第五章
梅の樹
知らない場所であるものの、どこか懐かしさを感じる空間で私は目を覚ました。
大きく胸で息をすると、ふわふわと宙に浮かんでいた意識が自分の中に戻ってくるような感覚があった。
天井がある。父の部屋のものではない。だが見慣れた感覚があった。私はここに来たことがあるような気がしてならない。
「……こ、こ」
声は掠れていた。身体は鉛のように重く、瞼を持ち上げるのも億劫で、ぐっと目を閉じたまま今までに何があったかを思い出そうとする。
そうだ、私は。鈴の音を鳴らして、歌って。彼が迎えに来てくれたのだ。そのまま自分を連れて行ってほしいと願って。
それで。兄やカヤたちと別れを告げて──そのあとに美しい朝陽を見た。
そこから先が分からなかった。彼の腕に抱かれて空に飛んだ。包まれている感覚が嬉しくてどうしようもなく、離れまいと必死にしがみ付いたことはしっかり覚えている。そうして目の当たりにした朝があまりに眩しかったのだ。
記憶はここまでだった。
再び深く呼吸して、天井を眺め、それから怠さのある身を起こしてみる。身体の節々が軋むようだった。身の上に衣が一枚掛けられていたことに気づいた。あの人が身に着けていたものだ。
ゆっくりあたりを見回して、自分がいるこの場所が、一家族が身を寄せ合って暮らすくらいの小さな部屋だと知る。中の造りはこの一室のみ。森の社の一室ととてもよく似ていながら、社とは違った不思議な感覚が辺りを取り巻いている。その感覚が言葉に言い表せない心地良さを生んだ。このまま床にまた寝入ってしまいそうなくらいに。
あの人はどこだろう。私をここへ連れて来てくれた、あの人は。
再び一通り見回してみたものの、どうやらこの部屋にはいないようだ。部屋に射し込む陽光からまだ昼間だと分かる。
一定の形を持たない人だ。人の形であるとも限らず、森と共にあるのだろう。以前のように陽が暮れればまた姿を現してくれるかもしれない。
不安はない。ただただ心地が良い。母の胎内に戻ったかのような。何かに守られているかのような。
空虚な心地のままに部屋を眺めていて、隅に置いてある存在に気づいた。近づいてみると、それは衣と鈴、鏡などの小物だった。衣は巫女のものと、普段日常で身に着ける女性の衣の二種類。小物に関してはすべて巫女が使う物に似ていたが、随分と古いように見て取れた。
衣を手に取ると、一部が崩れるようにほつれてしまう。どれだけ昔の物だろう。触ってはいけないものだっただろうかと、これ以上ほつれてしまわないように、どうにか揃えてもとの場所に置きなおした。
気が遠くなるくらいの長い間、使われていなかった場所のようだ。塵一つないように見えるが、持ち主を失ってから時間だけが過ぎたかのように生活感がまるで無い。
視線を建物の出口付近に投げると、木の実が置かれていた。彼が置いてくれたのだろうかと思考が働かない頭でぼんやりと考える。
食べ物を見た途端空腹が沸き上がるのを感じ、木の実をひとつ口に含む。喉が渇いているのを木の実が喉を通り過ぎて初めて気づいた。
耳を澄ませると水の音がした。泉が、近くにある。
私はそのまま小さな建物の外へ出た。
外の眩しさに目が眩み、咄嗟に片手で目元を覆った。木漏れ日が溢れんばかりに私に降り注いでくる。昼間の時間帯だろうか。
どうにか眩しさに慣れ、細められていた瞼を開くと、感嘆を漏らしてしまいそうなくらいの光景が広がっていた。少し離れたところに広々とした泉ある。大きな根と緑の苔に囲まれ、澄み渡るような深く青い水を静かに湛えている。薄い衣を軽く持ち上げ、足元に咲く花を踏まぬようにして泉の傍に歩み、畔に腰を降ろして覗き込んだ。青いと思えた泉は驚くほどに透明で、泉の奥にまで伸びる樹の根が見えた。そこに、空から降り注ぐ陽の光が反射している。魚の鱗が光り、そのまま底の方へ消えていく。
美しい。その美しさに泣き出しそうになる。
ここは、私が屋敷で鈴を鳴らした時、あの人を見た場所だろう。だとすると、ここがカミの住まう場所とされる森の最奥。
ああ、私はようやく。
ようやく、あの
泉の青を魅入るように眺めていると、そこに紅い花が流れてきた。梅の花だと気づくのにそこまで時間は掛からなかった。どこから流れてきたものだろうと、立ち上がって泉の畔を辿っていくと、大きな樹々の奥に紅い樹があるのを見た。
息を飲む。鼓動が大きく胸に響いた。
「……梅」
泉の奥、深い緑に囲まれた中で、悠々と咲き誇る梅の樹。この紅い樹だけが陽の光を浴び、紅く、黄金に光って見えた。まるでその梅の樹を讃えるかのように、少しの距離を置いて他の樹々が生えている。この樹が特別だと言わんばかりに。
風に吹かれ、いくつか紅い花を泉に落としながらもこの美しい空間で一樹が優雅に佇んでいた。
「……ああ」
言葉にならない。惹かれるように樹の方へ足が進んだ。大きく波打つ根を地に巡らせ、それは先にある泉にまで続いている。仰ぐと枝にたわわと溢れた紅の花がある。季節でもないのに何故これほどまでに美しく咲き誇っているのかは分からない。
「あなたは、あの時の樹なのね」
幼い頃に見た梅の木が、以前と変わらない姿で花を咲き誇らせて立っている。ずっと見たいと願っていたあの樹が今、すぐ目の前にある。
うねりのある立派な太い幹に触れた。暖かさがあった。こんなにも懐かしさを覚えるのは何故だろう。泣きたくなるのはどうしてだろう。
樹に額を宛て、そのままその根の間に座り込む。樹の鼓動が聞こえるかのようだ。
樹の中に水が吸い上げられ、流れ、陽から得る力を枝の先々まで漲らせているのが分かる。命がこの中で巡っているのが分かる。
「……生きている」
命がある。尊さと共に愛おしさが込み上げた。長い年月をここで生きてきた存在だろうに、まるで赤子のようにも感じる。樹が、季節が回るほどに命を巡らせていく存在だからだろうか。死んでは生まれ、また死んでは生まれを繰り返す枝を持ち、長い時を静観し続けている。
暖かな樹皮に身を任せたまま、目を閉じた。
気付くと、私は夜空のような暗闇の中にいた。ぼんやりと宙に浮いている。不思議とは思わなかった。当然のことのように受け入れている自分がいる。
暗い中に一本光の筋が上へ向かって伸びていた。風のような水のようなうねりが絡み合うようにその光を辿って登っていく。
水の音がする。吸い上げられる。
どくどくと、鼓動のように脈打っている。
今まですぐ傍にあったはずの風の音が、草が揺れる音が、鳥の囀りが、耳に膜が張ったように遠くに聞こえた。
私は、この樹の中に入っているのだろうか。
分からない。
この樹の意識の中だろうか。
分からない。
知っている世界から私が引き剥がされる。自分がどこにいるのかの恐怖はない。それ以上に知りたい欲求があった。この樹に寄り添っていたい。
地から力を受け、水が吸い込み、空から光を得る。この一筋の金の光は、命の綱なのだと思った。美しい線だと思いながら眺めていたものの、それが金だけではなく、所々に青い光があった。透明に近い青。泉のような。
よくよく見ていたら、金の線が弱々しく切れてしまいそうな部分を青い光が補っているのだと知った。その青い光は、力を使う時の彼の瞳の色によく似ていた。
黄金の中の青さに触れようと伸ばした時、自分の手が同じ色に光っていることを知って驚いた。両手をまじまじと見つめていると、自分自身が光となってここに存在していることを知った。そしてもう一本の光の線がゆっくりと宙に真っ直ぐ伸びている。それは己の胸元から伸びていた。伸びて、伸びて、樹の澄んだ光に引き込まれる。
これは、私の──。
理解が追いつかないまま、私から伸びる光が樹の光の筋に音なく触れる。触れて、ひとつになる。どくんと、大きく身体全体が脈打った。一度だけではなく、そのまま何度も何度も大きく身体に響き出す。
樹の鼓動に、私の鼓動が共鳴している。全身に熱を感じた。鼓動と共に、まるで血流のように、身体に流れ込んでくるものがある。
そこで初めて「怖い」と思った。自分の身体ではないような感覚に襲われる。身体が言うことを聞かない。
溶けていく。吸い込まれていく。流れ込んでくる濁流のような熱さに耐え切れなくなる。
樹は、私の光だけではなく、私の身体をも飲み込んでしまう。
ああ。
私は、この樹の中に溶けて──。
「沙耶」
自分でどうしたらいいか分からなくなった時、私を引き戻す声があった。暗さの中に白い手が私に伸びている。伸びて、動けないでいる私の手を取った。そのまま引き出される。樹の命の綱から、引き剥がされる。
樹は、私を快く放した。
繋いだ手が離れるかのような感覚だった。
私は、梅の樹の傍で、彼の腕に抱えられていた。ぼんやりとした意識の中で、彼の顔を見て安堵する。
「……あなた」
自分を覗き込む彼は優しい表情をしていた。力は入らない。ぐったりとして身体は目覚めた時よりも重かった。彼は私の髪を撫でた。この身に起こったことを彼はすべて分かっているかのようだ。
「大丈夫か、沙耶」
問いに頷いて返した。あれだけ感じていた身体の熱もすっかり引いている。あの違和感もない。眠気のようなものが取り巻いているだけだ。
辺りはすっかり夜に沈んでいた。水の音も、風の音も、すぐ傍にある。いつもと変わらない世界。そして夜であっても月光を浴びながら紅い花が頭上で咲き誇っている。
「……ずっと、花咲いているのですね」
紅い花を仰ぎながら呟いた。幼い頃からこの樹は何も変わらない。
「これは母が植えた樹。母が唯一私に遺したもの」
この人の母は、最初の巫女だ。彼女はいつかも分からぬ昔の話。その時からあるならば、それはなんて。
「なんて、長い命」
だが、相手は「いいや」と静かに首を横に振った。
「私の力でこの樹は生き長らえている」
樹の中に見た、青い光はそういうことなのだと知る。この人は、命を繋ぐことも出来るのだ。だからこそ、この樹は季節もなく咲き誇り続けている。
「この樹は沙耶が好きなのだろう。これほどまでに沙耶に触れようとするとは思わなかった」
私はあの樹と一瞬であったものの、同化して溶け合った。あの怖さは初めての感覚だったからだろうか。怖さはあっても、確かにあの樹を私の身体は受け入れていたのだから。
「戻ろう」
彼は私を抱えて立ち上がり、社の方へ歩き始めた。胸に抱かれて安堵する。ここが私の居場所なのだと。私は初めて、己の居場所を見つけられたのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます