決断

* * * * *


 沙耶が不思議な見たこともない男の腕に抱かれ、この屋敷を出て行った日のことを、私は未だ夢に見る。


 「」は恐ろしく美しい男だった。


 青い瞳は深く澄んだ泉のように輝き、背後の月がこれでもかと似合う。


 月光の白さに溶けていってしまいそうな透明感を纏いながら、黒い髪は風に吹き流れ、どこからともなく梅の香りがした。


 が今まで我々を救うことをしなかった森のカミと同等の存在。がそうなのだと、その姿を見た時に確信した。


 それは人の姿ではあったが、人ではないことはすぐに分かった。

 纏うものが人のそれではない。

 たとえば森に巫女にうっすらと感じていた不思議なもの──それがあの男においては全身に溢れんばかりにあるのだ。


 何よりあの青く光る瞳孔。すべてを見透かすような眼差し。

 こちらのことをすべて知ろうとしているかのような。


 ああ、化け物だ。それは化け物だ。


 沙耶、何故それに気づかない。お前が身を寄せている相手のその正体が、お前には見えないのか。


 夢だと分かっているのに、目覚めれば終わるというのに、目覚められない。

 本当に、嫌な夢だ。


 風が大きく流れ込み、夢の中にいる私は呼吸もままならない。

 どうにか堪えて、妹がいる空を仰ぐ。

 そこには化け物と共に沙耶がいた。幸せそうに微笑み、相手の胸に頬を寄せ、その背に手を回す、森へ行きたいと泣いた私のたった一人の妹。


 化け物の腕に抱かれた妹が、私の姿を認めてその目を見開く。だがそれも一瞬、今度は切なげな眼差しを向けて、夢の中の沙耶は私に言うのだ。



 ──兄様、どうかお元気で。





 ここで、ようやく瞼が開いた。夢から覚めた。

 いつもの部屋の天井があり、隣には妻が子供たちと並んで寝息を立てていた。それでも視界の中に、沙耶があの男に抱かれて朝焼けの空へ消えていった記憶が流れた。


 嫌な汗をかいていた。沙耶の声が耳の奥に張り付いて何度も響き続けている。


──沙耶。お前は、人ではないか。


 何度夢を見てそう繰り返したか分からない。

 目を閉じると、妹の最後の姿が今までそこにいたかのように浮かび上がり、後悔ばかりが付きまとってくる。


 何故、あんな化け物のもとへ。お前は、あの化け物に夢を見ているだけなのだ。


 頭痛がした。一度起きてしまえば、そこから眠ることは出来なかった。

 寝具から起き上がりどこへ行くわけもなく外へ出ると、目の前に森があった。幼い頃から眺め続けていた広大な森。

 カミがいるのだと教え込まれ、それに逆らってはならないと言われ続けていた。だが、今ではそう思うことが出来なくなった。悍ましい場所だ。悍ましい存在だ。


「……また、あの時の夢を見られたのですか」


 背後から妻がやってきた。

 そうだと小さく頷く。頭痛が治まらない頭を抱え、握り込んだ拳にぐっと力を入れる。

 沙耶がここから居なくなってひと月。どうすればいいのか、考え続けてきた。


 沙耶に関して、沙耶の夫に伝えなければならない。理由を話さずいつの間にかいなくなっていたではあの男は納得しないだろう。

 あの男がムラをどうするか。


「沙耶を、このままにはできない」


 顔を上げて妻に言った。妻はなんとも悲しそうな顔をして目を伏せる。


「ひと月考えた。まほろばに今回のことを伝える」


「このままにしておくことは出来ないのですか。沙耶様は自らあの御方のもとへ行かれたというのに」


 母も同じことを言う。

 沙耶は自分であの化け物のもとへ行った身なのだと。

 我々が連れ戻せば災いが起こる。それにこれ以上沙耶の自由を縛ってはいけないと。


 だが、私はムラの長だ。


「ムラの皆のため。何より沙耶のためだ」


「与一、お願いです」


 寝具の母に心に決めた旨を伝えると、母は私に縋るように言った。


「どうかやめてちょうだい。沙耶は、あの子は、もうカミのものとなったのです。まほろばに伝えるなどなりません。このままで。どうか、このままで」


 沙耶がここを去ってからというもの、母は病に伏していた。これで良かったのだと言いながら、思い悩み、寝込んでしまったのだ。そんな母の看病を、沙耶に残されたカヤが担っていた。

