第四章

再会

* * * * *

 妹が森を出て三年の月日が経った。

 こちらの近況を伝える文は出していたが、返事が返ってきたことがなかった。そもそも自分の文が届いているのかも定かではない。もしかすれば卑しいものだと言って捨て置かれている方が可能性としては高かった。


 まほろばの配下に下ったムラは、沙耶のおかげもあり、昔ほどの豊かさはないものの収穫したものから指定された分を献上しても子を産み育てる余裕があった。若い男たちは遠くの地を開墾するためにムラを離れなければならないが、年に三度ムラに戻れることを思えば飢えて死ぬよりましだった。


 最後までまほろばに立てついていた叔父は沙耶が社を出ると同時にムラを出た。沙耶を守ってやれなかったと悔い、どこへとも知れぬ旅へ出たのだと母は言った。

 子を授からぬまま妻を先に亡くした叔父は、幼い頃から沙耶を娘のように可愛がっていたこともあり、沙耶が望まないまま巫女の任を解かれ、実父の仇とも言える相手の妾になったことの原因が不甲斐ない自分にあるのだと酷く悲しんでいた。

 母は一人、近況を知ることもできない娘の身を案じ、沙耶が普通の女としての幸せを過ごしていることをひたすらに祈っていた。


 森を出て以降の沙耶の状況を知らせるものが来ることはなく、こちらから尋ねても身分の差のために何も情報を与えてもらえず、私も母と同様に妹の幸せを願い続けているしかなかった。


 沙耶を失った森は、何かが変わっていた。

 何が違ったとはっきり明言できるものはなく、ムラの誰もがその異様な雰囲気を最初感じ取っていたが、時間が経つにつれその違和感にも慣れて行き、今となってはほぼ気に止めないものとなっている。

 ただ、森と通じる者がいなくなったため、雨風の予測ができなくなったことは痛手だった。

 社には巫女に仕える侍女たちがいたが、沙耶の他に森と語らえる者がこのムラにはいなかった。


 その三年の間に私はユキとの間に二人の子供を儲けた。一人目は娘、二人目は息子だった。二人とも叔母に当たる沙耶の顔を知らずに育っていたが、二人が無事に生まれ、ここまで育ったのは沙耶のおかげなのだと話して聞かせることをした。

 夜になると、広い屋敷に私の母、妻、子供たちで身を寄せ合って過ごす。まだ二つになったばかりの息子は母であるユキの腕に抱かれ、今にも眠りに落ちそうな顔をしている。


「おばあさま」


 三つになった娘は、自分の祖母の方へ遊んでほしいとせがんだ。年老いた母は二人の孫に支えられているようでもあった。孫娘の生糸のような髪を撫で、沙耶にしてやったように髪を丁寧に結った。幼い娘はそれを大層喜んだ。

 そして自分の娘の顔立ちはどこか沙耶に似ていた。だからこそ母は孫娘を目の前にすると泣きそうに笑い、大切に抱き締めるのかもしれない。

 もし次の巫女を選ぶとしたら、おそらく一族の中で唯一の女児として生まれた自分の娘になる。そのせいか余計に娘のあどけない表情に沙耶の面影がちらついた。だが、沙耶を社へ迎えた大婆様のように、巫女の伝統を教え伝える者は誰もいない。


「とうさま!見て、見て」


 祖母に髪を結ってもらった娘がはしゃいで私にその髪を見せてくる。我が子の愛らしさに両手を広げると跳ねるように胸の中に飛び込んできた。嬉しそうに声を上げて抱き着き、肩に額をこすりつけるようにする。

 物静かな妻には似つかない、こんな活発なところも沙耶に似ていた。

 この愛しい、掛け替えのない娘を巫女にする気は更々なかった。娘には幸せになってもらいたい。沙耶と同じ道を歩ませるものかと私に強く思わせた。


 そんな時だった。まほろばに仕える者が便りをもってムラを訪れたのだ。今まで税の取り立てしかなかったため、便りを持ってくるのはほぼ初めてだった。

 偉そうに背筋を伸ばす、使者を屋敷にあげて上座に座らせる。便り開いて読み上げることはなく、私はそれらを恭しく受け取った。

 便りは二通あった。どちらも沙耶のいる屋敷からだった。上等の紙が用いられた方はおそらく沙耶の夫となったあの男によるものであり、もう一つの文が沙耶によるものであった。

 沙耶からの文が届いたのは三年を通して初めてこのことだ。慌てて沙耶からのものを開いて内容を把握する。字はカヤのものだ。

『沙耶が身体を壊し、一度帰郷したいと申し出たところ、主がそれを許可してくれたので近々ムラに帰る』という旨だった。


「沙耶が、沙耶が帰ってくるのですか……!?」


 私から内容を聞いた母は見る見るうちに涙ぐんだ。


「あの子は、何か言っていますか?あの子は今どうしているのですか?幸せにいるのですか?」


 使者は母の心配に答える気配はない。ただただ私が便りに目を通しているのを黙って見下ろしていた。


「いえ、カヤの字で身体を壊したとしか書いていません」


 代わりに私が答えると母は不安そうでありながらも「沙耶が帰ってくる」という事実を噛み締めるようにして瞼を伏せた。余程実の娘の身を案じていたのだろう、私の衣を掴む母の手は震えていた。

 問題はもうひとつの文であった。主人とその妾で分けて書かれたものが手元に届くとは随分奇妙だ。開いてみると沙耶の夫となった男からの文は代筆によるものであることが見て取れた。

『沙耶を目の前にした時、天地が荒れ狂うと共に悍ましい巨大な犬がどこからともなく現れ、それに腕を噛みちぎられた』との旨が最初に書き記してあった。

 目を疑った。沙耶のいる屋敷で何か大きなことが引き起こったようだった。


「これは……どういうことですか」


 使者に尋ねた。とてもではないが信じられないような出来事が綴られている。


「書いてある通りである。我が主はこの世のものとは思えぬ巨大な犬に片腕を噛みちぎられ、失われた」


 使者の言い方は刺々しかった。


「そなたの妹御はもともとあの森の巫女であったと言う。元からそういう力があるのかと主は訊ねておられたが、どうか」

「いいえ、いいえ」


 首を振ったのは母だった。


「娘は確かに巫女であり、森と語らうことが出来ましたが、雨風を思いのまま起こすような力は御座いません」


 使者は納得いかない顔をしたまま、すっくと立ちあがった。


「その由をまほろばの大王が耳にされ、今まで以上に妹御に興味をお示しである。主はその文に書いてあるように取り計らえとのこと。以上だ」


 使者はそれだけを言うと去って行った。

 文には最後、想像してもいなかった命令が一文綴られていた。母は大きく戸惑い、心配そうに私を見上げている。

 沙耶はこの事実を知らないのではないか。だから文は分けられたのではないか。浮かんでくるものたちを薙ぎ払うように私は頭を左右に振り、文を畳んで母を見た。


「とにかく、沙耶の帰りを待ちましょう。話はそれからです」


 母は強く頷いた。





 六日後、沙耶が帰ってくる日がやってきた。

 ムラの者たちに心配はかけまいと、我ら一族とムラの重役数名にしか沙耶が帰ってくることを知らせていない。朝から沙耶がやってくるのを屋敷の外で母と共に待ち続け、ついにその時はやって来た。沙耶を乗せているらしい輿が数人の男の従者と共にムラへやってきたのだ。


「沙耶!」


 牛車が見えるや否や、母は走り出した。まず輿のすぐ傍を寄り添うように歩いていたカヤがこちらに気づき、中にいる人物に知らせる素振りをした。


「沙耶、沙耶!」


 下ろされた輿に母が腰を屈めて呼びかけると、カヤに助けられながら沙耶が中から姿を現した。


「……母様!」


 輿から出て母の姿を見るなり、沙耶は泣き出しそうに顔を歪め、母に手を伸ばした。母はすぐさま娘をしかとその身に抱き締め、カヤは母と娘の再会に涙した。


「お会いしたかった、お会いしたかった、母様」


 まるで小さな子供のように妹は母の胸に縋って泣いた。


「沙耶」


 母の傍に膝をつき、妹の名を呼ぶ。


「兄様」


 母の胸から顔を上げた妹が私を見て微笑んだ。私は思わず、妹の頭を撫でた。


「よく、帰ってきた」

「お元気そうで良かった……」


 涙を流しながら放たれる妹の声はか細い。


「ユキ殿はお元気ですか……?生まれたややこは?」

「ああ、ああ、みんな元気だ。元気に育っている」

「……良かった」


 私の返答に安堵した沙耶は瞼を伏せ、再び母の胸に顔を寄せ一層の涙を流した。


 三年ぶりに再会した妹の姿に、私は我が目を疑っていた。あれほど明るかった面影がない。私の馬を借りて、森を駆けていた姿は思い浮かばないくらいに影が差す面持ちで顔色が悪かった。子供のように朗らかに笑う娘だったのに、大人びたというか、影を背負っているような重い雰囲気を纏っている。

 何か、屋敷であったのだ。私が頼んで入ったあの男のもとで。そう悟らざるを得なかった。


「沙耶、身体に障ります。中へ行きましょう」


 母に促された沙耶は輿から身を出し、地を己の足で踏みしめると、ムラの後ろにある大きな森を仰いで目を細めた。


「沙耶?どうしたのです」

「母様」


 母を見つめ、妹は手を震わせた。


「私、お話ししなければいけないことが……」


 そこまで言うと、沙耶がさっと顔色を変え、崩れるようにその場に屈みこんだ。


「沙耶!!」


 母と私で慌てて妹の身体を抱きかかえ、カヤが急いで沙耶の隣に屈みこむ。

 相当気分が悪いらしく、繰り返し乱れた呼吸を落としている。とても話せる状態ではない。体調を崩しているという知らせは紛れもないもののようだった。


「与一様、早く沙耶様を休ませて差し上げてください。大事な御身なのです」


 カヤに頷いて、屋敷の者を呼んだ。


「……カヤ」


 早く屋敷の中へ休ませようとするカヤの衣を沙耶が掴んだ。何かを訴えようとしているようだった。


「大丈夫です。屋敷でのこと、私からお話いたします。一番大切なことはあとで沙耶様からお話しなさいませ」


 沙耶は屋敷の者たちに支えられ、母とカヤと共に屋敷へ向かった。その去って行く沙耶の姿を、使者たちが怪訝そうに眺め、それから私を見た。


「先日の主からの由、違えることの無きように」


 沙耶からのものと共に渡されたあの文のことだ。沙耶に確認を取らなければならないが、差し当たり返事をして頷いた。


「妹御の休息はいくらでも構わないとの由。妹御の準備が整い次第、ご一報を。お迎えに参る」


 それだけを言い残して彼らは去って行った。沙耶を見るあの怪訝そうな目から、沙耶があちらの屋敷で良い扱いを受けてこなかったことだけは見て取れた。

 そして文にもあった、あの出来事。妹の境遇を思うと、酷く胸が痛んだ。

 あの屈託のない娘だった妹の身に何があったのか。巫女としての柵を解き、普通の娘として送り出したのは間違いだったのか。



「与一様」


 沙耶を休ませて来たカヤが私のもとへ駆けてきた。使者が引き返したのを確認すると、深々と頭を下げる。


「沙耶様のこと、私からお話ししたいことが御座います」


 私は彼女に頷いた。


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