愛おしい

 泉の傍にある小さな社は、森のカミが最初の巫女のために作った場所であることを聞かされた。人がここに住んでいたのは遠い昔の話。だからこんなにも生活感がないのだと納得する。

 衣も寝具も、最初の巫女の私物だったものたち。それだけ昔のものが残っているとなると、この社の中だけ時が止まっているようにも思えた。

 今までも彼がこの社で過ごすことはほぼなかったようで、彼自身久々に足を踏み入れた様子で社の中を見渡していた。

 森の奥に泉と梅の樹と寄り添うにようにひっそりとあるこの建物。外側を苔の緑に覆われ、既に森の一部となっているこの社が、私の暮らしの場となった。


 夜になるといつも、彼は社にいる私のもとへ来てくれた。共に眠り、朝に起きるといつも姿はないが、その代わりいくらかの食糧が社の入口に置かれていることが常だった。そして再び陽が暮れるとその人は社へ帰ってきた。

 陽が出ている間、私は一人、社と泉、そしてあの梅の傍にあった。


 森の最奥であるここは春のように暖かくあり続けた。季節がひとつしかないらしい。変わらぬ時を刻むここで、一日の半分、一人でいることを寂しいとは思わなかった。

 森には多くの気配があった。樹は勿論、水や風、小さな動物や虫たち。多くの存在を感じられた。言葉はなくとも、彼らの生を感じることができる。すべては自分と共にあり、自分と同じように生きて死んでいく。何ひとつ変わらない存在だ。


 暖かい日中の内に泉で身を清め、限られた衣を洗って乾し、近くに食べられる実はないかと近くを歩く。何かしら見つけると落ちた葉や古い枝を拾い集め、火を起こして軽く調理した。彼はまったく食べないということはないが、食事を必要としない人であるため、ほぼ自分のための食事だった。


 彼はあらゆるものを成せた。そのこともあり、暮らしていて足りないものはなかった。自分で出来ることは己の手で行ったが、自分でどうしようもない物だけ彼に頼んだ。可能な限り己の手で生活していきたかった。


 近頃は近くで得た食物の種を得て、社の横の小さな空間に植えることをした。毎日のように水を与え、日光が当たるのを見届け、生まれてくる眩い緑の芽に耳を傾けていれば、不思議と作物は瞬く間に育ち、食べられるくらいになった。育ってくれたこと、自分の身の糧となってくれる存在に感謝してそれらを摘み取り、軽く調理をして食べる。これらはお腹の子の命となる。そう考えると、どこもかしこも命が巡っているのだと実感した。


 最初は着慣れた巫女の衣を着ていたのだが、腹部も大きくなり始めたこの身では不要のものと思い、ムラの女性たちの衣に繕い直して身に着けた。髪の結い方も簡単に後ろに軽く束ねるだけの簡単なものに結い直す。そんな自分の、泉に映った姿を目にした時、はっと息を飲むものがあった。泉に映る自分は、今までのどの自分よりも、兄たちが望んでいた「普通の女性」というものであるように見えたからだ。

 確かに、兄が思い描いていた物とは違うだろう。それでも私にとっての「普通」というものは、こうした細やかな幸せだったのではないだろうか。


 しばらく過ごしてこの場所に慣れてきた今では、昼間は樹の下で、夜は社で生まれてくる子のためにと、見様見真似で赤子の衣を繕いながら時間を過ごしていた。

 日が暮れた後、社でいつもと違わず縫い物をしていると、外から風が舞う音と共に微かに梅の香りが増したことに気づいた。

 あ、と思って立ち上がり、社の外へ出る。外に梅の樹があるためだろう、更に梅の香りが増した。私の前に月光に光る毛並みを靡かせて彼が降り立っていた。

 夜の中に浮かぶその姿は息をのむほどに白く輝いて見えて美しい。長い尾は風に靡き、青い瞳が私を映している。

 私のもとへ帰ってくる時は人の姿であることが多かったが、犬や鳥や鹿など獣であることも少なくない。今夜は犬の姿だ。私の頭の高さまである大きな犬の姿。

 姿を変えてくる理由は分からない。ただ、毎回私の反応を見て楽しんでいるようでもあった。


「あなた」


 彼はその姿のままゆっくりとこちらへやって来て鼻先を摺り寄せてくる。手を伸ばして受け入れると、指がたどり着く首元に傷が当たった。触れた途端に、痛みがあったのだろう、彼は身を大きく震わせた後に眩しいくらいに青く光り出した。

 光が収まった先に、簡単な衣を身に纏った人の姿の彼がいる。

 もう一度首元にそっと手を触れた。私を守ろうとして受けた、鉄の鏃による痕があった。


「また、手当を取ってしまわれたの」


 昨夜、傷口が開くことがないようにと固定したはずなのに跡形もなくなってしまっている。


「姿を変えた時に取れてしまった」


 少し笑うようにして彼は言った。

 鉄は、この人にとって何よりの毒だ。どんな傷でも忽ち治すことができる力があっても、鉄で受けたこの傷だけは治せないと言う。

 決まった形を持たないこの人に、姿を変えるなという方がおかしい話なのだが、また傷口が開きやしないかと心配ばかりが先走る。


「だが、沙耶の力で随分良くなった」


 心配する私を慰めるかのように彼は微笑む。血は流れない程度だが少し無理をすればすぐに傷口が開いてしまう。どれだけ癒そうとしてもこれ以上は塞がらない。


「それよりも沙耶、これを」


 言われて差し出された手を見ると、相手の腕に白い生地がある。いつの間にあったのか。


「これで足りるだろうか」


 お腹の子が産まれたら、きっといくらあっても足りなくなるからと頼んでおいた物だった。


「十分です。ありがとうございます。嬉しい」


 胸に抱いて受け取ると、その人は満足げに微笑んだ。


「さあ、中へ」


 生地を手に彼を社へと促す。これから共に過ごせる時間を思うと心が凪いだ。

 ふと、社に入った彼が身を震わせて再び犬に姿を変えようとしたのに気づいた。


「戻ってしまわれるの?」


 咄嗟にそう言った私に彼は姿を変えるのを途中でやめ、きょとんとした顔でこちらを見た。


「嫌か」

「いいえ、そんな」


 決してそんなことはなかった。獣姿の彼は、人の姿の時よりは劣るものの言葉が話せる。何より犬の姿の彼はとても美しい。それはもう見惚れてしまうくらいの白さを纏う。触り心地も柔らかく絹糸のようで、それに頬を寄せて眠るのも好きではある。

 けれど。


「沙耶は、どちらが良い」


 優しく問われる。間近にその瞳が迫るものだから、不意に目を反らした。


「……触れ合う時は人の形であってほしいです」


 その手で触れられるのが何より幸せを感じられる。腕に抱かれ、身体のぬくもりを感じることが何より好きだ。


「分かった」


 頷いた彼は、社の中へ一歩一歩足を踏み入れる毎に獣になりかけていた姿を人の姿へと戻していった。進み行くほどに衣が替わり、風に靡くかのように髪の色が白から黒へと戻っていく。衣はきっちりと着込んだものではなく、楽に着崩した状態で、髪も結い上げず背に垂らしたものとなる。そうした彼の髪は解くと肩の位置よりも長かった。

 腰を下ろして寛ぐその姿の彼には、表現しがたい色気のようなものがある。触りがたいような、自分とはかけ離れた存在であるような。


「座らないのか」


 そのまま腰を下ろした彼は、ぼうっとしていた私に気づいて声をかけた。私は彼の隣に腰を降ろし、今日繕った衣や収穫できた食物を見せて今日あったことを話した。相手は頷きながらこちらの話を聞いてくれる。

 彼は人の姿をして、人らしい感情もあるものの、そこまで表情が豊かな人ではなかったが、共に過ごすようになってよく嬉しそうに微笑むようになった。笑ってくれる瞬間が私はどうしようもなく嬉しい。


「どうしたの?」


 今日は何だか難しい顔をしているものだから、彼に尋ねた。


「髪が鬱陶しい」


 確かに、垂れてきてしまう長い髪が邪魔そうにしている。


「切らないの?」


 今の彼の髪は兄やまほろばの男性たちよりも長そうだ。切るには勿体ないくらいの綺麗な髪だが、それほど邪魔ならば多少切っても良いように思える。


「切れば、みっともなくなってしまう」


 馬などの獣になった際に、たてがみがなくなってしまうのだとか。


「昔に一度やってみたことがある……失敗した」


 決まりが悪そうに、それでも髪が長いと邪魔なのだと言う。邪魔でありながら自分では結えず、結った姿へ姿を変えるのも面倒なのだそうだ。


「ならば私が結って差し上げます」


 「頼む」と言った彼の背中側に膝をついて立ち、そっと長い髪を持ち上げる。髪は手から離れることが惜しいくらいに滑らかだ。というよりは私が背に乗った獣の毛並みの触感そのままだった。髪の間に指を滑らせて簡単に結い上げると、彼は嬉しそうに微笑んだ。


 夜は更け、眠気がやってくれば、二人身を寄せ合って横になる。とは言っても眠気があるのは私だけで彼は睡眠を必要としない。そのため、彼は私を抱き寄せ、眠る私を眺めていることが大半だった。

 最初はじっと見られていることがどうしても恥ずかしかったのだが、今はこうしている時間が何より愛おしい。自分の髪を彼の手がすいていく感覚が心地良い。相手の胸の鼓動を聞くことで安心の中に包まれる。

 この日々がずっと続くと良いと願ってしまうのは、傲慢だろうか。そして無事にお腹の子が生まれたなら、三人で今以上に幸せに暮らせるだろうか。

 ぼんやりと眠気の間に挟まれながら考えている中で、ふと視線に捉えるのは彼の首元の傷だ。もう一度抑え直して布で止めてはいるが、目にすればするほどに不安に襲われる。遠い昔から生きているとは言え、人間の血を半分、身に宿しているこの人をいつか失うのではないかと。嫌う鉄で傷つけられ、彼の力は弱まったりしていないだろうかと。寿命が長いだけで、終わりがないなどとは誰も証明ができない。彼自身も分からないことだと言っていた。現に、どのような傷でも忽ち治癒できる彼でさえ、鉄で負った傷は治せないでいる。

 それに、これほどまでに大きな森の主とも言えるこの人を、カミはいらぬと言い切るまほろばの者たちが見逃すことがあるだろうか。ただでさえ、彼は私を助けるために、まほろばで地位のあるあの人の腕を噛み切っている。復讐をしようとしているだろうか。この人に。

 胸の中で徐々に大きくなる不安を拭おうと私は彼の首元に唇を寄せ、小さな声で歌った。少しでも癒えるようにと願うことしか私にはできなかった。

 そんな私の不安を悟ったらしい彼は私の頬に触れ、慈しむように、啄むように唇を落とした。優しくもあり、獣を思わせる荒々しくもある彼の口付けが私は好きだった。

 愛おしい。愛おしい。

 狂おしいほどに、何かもが。


 とても、愛おしい。




 いつの間に眠っていたのかは分からない。

 ただただ心地が良くて自然と眠りにつくのはいつもと違わないことだったが、自分が何に気づいて眠気から目覚めたのか把握できていなかった。細く開けた瞼の間からぼんやりと暗闇を見ている。

 つと、彼が身を起こした気配がした。瞼を開けて見えた相手の瞳が青く一瞬光る。獣のような気配を醸し出す。


「……あなた?」


 夜に浮かぶ彼の表情はとても悲しそうな、それでいて怒りを呈していた。


「血の匂いがする。遠くで別の森が騒いでいる」


 はっと息を飲んで身体を起こした。自分が起きた理由がこれだと気づいた。

 耳を澄ませる。遠く、ずっと遠くから、悲鳴を聞いた。

 断末魔のような、身が引き裂かれんばかりの声だ。ひとつではない。いくつも、何人もの声が重なり、破裂する。


「人が、争っているのだわ……」


 血を流して。互いに刃を向けて殺し合っている。彼が言うように、うっすらと血の匂いがした。

 瞼の裏に血の色がこれでもかと散らされる。悲しみが押し寄せる。

 人々が争いを起こす理由を、私は一度目の当たりにした。

 己の欲求を満たしたい者と、それに反し、己の守りたいものを命を投げ打ってでも守ろうとする者が存在してぶつかり合ったあの時。その結果、誰も幸せにはならなかった。どちらか片方に勝ち負けがつこうと、どちらも多くの命を失った。

 勿論、欲求同士がぶつかり合う醜い理由のために起こるものもあるだろう。考えが違うために起こされるものも、生きるために仕方なく起こされる戦いもあるだろう。

 だが何故、分かり合うことはできないのか。

 譲り合うことはできないのか。互いに認め合うことはできないのか。今ある細やかなものに感謝しながら生きていくことはできないのか。

 草や木と話せと言っているわけではない。言葉の通じる人と人でわかり合えばいい、それだけの話だというのに。

 何故、人はこれほどまでに愚かなのか。


「……何を、争っているのかしら」


 血の匂いに怯える私を抱き寄せ、「分からぬ」と彼は呟く。

 自然と涙が零れた。命が失われて悲しいのか、人の愚かさへの涙なのかは自分でも分からなかった。

 彼は指で私の涙を拭う。


「どのような理由があろうと捨て置く他ない。今までも、そしてこれからも」


 森のカミも彼も、森が脅かされない限り人の行いに関わることない。そうして人が滅びようとそれが人が己で選んだ道であるからだ。


「傍観し、彼らの行く末を見守る」


 ──それが役目。


 頭に思い浮かぶのは兄の姿だった。兄はあれからどうしているだろう。私に「行かないでくれ」と言った兄は。

 別れを告げた人だと自分に言い聞かせ、私は彼の胸に額を押しつけて目を閉じた。


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