化け物

 沙耶の傍にいたいというカヤにそれを許した後、母と二人で話し合った。母は蒼白の顔のまま背筋を伸ばしてこちらの話を聞いていたが、私より冷静でいるように見えた。

 話してはいても、私は沙耶の身に起こった出来事を上手く呑み込めないままいる。

 これからのことを話す余裕はなかった。カヤから聞いたことを頭の中で整理するのに精一杯だった。

 沙耶が冷たい扱いを受け、女としての幸せはおろか、夫の優越感を満たすだけの存在として耐えていたこと。沙耶が夫ではない者と関係を持ち、その子を身籠っていること。実の夫が沙耶の懐妊を知らないこと。そしてその夫は得体の知れぬ、カミとも同じ存在と思わしき巨大な犬に腕を噛み切られていること。

 これからどうするかは、沙耶の話を聞いてから決めるべきだと結論に至った。



「与一様」


 声がして振り返った先にカヤがいた。


「沙耶様が目を覚まされ、お二人とお話しになられたいと」


 沙耶が、目を覚ました。

 真実を知りたいような、知りたくないような、そんな気持ちが胸の内にせめぎ合っている。


「今、行こう」


 私より先に母が立ち上がった。すぐにでも目覚めた娘の傍に行こうとしているのだ。


 私は母を支えるように傍に寄り添い、妹のいる部屋へ向かった。

 沙耶のいる場所は最奥、もとは父の部屋だったところだ。ぐるりと塀に囲まれてはいるが、庭に面しており、森を仰ぐことができる。何よりムラの集落から最も離れた場所であるため、ムラの者たちと顔を合わせることもなかった。

部屋の前まで来ると、部屋を仕切る簾の前に小さな子が立ったり屈んだり、中にいる人物を見ようと躍起になっていた。


沙世さよ、何をしてる」


 幼い娘は私の声にはっとしたように飛び上がる。


「とうさま」


 屈んで手を広げると、娘は小さな足取りで私の方へやってきた。


「あそこに知らないひとがいるの」


 娘は不思議そうな顔をして簾を指さしている。


「沙世、ここは駄目だ。母様のところに戻りなさい」

「あのおんなのひと、だあれ?」


 こちらに身体を向けているものの、娘の視線は未だ沙耶のいる部屋の簾に向けられたままだ。

 一度気になると両親の言うことを聞かなくなる好奇心の強さがこの子の困ったところでもある。それでも、ここにいるのは何度も話して聞かせた実の叔母に当たる「沙耶」なのだと今この子に教える気にはなれなかった。


「沙世!そんなところに」


 背後から妻のユキが走ってきた。


「目を離したら行ってしまったのです。今まで探していて」

「沙世を奥に。ここには近づけるな」


 沙世を私から貰い受けたユキは頷いてその場から離れて行く。


「行きましょう」


 二人が戻ったのを見届けた私が隣の母を促すと、母は意を決したように頷いて踏み出した。


「沙耶、入りますよ」


 母が声をかけても返事はなかった。簾を持ち上げて入ると風が流れ、訪れた私と母の髪を撫でて行った。

 うっすらと花の香りがする。この部屋だけ不思議と時が止まっているような心地がした。その理由は定かではない。この部屋にいる妹がそう感じさせるのか。

 当の沙耶は寝具を出て、部屋の縁に身を寄せ、森を眺めていた。長くなった艶のある黒髪が森からの風に靡いている。


「……沙耶」


 母は囁くように娘の背に呼びかけた。森を仰いでいた沙耶はゆっくりとこちらを振り返る。どうしても妹は悲しそうな顔をしていた。


「母様」


 母は娘の傍に歩み寄り、そのまま幼子のように娘を腕に抱き締め、「ごめんなさい」と繰り返した。沙耶は首を横に振って、母の腕に身を委ねている。

 二人の姿を眺め、私は目を伏せる。たおやかな風の音が耳の傍を過ぎていくのを聞いていた。


 母を横に沙耶は私の向かいに座った。何を尋ねられるかを、妹はすでに分かっているかのような表情を湛えていた。


「お前が身籠っていると聞いた」


 私の問いかけに、沙耶は悲しげに、それでいて静かに頷いた。


「誰の子であるのか、言えるか」


 風が通る広い部屋に、私の声は驚くほどよく響く。

 沙耶は一度深く息を吸うと、前に両手をついて頭を下げた。


「まず、自らの役目を果たせず、ここへ戻らざるを得なかった私を、どうかお許しください」

「沙耶、良いのです。良いのですよ」


 母は沙耶の髪を撫でて泣きそうな顔で微笑んでみせた。


「沙耶、謝らなければならないのは私の方だ」


 私も自然と声を掛けた。どれだけ言葉を並べようにも沙耶の心を救えるものにはならないのだろうと分かっていながら。


「私たちのために辛い思いをさせてすまなかった。そこから救ってやることも出来なかった……謝っても謝り切れることではない」


 このムラの誰も、この娘を責めることなど出来ない。


「兄様、母様……私は大丈夫です、私は……」


 母に支えられ、身を起こした沙耶は言葉を切り、私と母を真摯な目で見つめた。

 驚くほど澄んだ目だ。漆黒の瞳の中に、森の泉のような、一点の群青の光が見えた気がするほどに。ただ、その眼差しの中にはどうしても憂が見え隠れしていた。


「沙耶、話してはくれないか。その子の父のことを」


 悩まし気に一度膝元に落とした視線をゆっくりと前に向けた妹は、私と母を見やり、しばしの間があってからようやく口を開いた。


「……お二人が、巫女の一族に生まれた方であることを見越して全てをお話し致します」


 静かに風が流れ込んでくる中、沙耶は守るように腹に手を添えていた。


「私は、あの屋敷で生涯を終える覚悟でありました。ムラにも戻らず、お二人にももう会うことはないのだと自分に言い聞かせ、それを受け入れていました……しかし、過ごしていくうちの孤独に、淋しさはどうしてもあった」


 冷淡な扱いを受け続け、孤独や淋しさを感じるなという方が無理な話だ。


「そうして過ごすことが己の役目であると、そうして過ごしていくのだと頭では分かっていながらも、耐えられないほどの辛さに襲われ……三年が経ったある夜、ムラへ帰りたいと今までないほどに強く願い、私は耐え切れず、初めて孤独に泣いてしまったのです」


 三年の間、それまで泣かないで過ごしていたのか。便りでも出してくれていたならば、呼び戻すことも出来ていたかもしれない。それを知っていたなら、私は妹をそのようなところに置いたままにはしなかった。


「その時、私はとある方を目にしました。男であれば夫以外入ることを許されない場所に、誰かが一人立っていたのです。影を見るからに男性でした」


 はっと顔をあげて妹を見た。

 それが相手なのだと確信して、手に力が籠った。


「その方は迷うことなく私のもとへ来ました。とても美しい方だった。何故そこにいるのか、どうして私を訪ねてきたのか、あの時は分からなかった。周りは皆眠りにつき、あの時私とその方だけが起きていました。この世のすべてが寝静まってしまったかのような……でも怖くはなかった。ただただその方に懐かしさを覚えたのです」


 沙耶は片手を胸に当て、記憶を噛み締めるように続ける。


「あの方は私の手を取り、屋敷から連れ出して下さいました。空を登り、私は夜の空を歩いたのです」

「空を……」


 思わず繰り返した。そこまで聞いて漠然とした疑問が私の中に現れていた。

 果たして、普通の人間が誰も入ることを許されないところに入れるのか。沙耶を連れ出すことなどできるのか。空を、沙耶を連れて行けるか。


 沙耶、それは。

 その男は、のではないか。


「空を行く時、その方を見ると、その姿が白く淡く光っていたのです。私以上に森や獣と語らうことが出来ました。森や他のカミと語らう際は目を青く染めます。それはとても美しい湖や空のような青なのです」


 我慢できず口を挟もうとした私を母が手を少しあげる仕草で止めた。最後まで聞くよう諭していた。


「私は気づきました。この方は人ではないのだと。そして幼子であったあの日、私を森からムラへ返してくれたあの方なのだと」


 愕然とする。思考が、止まるような心地になる。


「衣はあの時と違っていた。以前はムラの男たちが身に着ける衣でしたが、夫が身に着けるまほろばの衣を着て私の前に現れました」


 おそらく幼かった私と共に森の中で迷い、生還した際、沙耶を助けたという男のことだ。ずっと沙耶が見た夢やら幻だと思っていた存在。そう信じて疑っていなかった。だというのに。


「その方は私に告げました。自分は私たちの森のカミの子であると。昔、最初の森の巫女がカミと契り、産んだ子なのだと」


 言葉が出なかった。胸を鋭いもので突かれたような衝撃があった。相当昔の伝説としか思われていなかった存在だ。その話を死んだ大巫女に聞いた時、私が戯言だと言い捨てたこの言い伝えは、真実だったのか。

 そして沙耶はその男に会ったのか。その男は、「」は、森を出た沙耶を探していたのか。


「私がどんな身であり、森を離れ、巫女としての資格を失っていると知りながらそれでも尚、私を求めてくださった。あの方は私に問うたのです。自らを受け入れてくれるかと」


 その男のことを語る沙耶の目を見て確信する。腹に宿した子の父はその「カミの子」なのだと。

 まるで血潮が逆流するかのようだった。


「迷いはありませんでした。私はあの方を愛していました。あの方が私の手を取ってくれた時、私はこの人の妻になりたいと強く思いました」


 このムラが出来る前から生き続け、多くの生き物に姿を変えることができ、自然や獣と語らい、空を歩くこともできる。

 存在さえ疑っていた存在が、沙耶が愛した相手だとは。人ではなかったとは。

 人知を超えた存在であったのならば、入り込むことが難しい沙耶のいる屋敷に行くこともできよう。周りにいる者たちを眠らせ、沙耶に接触することもできよう。

 沙耶の夫の文に書かれていた出来事は、「カミの子」が沙耶の危機を悟って怒りを表し、引き起こしたことなのだ。だから雨風が吹き起り、神々しい犬が現れ、沙耶の夫を殺めんとばかりに襲った。人前にカミと同等の存在が姿を現した。

 「カミの子」が愛した娘を、人の男が穢そうとしていたから。


 妹の話を聞くほどに、様々なことが繋がり一本の線になっていく。


「私は、この方に仕えるために生まれて来たのだと。私の身も心も、この方に捧げるためにあったのだと、そう思いました。この身が穢れていると知りながら、あの方は私を受け入れてくださった……私は、初めて誰かに愛されることの喜びを知りました」


 沙耶の「カミの子」を語る表情は、初めて見るものだった。柔らかく、切なく、深く恋い焦がれているのだと一目で分かるような儚げな微笑み──。


「私に宿る子は、その方の御子です」


 自分の唇が震えるのを感じた。


「森に住まうカミの子が、この子の父親です」


 私と母は次の言葉を見失っていた。沙耶の身に起こったことは、私たち二人の想像に足りるものではなかった。風の音だけが変わらず周りのものを揺らし、響いている。


「お願いです」


 沙耶は私に縋るように告げた。


「私はあの方がいる森へ、今すぐにでも行きたい。連れて行ってほしいのです」

「駄目だ、沙耶」


 言えたのはこれだけだった。

 少し動くだけでも崩れてしまいそうなその身であの森へ行くなど言語道断だ。ましてやその「カミの子」のもとに行かせるなど。


「兄様、お願いです。私が夫を拒んだ時、あの方は獣に姿を変えて現れ、怪我を負ったのです。怪我の源は夫が放った鉄の鏃です」


 鉄──沙耶がよく言っていた、カミが嫌う人の為した物だ。森に持ち入ることを固く禁じられている物。まほろばの者たちはそれでカミを殺して回っているという。


「森であの方は苦しんでいる。私を守るために怪我をしたのです。私には分かります。森から血の匂いがするのです……今すぐにでも行かなければ」


 沙耶は再び目に涙を貯めた。その手は震えている。相手が心配でならないのだ。


「あの方のもとへ、私は行きたい」



 体調が落ち着いてからと妹を説き伏せ、カヤに傍にいるよう頼んでから母と私は部屋を出た。部屋を出るなり、気丈に振る舞っていた母は、まるで糸が切れたかのように私に縋って泣き出した。


「与一、与一、あの子をあの屋敷へは返してはなりません」


 母の背を擦りながら、自分を落ち着けようと私は大きく呼吸をした。母は身体を震わせながら続けた。


「カミの妻となったあの子はもう人ではない……我ら一族の本来の道を、あの子は歩んだのです」


 妹はカミの子を宿した。カミの子などを産んだら妹はどうなるのか。

 沙耶は人ではなくなるではないか。

 普通の娘としての幸せを願い続けた私の妹は、もう。


「……母上」


 啜り泣く母の肩を掴み、その目を見つめた。


「沙耶はまだ人です。カミではない」

「与一、あの子はカミを愛しているのです。それに沙耶はこのまま子を産むでしょう。生まれた子はどうするつもりですか」

「それは……」


 沙耶の腹の子の存在に、口を噤んだ。

 カミとは何だ。我々を守る存在ではない、助けることもしない、獣に姿を変え、何百年も生き、自然と語らい、人の女を妻として子を孕ませる──ではないか。

 ならば、人とカミの間に生まれた子もまた、だ。

 行きついた思考に納得し、愕然とする。今まで我々は、何と恐ろしく悍ましいものを奉っていたのだろうかと。


「あの子はカミを受け入れた。おそらくカミは怪我が癒えれば沙耶を求めます。切っても切れぬものに沙耶は繋がれている……巫女とはそういうものです。それはお前も分かっているでしょう」


 相手は切実に訴える。対して、カミが化け物だと思えば、私の考えは自然と一つに纏まっていった。


「母上は沙耶を森のカミに差し出せというのですか。あの時と同じように」

「そうです。沙耶はあの森そのものになろうとしている。今度は沙耶がそれを望んでいるのです」

「カミなど化け物だ」


 私は吐き捨てるように告げた。


「我々が今まで頭を下げて奉ってきたものは化け物だったのだ……何故今まで気づかなかったのか」


 母に聞こえるか聞こえないかの声で呟き、妹を森のカミに差し出そうと言う母を見つめた。


「目を覚ましてください、母上。一度でもカミは我々を救ってくれましたか。戦いを止めてくれましたか」


 何度夢に見てきたか分からない、父の死に顔。仲間たちの悲鳴。おびただしい血の色。むせ返るような死臭。


「カミが我々をまほろばから守ってくれることはありましたか。まほろばに負け、飢餓に苦しむ我々を助けてくれましたか」


 父や仲間たちを十分に葬ることもできないまま、まほろばに食糧を奪われ、子供たちや赤子がひもじさに泣き、ムラが苦しむあの光景。死んで行く人々の表情。


「何故父上が殺され、沙耶がまほろばの男の妾などになったかお忘れですか」


 森のカミが我々に何かをしてくれたことなど、一度たりともない。


「あれはただの化け物だ。あの森は化け物が住まう森だ。母上は娘を化け物に差し出すつもりなのか」


 母は愕然と息を飲む。


「沙耶は、化け物の妻となって幸せになれますか。その化け物の子を産んで生きていられますか。その保証がどこにある。カミと契ったという最初の巫女の最期を誰も知らないというのに」


 相手は大きく目を見開き、一層の涙を流した。


「私は、沙耶を化け物の餌食にするつもりはない」

 

 そうだ。

 カミなど、化け物だ。


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