カヤ

「屋敷でのことは、把握している限り私からお話し致します」


 カヤは私と母を前に最初にそう告げて、沙耶の身にあったことを話し始めた。三人しかいない部屋で、カヤの声は静かに降るように聞こえた。


「先方は、約束通り暮らすには不自由のないくらいのものを揃えて沙耶様をお迎えしてくださいました。宛がわれた部屋は広く、衣食住には何の不便もありませんでした」


 淡々と紡がれていく言葉を、母は一言も聞き漏らすまいと背筋を伸ばして耳を傾けている。


「最初から知らされていたように外に出ることは許されず、ムラとは何もかもが違った、まほろば独特のしきたりもありました。勿論沙耶さま自身、それをしっかりと受け入れていらっしゃって、慣れないしきたりも覚え、皆様に馴染もうと懸命でした」


 沙耶を妾としたあの男には、私たちが思っていたよりも多く、まほろばから連れて来られた妻がいて、ムラから出てきた沙耶は彼女たちに随分と蔑ろにされていたようだ。

 開墾に使わされているムラの男たちも外に出て蔑まれることがあると言うのだから、沙耶がまほろばの者たちが多い中で同じようにそしりを受けていただろうという想像は難しくない。

 ただでさえまほろばから見れば、森のカミを奉る風習が古く、異端なのだ。それは自分たちがまほろばの配下となって嫌と言うほど身に染みて知った事実でもあった。


「しかし沙耶様がもとは巫女であったことを皆が気味悪がり、侍女さえも出ていき、広い部屋には侍女の一人と私だけ、沙耶様は旦那様がいらっしゃる時以外はお一人でいらっしゃった」


 どれだけ努力しようとも受け入れてもらえなかったこと。ぞんざいな扱いを受け続けていたこと。まるで閉じ込めるように屋敷の中での生活を強いられていたこと。

 自然豊かな森を走り回って過ごしていた沙耶に、その生活は苦痛の他の何物でもなかっただろう。


「それでも沙耶様はムラのためだ、仕方のないことだと耐え続け、他の奥方とも、森を蔑むような方々と関わることはない、放っておけばよいのだと私を抑えました」

「……それであの方は?」


 カヤの話を聞いていた母が尋ねた。


「沙耶の夫となったあの方は……沙耶を守ってはくださらなかったのですか」


 周りが敵ならば、沙耶にとってあとは夫しかいない。夫だけでも味方になってくれていればせめてものの救いになる。

 だが母の願いにカヤは静かに首を横に振った。


「旦那様はそんな沙耶様を慰めることはありませんでした。初めから、沙耶様への愛情など抱いていらっしゃらなかった」

「それは真なのですか」


 母の声は震えていた。


「一度、旦那様に呼ばれた沙耶様が泣いてお戻りになったことがありました。その時に旦那様がそう話していたのを聞いたのだそうです。巫女という珍しい身の上の沙耶様を手に入れたかっただけだと弟君に仰せになられていたと」


 カヤは低く告げていく。


「それまでにも、旦那様は自らを慰めるために嫌がる沙耶様に床入りを強いることが多くありました。沙耶様は口に出すことはありませんでしたがお一人で苦しんでおられたはずです。更に旦那様は弟君に沙耶様との共寝を勧めたとも……」


 母は大きく身を揺らして泣いた。沙耶を行かせるべきではなかったと強く悔いた。私は頭を抱え、自分の膝に視線を落とした。

 そんな場所に、沙耶は三年もいたのだ。このムラと、私たちのために。

 だから沙耶はあれほどまでに変わってしまった。以前は輝かんばかりの笑みを湛えていた顔に今は憂いを浮かべ、その屋敷を出て母と再会できたことを泣いて喜んだのだ。


「あちらからの文で、沙耶が巨大な犬を呼んだと聞いたがそれは事実なのか」


 あの文の内容も聞かなければと思い尋ねたが、カヤは「いいえ」と首を振った。


「以前と同様、沙耶さまには雨風を起こすような力は御座いません。ただ、巨大な犬が現れたのは本当のことです。私もその犬の姿をこの目で見ました」

「一体、何があった。詳しく話してくれないか」


 見たこともない獣が現れ、沙耶の夫の腕を噛み切ったと文には書いてあった。その事実を確かめなければならない。


「あの日も旦那様は沙耶様に床入りを強いていたのです。嫌がった沙耶様が悲鳴を上げた時、突如晴れていた空が雲に覆われ、嵐が起きました。地響きが鳴り、屋敷は地面を割くような揺れに崩れ、雨風が吹き荒れ、そして神々しい巨大な犬が現れたのです。犬は沙耶様を守るように旦那様の腕を噛みちぎって消え失せて……恐ろしい光景でした。あの嵐は、あの犬の為せる業なのだと思いました」


 言葉が出なかった。そこらに巨大な犬がいるとも思えない。

 雨風を自由に起こせるような力を持った犬がいるとすれば、それは森のカミかそれに相当する存在だ。

 沙耶の悲鳴がそれを呼んだのか。巫女であった沙耶を、カミは探しているのか。本来決して人前に姿を現すことのない存在が人前に現れたとすれば、それは異常なことだ。


「与一様」


 カヤが私を呼んだ。本題はこれからだと言わんばかりの面持ちだ。


「沙耶様は今、身籠っていらっしゃいます」


 母がはっと息を飲んだのを聞いた。私は、目の前にいる妹の侍女を凝視した。


「ご気分が優れないのもそのためです。気づいたのはついこの前。まだ薬師には診せておりません」

「なんと……」


 妹は身籠っている。まほろばの男の子を。そんな愛情も抱けないあの男の子供を。


「お相手は、旦那様ではないのです」


 刺されたような衝撃が全身を貫いた。

 意味を何度も脳裏に反芻させて言われたことをどうにか飲み込もうとするものの、まさかという思いが消えない。

 沙耶は、夫ではない男の子を身籠っているというのか。


「誰の……誰の子なのですか。誰の子を、沙耶は身籠っているのです」


 真っ青になった母の問いかけに、カヤは首を静かに横に振った。


「それは私にも分かりかねます。沙耶様は私にお相手の方のことを詳しく仰せになりませんでした」


 カヤは悲しそうに目を伏せるだけしかない。


「旦那様が訪れる時以外は私が常にお傍におりましたので、沙耶様が他のどなたかとご関係を持つのは難しいはずです。そもそもあの場所に誰かが入ること自体が不可能なのです」


 沙耶が囲われていた屋敷は主以外が許しなしに入ることはできない場所だ。カヤも傍についていたならば、沙耶は一体誰の子を宿したのか。誰にその身を許したのか。


「おそらく、お二人にはお話になられましょう。沙耶様が自らお話ししたいのはそのことです」


 侍女は沙耶の相手をうっすらと絞り込んでいるようにも聞き取れた。


「今は身重のために体調を崩されてはおりますが、落ち着けば問題なくお話しになられます」


 はっきりとしたことは本人に聞くしかない。

 私は驚きで何も言えずにいる母を支え、その背中を撫でつつ再びカヤに視線を投げた。


「沙耶の夫は、そのことを知っているのか」

「とても言えることでは御座いません。旦那様には気分が優れない、病を患っている、とだけ伝えております」


 そこまで言うと、カヤは更に後ろに下がって、私たちに深く頭を下げた。


「どうか、どうか、沙耶様をお守りくださいませ」


 あの屋敷に沙耶を帰す訳にはいかない。直感のようなものがまずそう訴えた。

 しかし、病で臥せっているという理由でここに戻った沙耶の事は、いずれ何かしら夫に報告しなければならない。ここで人知れず出産を終えたとして、それが気づかれないまま過ごすことができるだろうか。

 まず、沙耶が子を宿しているとなれば、否応なく父親が存在する。

 もしその父親の正体が分かり、自分の妾が他の男の子を身籠ったと知れば、沙耶の夫がどう出るか。自分の誇りが傷つけられたとその父親を殺すよう命じるだろうか。裏切った沙耶を罰するだろうか。

 生まれてくる子は。ムラはどうなるのか。

 恐ろしい想像が脳裏を駆け巡る。そもそも、沙耶は子の父親を我々に明かすだろうか。明かせば父親である男の身が危険に晒されると知りながら。


「カヤ」


 私が身を固めている中、母が静かにカヤを呼んだ。その声に私の意識は引き戻され、自分が思った以上に動揺していることを知った。


「あなたが沙耶についていてくれて良かった……礼を言います。カヤがいなければ、あの子は生きてここへ帰って来ることはなかったかもしれない」


 カヤは目に涙を浮かべると、深々と再び頭を下げた。母は傍にカヤの傍に寄り、啜り泣く彼女の背を撫でて労い、感謝した。そのような辛い立場にいた沙耶にこの侍女がついていなければ、沙耶は辛さのあまり命を絶っていたかもしれない。


「今度は私が沙耶から話を聞きましょう」


 母は、冷静にそう言った。


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