で何度も繰り返し見た、妹との別れが脳裏に蘇り、膝元に置いた拳を強く握った。
「もともと森のカミとは何であるか分からなくなったのです。我々は今まで森を奉ってきたが、まほろばの勢力が我々を飲み込もうとしているのにも関わらず、何一つ助けてくれたことは無い。ならば何故、我々はカミという化け物を敬ってきたのか、カミとはなんであるのか。何故我々は」
「与一」
取り乱しかけた私の肩を叔父が掴み、静かに呼びかけた。
「カミとは何かを求めるものではない。我々が救いを求めるような存在では無いのだ」
叔父も、沙耶と同じことを言う。頭が狂いそうだ。もう、沢山だ。
「思い出せ。我々がまほろばが来るまで何故ここで生きてこられたか。森からの恵みがあったからだ。森は我々に生きるためのものを与えていたのだ。それだけで十分だったはずだ」
森の声を聞き届け、巫女が空を読む。雨が降るか雪が降るか、嵐が来るか、晴れるか。そうやって上手くやってきた。
分かっている。分かっているのだ。
「まほろばという外部からの敵のために森を滅ぼすのは矛盾している。森は我々に何もしていないのだから」
「何もしなかったのが問題なのではありませんか!」
どれだけの飢饉だったか。子供の泣き声が今でも耳にこびり付いている。死んだ子供だっているのだ。助けてくれと祈っていた存在もムラには多くいたというのに、森は何もしてはくれなかった。
「人は何故、ここまで強欲になるのか」
物悲しさが叔父の声にはあった。
強欲──?
妹に普通の娘のように幸せに生きて欲しいと願っていたことか。子供が植えて死ぬことの無いムラにしたいと思ったことか。
一体何が、強欲だというのだ。
「豊かになれば豊かになるほど欲が出て、欲が出れば出るほどに小さな恵みが見えなくなる。その恵みがなければ我々は生きてはいけないというのに」
まほろばの勢力がなければと思ったことはあった。そうすれば変わらずにいられた。だが、まほろばは我々に関わろうとしてくる。支配しようとしてくる。だが森は何も我々に施さない。そうなれば離れるほか無いではないか。
私が望んだのは細やかなものだったはずだ。皆が幸せにあれば良かった。皆が笑っていれば良かった。
どこで道を、間違えたのか。
「もともと巫女であった沙耶が、カミに召されることはあり得ぬことでは無かった。あの子は幼い頃から特別だった。あの子はそういう運命にあったのかも知れぬ」
叔父の言い分に顔を上げた。
何故、沙耶を見捨てるようなことをあなたまでが言うのか。沙耶は我々と何も変わらない娘だった。特別な、異質な娘に何かが変えてしまったというのなら、それはそうやって沙耶を育て巫女として送り出したお前たちではないのか。私自身ではないか。
「沙耶は私の妹です。カミのもとへ行って幸せになると言えますか。沙耶にカミのもとにいることが幸せだと思い込ませてしまったのは私の責任だ。私が沙耶をまほろばの男の妾になどしなければ沙耶は……妹は」
──人として、幸せになれたのか。
「沙耶は歴とした森の巫女だ」
叔父は低い声で告げた。
「沙耶は人です。カミでは無い」
絞り出すように私は反論する。すべてを悟ったかのように叔父は目を見開き、声を震わせた。
「与一お前、沙耶を取り戻すためにまほろばと手を組んだか。手を組み、森を滅ぼそうと考えたか」
相手を睨み付けるように、目元に力が入った。
「そうです。仰る通りです」
何度も何度も考えて考えて出した結論だ。古いものにとらわれては生きてはいけない。
「私はカミを殺める」
相手の顔が一瞬にして青ざめた。
「与一、お前はその意味を分かっているのか」
「分かっています。時代は変わった。古い仕来りなどもう意味を成さないのです。誰かが終わらせなければならない」
自分がその役目になるだけだ。
「沙耶がカミの子を身籠ったことに関してはまだまほろばの者たちに言ってはおりません。沙耶の夫は沙耶のことを切掛けに森のカミを無くそうとしている。私はそれに加担した」
ああ、と呻くようにして叔父が項垂れる。
「だからお前はあいつらと鉄を持ち込もうとしたのか」
「そうです」
叔父は反対なのだ。分かっていたことだ。叔父は森を守り抜いた亡き父を誰よりも尊敬していた。
「母君はなんと言っている。ムラの皆は」
「まほろばとの戦いの後の飢饉に森のカミが何も我々に施さなかったこともあり、ムラのカミへの信仰はなくなりつつあります。私がまほろばと組もうが、森に侵入しようが何も言わないでしょう。沙耶という森との仲介を無くし、我々と森との繋がりはほぼなくなってしまった……母は反対していましたが、沙耶のことを心配して寝込み、今でもうわごとのように沙耶の名を呼んでいます」
相手の目が大きく揺れた。あまりのムラの変わりように困惑しているのが嫌でも分かる。
分からないでもない。叔父が生まれ育ったこのムラはつい最近まであれほど豊かで幸せに満ちた場所だった。森を愛し、カミの存在を信じ、それらに感謝し、生きてきたのだ。だが、それももう通用しない。
「目を覚ませ、与一」
叔父は私の肩を揺さぶった。
「あれをお前も見たはずだ。感じたはずだ。森にいるのは一つのカミではないのだぞ」
そうだ。あれも。
思い返しただけで背筋に悪寒が走る。森を目の前にしてあの時感じた冷たい何か。
あれも、カミだ。
「与一」
声が聞こえ、我に返った。叔父の手を払って素早く膝をつき頭を下げる。まほろばの男の声だと分かったからだ。
こちらの返事を待たずに部屋にずかずかと入ってきた男は、近侍を従えていた。濡れていた衣も着替え、端正な顔立ちを私から叔父のほうへ順に向けた。
「この男は先程我々を止めた男か」
「はい。私の叔父に御座います」
叔父は目の前に現れた人物が誰であるか一瞬で理解したようで獣のような視線を男に向けた。だが、それをものともせず男は私に向き直る。
「与一、お前は知っているのか。兵を殺めた見えぬものの正体を」
「あれは『死』だ」
私より先に叔父が答えた。敵意を剥き出して、まほろばの男を座ったままに見据えている。近侍が戒めようとしたが、まほろばの男はそれを制して叔父を見下ろした。
「『死』とは?」
「森というものにはカミが一人いるだけではない。多くのカミが多くのものに宿り、我々を見ている。花や木、石や草、風や雲にもだ。お前たちが殺めようとするカミはそれらを取り締まる長と言えるが、あの『死』だけは違う。正反対の、全く別の存在としてある」
カミとして『死』というものがあるのは知っていた。
よく大巫女から聞かされていたものだ。ただ、最初の巫女やカミの子と同様私たちの中では遠い昔の話であって本当にあるものだとは思っていなかった。伝説の類いだと、ずっと信じて疑わなかった。
「別のものとは?どういうことだ」
まほろばの男の眉根が上がる。叔父は一つも怯む様子なく対峙していた。
「お前たちが殺めようとするカミは、謂わば『生』を司る者であり、我々、つまりすべての命ある者はそちらに帰依する。だがもう一つ真逆の存在として『死』を司るカミがいる。それが兵を殺めた存在だ。あれは命あるものを『無』に出来る」
生と死があの森にはある。
我々が命ある者であるがために今まで生のカミしか見えていなかったが、あそこには対する者として死という存在があったのだ。我々が生きているという存在である限り、決して目の当たりにすることのなかったもの。巫女であった沙耶でさえ、その存在に限っては朧気であったに違いない。
「あれに姿はあるのか」
死に、姿が。沙耶を連れて行ったあの男のように。
「無い。感じることしか出来ないものが死なのだ」
叔父の言葉にまほろばの男と控える近侍の目に恐怖に似たものが浮かんだのを見た。
私は驚いた。あの嫌な感覚を、彼らは何も感じなかったというのだ。だから誰かが死ぬまで進行をやめなかった。
「死のカミは我々が討とうとする生のカミとは別であるはずだ。何故我々に干渉してきたのか」
まほろばの男は足を一歩前に踏み出し、叔父に問う。
「お前たちは森を殺めて回っているだろう。そのあとの森は無になる。その『死』に取り込まれた姿だ。お前たちが『死』と対峙する『生』を殺め、『死』を止める存在がなくなってしまったが故だ。生を常に飲み込もうとしているのが死というものなのだ」
生きている限り、その死は付きまとう。どこまでも。
「死とは言え、それも森のカミだ。お前たちの侵入を許さぬ。死もまた森にあり、そこが人の汚れた足で踏み荒らされることを好まぬ。そしてあの森のカミは他の森とは違う。強大な力を持っている。そのために今までの森ではなかったようなことが立て続けに起るのだ」
死に触れられれば無になる。死ぬ。今回の兵たちの死は気づかぬうちに死に触れたが故か。
「触れなければ死なぬのだな」
まほろばの男は不敵に笑う。
「このムラの者でもない者たちにそれが感じられるとは思えぬ」
叔父は吐き捨てた。
「その目で見たはずだ。何もないのに倒れた兵たちを。あれを避けられるのか?森にも入れぬというのに」
「カミは今弱っているのだ。最早カミなど我々人間は必要としていない。あれからの支配を解くのは今なのだ」
男も負けじと言い返す。相も変わらぬ鼻で嗤うような素振りで。
「お前たちは分かっているのか。この森には大いなるカミがいる。そこらのカミとは違う。否応なく命を奪われる。鉄など中に持ち込めるはずが無い。その前にお前たちは命を奪われるだろう」
その声は地を這うようであった。鼻息は荒く、まるで獣と対峙しているような感覚に陥る。
「死んでしまえ。カミに殺されれば良いのだ」
叫んでいたわけでもない叔父の声の余韻はこの間に恐ろしく響いた。灯りのための炎で揺れる人影からまた何かが出てくるのではないかと身構えてしまうほどに、その沈黙には緊張があった。
しばらく叔父を凝視していたまほろばの男は、視線はそのままに口を開いた。
「反逆者だ。捕らえておけ」
近侍はその命令に起こされたかのようにはっとし、ためらいもなく叔父の腕を掴んだ。叔父は抗わなかった。ただただまほろばの男に冷たい視線を向けている。
「叔父上……!」
咄嗟に呼んだ時、叔父は近侍によって連れて行かれた。
「私の実の叔父で御座います。どうかお命だけは」
頼みこむと、まほろばの男は肩で笑った。
「殺しはせぬ。森のことを知る重要な存在であるのだからな」
ほっと胸をなで下ろす。今回のことが終わらない限り叔父が無下にされることはないだろう。
彼らには森の情報が必要なのだ。カミを殺すために、どんな些細なものでも喉から手が出るほど欲しいのだ。母が今病で伏せっている中、最も森に関することを知っているのは一族で最年長となる、それもムラ長の一族の生まれである叔父だ。
「だがどうしたものか。まさか森へ入るのに手こずるとは思わなかった」
同意だった。森にこれほどまでに力があったとは。
「与一、何か策はないか」
何も思いつかない。鉄が駄目だというのなら何が森を切り開くための道具になり得るというのだ。
「……再度ムラに残された伝承を当たってみることを考えております」
そうとだけ告げると、彼はひとつだけ頷いて私の前から去って行った。
私は独りになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます