* * * * *

 ただただ気持ち悪さが続いている。胸を押し上げるような吐き気があり、時折喉を越えてくるかと思えばそうでもない。吐いてしまえば楽だろうに、吐こうにも物が出てこなかった。

 寝具にいても身体を起こしてもそれは変わらないため、結局は部屋の縁の柱によりかかり、塀の上から臨める森を眺めて一日の大半が終わっていった。


 遠くからの鳥の囀りに耳を傾け、ゆっくり瞼を閉じる。ここを離れる前よりも森の声が聞こえるようになった。香りが分かるようになった。

 花々が揺れ、風が森の中を駆け巡っている。獣が敏感になって周囲を警戒している。忙しない様子。荒れている。雨風がある訳でもないのに。

 おそらく森の主とも言えるあの人が怪我を負い、力を失っているからだ。


 息を吸うと、花々の香りの中に血のような匂いが喉の奥にか細く流れてくる。あの人の血だと思うといてもたってもいられなくなるのに、私は夫の屋敷に居た時と同じようにここから出られず、塀に囲まれたところから森を仰ぐことしかできないでいる。

 どれだけ呼びかけても返事は帰ってこない。彼が来ない。ならば私が行かなければと思うのに。

 再びどうにもならない吐き気が込み上げて、口元を抑えて身体を屈める。


「沙耶様……!」


 それに気づいたカヤが私の背を繰り返し擦って桶を差し出した。何度か咳き込んでから、乱れた呼吸を直そうと大きく息を吸う。それを繰り返している内にどうにか落ち着いて隣のカヤに礼を言った。


 子を授かったことに喜びを覚えながらも、産むことの不安はあった。

 果たして、この子を私はここで産めるだろうか。人の子とどう違って生まれてくるかも分からない。この不安は母にも、誰にも言えるものではなかった。

 せめて、今森にいるであろうあの人に会えたなら。会えて、宿った子のことを話すことができたなら。


「沙耶様、もう少しの辛抱です。きっと森へ行けます」


 カヤが励まそうと隣で笑ってくれている。


「何たって、与一さまは昔から妹の沙耶さまが可愛くて仕方ないのです。何をするにも困ってしまうくらい甘やかしてばかりで……だから沙耶さまはのびのびとお育ちになられたのですもの」


 カヤの言い方に思わず笑ってしまった。私は彼女にどれだけ救われてきただろう。

 彼女の言う通り、兄は心配性でありながらも私に甘いところがあった。記憶の中の兄はいつでも「仕方がない」と言って私の我儘を聞いてくれていた。


「そうね……きっと、兄様は許して下さる」


 そう言いながらも今回はどうだろうかと気持ちは沈んだ。


 この子の父親のことを兄と母に打ち明けてから彼是五日が経っている。真実を知ったあの兄の顔は決して喜ばしいものではなかった。むしろ絶望や悲しみの色の方が強かったように見えた。

 兄はどうしているだろう。あれからというものカヤと母以外誰とも会えないまま日数だけが嵩んでいく。毎日のように私の様子を見にやってくる母に尋ねても、母は悲しそうな顔をして私を抱き締めるだけだった。


 肌寒さを感じて衣を引き寄せ、自分のいる部屋を見回した。もとは父の部屋だったここは、悲しいほどに殺風景だ。

 昔はここへ入りたくて何度も何度も両親の隙を狙っては兄と一緒に入り込もうとしていた。子供たちに閉ざされたこの空間は未知に溢れていて、私たち兄妹の好奇心をこれでもかと掻き立てたものだ。

 父はそこまで物を置くような人ではなかったが、ここまで何もない空間ではなかった。父の遺体は見ていなくとも、この淋しい部屋の様子から今までうっすらとしか認識できていなかった父の死が目前に現れていた。


「……どうなるのかしら」


 ぼんやりと呟いた。

 兄も母も私のことで悩んでいるだろう。病と偽って帰省している私のことを、兄は何かしら夫に伝えなければならない。夫は、遅かれ早かれ私の不貞を知ることになる。私が子を身籠ったことも知るかもしれない。

 そうなれば、夫は私を殺そうとするだろうか。あれだけ冷たい人だったのだから。

 この子も、殺されてしまうだろうか。自分の子ではないから。


 そこまで考えてかぶりを振った。この子が生まれるまで、このことは隠し通さなければならない。生まれたら、どこか夫の手の届かないところへ。私が殺されても、この子が育っていける環境を、どうにか。


「沙耶様」


 カヤの声で我に返った。


「与一様が」


 兄が。今まで顔を見せなかった兄が私を訪ねてきた。カヤに頷くと、カヤは後ろに下がって兄を呼び入れ、部屋を後にした。


「沙耶」


 兄は随分思いつめた様子で私の前に座った。


「気分はどうだ」


 胸につかえるような気持ち悪さが続いている。食事は少量であるが食べられてはいた。寝込んでいなければならないほどではない。


「良いとは言えません……でも大丈夫です。お話しできます」

「そうか」


 しばらくの沈黙があった。相手は深く思い悩んでいる様子で自分の手元を見ていたが、やがて意を決したように私を見据えた。


「沙耶」


 呼ばれて返事をする。周りの空気が固まっているかのように重かった。


「お前を、森にやるつもりはない」


 そう言われることを何となく分かっていたのに、崖の下に落とされたような気持ちになる。


「兄様、お願いです。聞き届けてはくれませんか」


 縋るように兄に願っても、兄は首を横に振るばかりだ。そのまま相手はやや沈黙を置いてから口を開いた。


「沙耶、ここでその子を産み、私に預けよ」


 唖然とした。


「……兄様」


 咄嗟に兄から離れ、自分の腹に手を添える。

 この子を産み、兄に預ける──どういうことなのか、飲み込めない。想像していない答えだった。


「そうして、大王のもとへ、まほろばへ行くのだ」


 聞き間違いではないのかと疑った。兄は、何を言っているのか。兄の表情は酷く悲しげだ。


「それは、どういう……」

「お前がカミを呼んだ話がまほろばにも広まり、それに興味を抱いた大王がお前を望んでいる」


 背筋に悪寒が走る。

 まほろばの大王など、ムラや森が苦しめられた元凶だ。まほろばは夫や夫の奥方がいた場所だ。カミを殺し、唯一の神を作り出した場所。その神と呼ばれるのが大王の存在だ。


「……夫の、めいですか」


 震える声で尋ねたが、兄の苦しげに歪んだ顔は何も答えなかった。その様子に夫の命令なのだと知った。

 以前弟君に言っていたように、夫は用済みになった私を己の名声のために大王に売り渡す気なのだ。

 今度は大王のものになれと。その見世物になれと。


「お前から文をもらった時、お前の夫からも文が来ていた。そこにはお前の体調が戻り次第、まほろばの大王のもとへ連れて行くよう指示が書かれていた。この話が来た時、賛同するつもりはなかったが、今の状態では話は別だ」


 怒りやら悲しさやらが押し寄せてくる。


「お前が腹の子を産み、落ち着いたら、まほろばから迎えが来るよう都合をつける。お前が夫以外と関係を持ったことは誰にも知られぬようにするつもりだ。そうすればお前に罰は下らず、あの屋敷に帰ることもなく、他の場所でまた新しくやり直せる」


 人知れず子を産み、その子から離され、また違う人のもとへ行けと言うのか。

 一点落ちた悲しみが、胸の内に滲むように果て無く広がっていくのを感じた。


「兄様……嫌です、私は嫌です」


 ふるふると首を振った。


「私は、どこへも行きたくない。あの森へ、あの人のいる森へ行きたいのです」


 兄が私の方へ踏み出し、再び私の肩を掴んで揺さ振った。兄の手のぬくもりを衣ごしに感じる。


「カミのもとへ行くよりも、人のもとへ行った方がお前は幸せになれる。お前は人なのだから」


 兄が言うことを理解しきれぬまま、これは夢なのではないかと疑うくらいの衝撃が貫いていく。


「沙耶、大王は多くを従えているお方だ。人格者とも聞いている。我々が奉っていたカミとは違い、尽くせば何かを与えてくれる存在だ。まほろばの夫などよりずっとお前を幸せにしてくれるはずだ」

「兄様、私はあの方の妻なのです、私は森へ行きます。お願いです、分かってください」


 兄の顔は泣きそうに益々歪んでいく。


「カミなど、もう古臭いものと一緒にいては駄目だ。カミなど化け物だ。我々が崇め続けていたのが間違っていたのだ」


 驚きで絶句した。

 化け物──森のカミをそんな呼び方をするような兄ではなかった。これではまるで、まほろばの人々と同じ考えではないか。


「兄様、違うわ、カミは化け物などでは……」

「沙耶、お前は人間だ、カミではない。このままその子を産んで、人間離れした存在と共にいては、お前は幸せにはなれない。お前は私の妹だ、人の子なのだ」

「いや……」

「沙耶、目を覚ませ」

「嫌です!兄様こそ目を覚ましてください!」


 私は兄の手を振り払った。距離を置き、腹に手を添えたまま兄を正面から見据えた。


「私の子を、兄様はどうするおつもりです」


 産んで預けろと言う。預けられたその子を兄はどうするつもりなのか。

 兄は押し黙り、目を背けた。悲痛な声が自分の口から洩れる。

 殺す気なのだ、この子を。

 兄が化け物と呼んだ存在の子だから。私と森を繋ぐ存在となるから。


「……兄様」


 兄はもう、カミを信じてはいない。化け物として見ている。信仰を失ったのだ。自分の胸の内が悲しみに沈んでいくのを感じる。


「私はもう、人ではないのです」

「違う、お前は人だ」

「私はあの人のもとへ行きます。この子は一人でも産みます。私が育てます。まほろばなどに私は行かない」

「沙耶!」


 兄は私の名を叫ぶと同時に強く抱き締めた。


「沙耶、沙耶、お前は人だ。人なのだ」


 兄の声は泣いているようでもあった。


「私はあの方のもの以外にはなりたくはない。私は、もう見世物として扱われたくはない、私は私です、他の誰のものでもない……!!」


 突き放そうにも兄は離してくれなかった。腕を解こうとしても力は緩まない。相手の腕は震えていた。


「お前はカミではない!あのような化け物のもとに行って、人が生きていけるはずがない!」

「私は私の意志で、この道を選んだのです。あの方を受け入れたのです。私のすべてがあの森へ行くことを望んでいるのです」


 兄の声につられたかのように、私の声までが途切れ途切れになる。


「お前を、失いたくはないのだ。私の、ただ一人の、大事な妹だ」


 あまりに悲愴な言葉に相手を見上げると、兄は泣いていた。

 父が死んでも、友が殺されても、ムラがまほろばの支配下になっても涙一つ見せなかった兄が、私の顔に涙を降らせている。涙を浴びたら、視界が瞬く間に滲んでいった。


「……兄様、私に自由を」


 ぼやけた兄の像に懇願する。


「自由を、くださいませんか」


 私が今最も欲しているのは、しがらみから解かれることだ。

 ただ一つの自由。

 それでも兄は首を縦に振ることはない。私を抱き込み、逃がすまいと、その腕に力を籠める。


「許せ、沙耶」


 互いに身体を震わせ泣いた。


「……あんな化け物に、お前は渡せない」


庭からの夕暮れの日差しが恐ろしいほど赤く、色付いていた。



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