 カヤも母を支えながら静かな目で私を見ていた。発言することはないが、カヤも母と同じ立場にいることは分かった。


「母上、あなたは我々の立場を分かっていない」


 涙目の母を正面から見据える。


「我々のムラは、ムラの人々の命は、大王次第であることをお忘れですか。その大王が沙耶を欲していると言うことをお忘れですか。我々はこのままではいられない」


「しかし沙耶はカミの妻です。カミも沙耶を望み、あの子を連れて行ったのです。あの子はもう、」


「沙耶を屋敷へ帰すことができない理由を、母上はまほろばになんと伝えるおつもりです」


「それは、」


「沙耶の病が治らないでは決して済む話ではない」


 まほろばの大王は沙耶を欲しがり、我々に差し出すよう要請している。

 これを破ればどうなるか。どこかにまほろばの使者が潜んでいるかもしれない。

 沙耶の姿がないことが露見すればその理由を彼らは探るだろう。そうなればムラの立場は危うくなる。


「あの子はもう自分の役目を全うしたではありませんか。もうこの一族の役目を解いてあげましょう。与一、お願いです」


 病床の母は、青白い顔で懇願する。


「ならばムラはどうなるのです。母上は大王の命に背いた者たちがどのような目に遭っているかご存じないのか」


「与一、」


「首を切られているのです。女子供関わらず全員です。このムラも同じ目に遭っても良いと、そうお考えですか」


 母は目を見開き、カヤに身を寄せた。反発する者はまほろばの者たちにより滅ぼされる。

 だからこそ、まほろばは今や巨大な勢力と成り、多くの者たちを従えることに成功してきたのだ。そして誰にも破られない最強の存在となり得た。


「そのような状態で何も言わずに沙耶が消えた、カミに攫われてそれでいいと放っておいたではこのムラを彼らは許しますまい。あのまほろばがこちらの隠し事に気づかぬはずがない。このムラの人々が全員打ち首にされても良いというのですか」


 母は震える両手で顔を覆った。何度か交流があったひとつのムラも、大王に刃向かい、ムラ丸ごと人々が首を切られたという。


「そうならないためにも、ムラを守るためにも沙耶がカミによって連れ去られたと伝えるべきだ。森のカミのせいだと知れば、我々に咎はなくなる。誰も死なずに済む」


 考えなければ。

 少しでも血を流さずに済む方法を。


「ああ……与一」


 母は頭を抱え、項垂れている。


「これでムラが滅ぼされては、父や戦で死んでいった者たちに会わせる顔がない。ムラのために私がある。昔のままではいられない。だからこそ今はムラのために最善のことを行います。それだけです」


 長としての役目がある。ムラが滅ぼされることだけは何としてでも避けなければならなかった。

 様々な想いが沸き出る中、強く拳を握り混み、母を見据えた。

 母の目元は沙耶によく似ていた。森へ行きたいと言ったただ一人の妹。失うわけにはいかないと、この手で守ろうと思った大事な存在だった。


「母上」


 唇を引き結ぶ。

 何故、自分は妹を守ってやれなかったのか。

 自分が何より守りたかったのは、沙耶ではなかったか。


「ここからはムラの長としてではなく、沙耶の兄としてお話しします」


 背筋を伸ばし、静かに口開く。


「沙耶を追い込んだのは兄である私です。私のせいで沙耶は、あんな化け物と関係を持った。拐かされた」


 沙耶の変わり果てた姿を思い出す。笑顔がなく、暗い影を纏ったような、あの姿。

 まほろばの夫の妾になってからの沙耶をもっと気遣ってやっていれば。何かの手段をつかってでも、ムラに戻すことが出来ていたなら沙耶はあの化け物に好意を抱くことなど無かっただろう。


 後悔は尽きない。


「あれはおぞましい生き物だ。沙耶はあの化け物の妻にさせられただけだ。拐かされただけなのだ」


 人の形をした化け物。青い目の化け物。

 沙耶を、取り戻さなければ。


「そんなことをどうして指を咥えて見ていろと言うのか。そもそももっと早くにあれが化け物だと気づいていれば、この悪しき風習に沙耶を捧げることもなかったというのに。沙耶は普通の娘と同じように、このムラで幸せに暮らせていたかも知れないというのに」


 幼い頃の沙耶を、巫女として森の社にあげなければ、沙耶はまほろばの男の妾になることも、苦しむこともなく、普通の女としての幸せを掴んでいただろうに。


「今はっきりと問います。母上はこのまま沙耶を諦められるのですか」


 母は嗚咽を漏らしながら嘆いた。


「私はできない」


 私の声に母は悲壮な顔を持ち上げる。

 その涙に濡れた目を見て、確信する。母も、沙耶を諦め切れてはいないのだと。娘が心配で心配で仕方が無い。

 カミのもとへ言った娘が、無事であるとも限らない。カミに何をされるか分かったものではない。


 だが、カミの妻となり、誰も踏み入れられぬ森の奥へ連れて行かれた娘を取り返せるはずもない。

 何より娘自身がカミの妻になることを望み、私たちの手から離れたのだ。その意思を尊重したい気持ちも母の中にはあるのだろう。


「……しかし与一、お前はカミにどう太刀打ちするつもりです。敵うはずがない。お前も知っているでしょう、あの森には巫女以外入ることさえ許されていないのですよ。沙耶を取り返そうと踏み入れても皆殺されてしまう」


 問題はそれだ。沙耶はおそらくカミの棲まうとされる森の奥に連れて行かれた。我々がたどり着ける領域ではない。


「森を殺して回っている輩がいるでしょう」


 自分でも低い声音だと思った。恐ろしさでも感じたのだろか、母とカヤは身をすくめた。


「まさか」


 たったひとつ。森のカミを殺め、森の意思を奪うことに成功している者たちがいる。


「そうです。まほろばの者たちです」


 私の返答に、二人は口元に手を当てた。


「沙耶の夫は沙耶を愛していなくとも、立場上妻を奪われたことになります。これは男にとって見逃せないものになる。おそらく、沙耶の夫は大王の力を借り、まほろばの兵たちを率いて妻を奪った相手を討たんとするでしょう」


 森を殺して回る存在を連れて。

 鉄を多く持ち込み、カミの存在を脅かす唯一の軍団を連れて。


「でも、ここへ戻ってきて沙耶はどうなるのです。お腹の子も、あと二月、三月もすれば生まれましょう」


「子供のことはあとから考えれば良い。踏み入った時にこの手にかけても構わない。あの化け物との子供など、沙耶を縛り付けるものにしかならない」


 母は悲鳴を上げた。


「与一、与一、それはなりません。お前の甥か姪に当たる子ですよ。赤子を殺めるなどなりません」


 母は、沙耶の子を己の孫と捉えているようだ。

 私の娘である沙世たちと同列に考えているのだと思うと吐き気がした。


「母上、お忘れですか。沙耶の子はそもそも人の子ではない。沙耶の身籠った子供は化け物の子だ。そのような感情、私にはない」


 これ以上の母の話は聞かず、私は母の部屋を出た。


 傍の壁に額を寄せ、ぐっと歯を噛み締める。

 頭痛がした。大きく息を吐く。


 あと二月、三月ほどで生まれる。沙耶の腹の子が。沙耶が大事に腹に抱えていたあの子供が。

 沙耶が無事に出産を終えていればの話だ。

 人の出産でさえ、母と子が二人とも生きて終えられるのも五分五分だというのに、果たして人である沙耶の身体がカミの子を産むことに耐えきれるのか。


 妻であるユキのムラに伝わっている巫女に関する伝承のことを思い出す。それは私たちが言い伝えてきたものとは違い、巫女の最期を記していた。


 森のカミの妻となった最初の巫女は、人の身では出産に耐えられずカミの子を産んで死んだ──と。



 それが真実か否かは判断はつかない。それでも、その巫女の最期が全くの嘘だとも、今では思えなかった。


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