カミの子

 どうやら不思議な夢を見たあの夜は皆が眠り込んでいたらしいことを知った。

 不意に強い眠気に襲われ、倒れるように寝具もない場所で眠り出したと。屋敷の通りにいた侍女も、見張りの門番も皆悉くその場で崩れた、と。

 それが本当であるならば、あの夜に彼の存在に気づいて誰かを呼ぼうとした時、誰も返事をしてくれなかったこととも辻褄が合う。様々な場所で様々な人が倒れていたとなると、屋敷内ではとても奇妙なことが起きたようだ。


 数日間、同じ離れに住む奥方たちはそれを何かの祟りだと噂し、恐れ、日中のほとんどを自らの部屋にこもる様になった。その噂は朝も昼も続き、私など奥方の目に入っていないようで一切の嫌味を言われることなく夕刻を迎えた。


「おかしなことがあるものですねえ」


 カヤは怯えるようにしている奥方たちを傍目に、不思議そうにぼやいた。


「……そうね」


 その夜のことが夢であっても、それをカヤに言うことはどうしても出来なかった。自分の胸の内に秘めたままにしておくべきものだと感じていた。


 それから更に十日ほどが経ち、祟りの噂が薄れてくると、どこか希望のようなものを捨てきれずにいながら、やはりあの出来事は夢だったのだという諦めが私の中でも強くなっていった。

 また日常を取り戻しつつある中で、寝床につき、あの時のことを思い出す。

 また会えたらいい。たとえそれが夢の中でも。そう、願いながら。




「──沙耶」


 眠りについていた時、名を呼ばれた気がして目をうっすらと開けると、誰かが私を覗き込んでいた。それが男性であると察するや否や、夫がまた急に訪れたのだと悟って飛び起きた。寝具を引き寄せて、相手から距離を置こうと身を引く。


「も、申し訳御座いません」


 暗くて相手がよく見えないが、こんな夜更けに寝所を訪れたのなら夫に違いない。乱れた髪を片手で整え、姿勢を正して頭を下げた。


「……急のお越しでなんの準備もしておらず、あの」


 いつもなら寝たままの私を起こさずに抱こうと、無理矢理衣を剥いでくるのが常だ。起きて事態を把握した時にはすでに衣は無残にはだけ、組み敷かれて身動きが取れず、嫌だと拒んでも聞く耳を持つことはなく、夫にされるがままになる他ない。

 なのに、今日はどうして私の名を呼んで起こすようなことをしたのだろう。そもそも夫から名を呼ばれること自体が久しぶりのことのように感じた。

 すぐさま、私の衣に手が伸びてくるかと思うものの、そうではないようで、相手は私の前に静かに座っているだけだ。


──この人は、夫ではない。


 そう悟って戸惑っているはずなのに、不思議と気持ちは冷静だった。

 耳を澄ませる。風の音がした。他に誰の気配もしない。あの時と同じ。すべてが寝静まっているかのような静けさの中にいた。

 もしやと思い、向かいにいる相手を凝視する。夜目が利くようになり、闇の中に浮かぶ姿が徐々に明らかになる。相手の正体を知り、信じられない気持ちと安堵が胸の中で大きく膨らむのを感じた。

 夢ではなかった。夢ではなかったのだ。どうしようもなく気持ちが溢れて、私の手は自ずとその人に向かって伸びた。

 夜の闇を彷徨うように伸びた私の手を、彼は優しく取った。私の手をそっと握るその手はやはり白い。記憶にある白さだ。


「あなた、なのですね……」


 相手の名は知らなかった。ただ、相手は「そうだ」と静かに頷いた。触れた優しいぬくもりと肯定された嬉しさにどうしようもなくなり、私は堪らずその人の胸に縋った。縋った胸は広く、優しい暖かさがあった。


「夢だと、思っていたのです」


 相手は私の背に手を回す。包まれたのだと知ると、更に胸が熱くなった。触れている喜びがあった。


「夢ではない。沙耶が願ったから来たのだ」


 嬉しかった。夢ではなかった。たとえこれが夢の中の出来事だったとしても構わないと思えるくらいに、嬉しさで身が震えた。

 彼は私の髪を慈しむように撫で、大事なものを扱うように触れて腕に抱いてくれた。

 彼の衣からはやはり懐かしい森の香りがした。この香りを感じるだけでも張りつめていた心は自然と凪いで行く。誘われるように顔をあげると、彼も私を覗き込んでいた。


「……あの時のお礼をどうしても言いたかったのです。何も言えずにあの時は終わってしまいましたから」


 その人の瞳は漆黒でありながら、奥に涼やかな青色が光っている。


「とても嬉しかったのです。遠目でもいい、故郷を眺められて良かった。風を、花の香りを感じることができた。外で大きく息ができて、幸せだった……感謝してもしきれません」


 どこの人なのかはわからない。それでも自分が心を許せる存在であることは理由もなく確信していた。


「ならば、行こう」


 また外に行きたいと願ってやまない私の気持ちを察したのか、彼はまた私を抱き上げるとすっく立ち上がる。この部屋から、この屋敷の壁の外へこの人と行けるのだと思うと心が躍った。遠慮など言葉も出てこないくらいにそれを欲していた。

 抱かれながら出た外の空気は春の暖かさが取り巻いている。前回と同じように彼がとんと床を蹴ると、私たちは空高く飛びあがる。私の髪が舞い上がる。

 静かな夜に、この大きな屋敷は混沌と沈んでいた。月ばかりが大きく、周りの星々をその明るさで覆い隠していた。風が涼し気で、私の髪を撫でていく。飛び立った空は、隔たりなど一切なく、どこまでも広がる自由な世界に見えた。


 空高く行ったところで、彼は宙で私をそっと降ろそうとした。このままでは落ちてしまうと慌てて縋った私を彼は笑い、大丈夫だと諭して私の身体に回していた手を離した。片手だけ彼に支えられながら恐る恐る足を降ろすと、不思議なことに私は空に立った。まるで足の下にふわふわした何かがあって、自分の足を支えてくれているようだった。

 裸足の裏を緩やかな風が撫でていく。彼の手を繋いでいることが空を行く条件らしく、片手だけはしっかりと彼の手に握られたまま進みだす。

 重たい上の衣を脱ぎ捨て、衣一枚になって私は空を歩いた。たどたどしい歩きでも彼が支えてくれた。

 手が届きそうなほどに月が近くに見える。夜空を飛ぶ鳥が傍を行く。足元には花々が咲いている。森の近くに行けば夜を行く動物たちがいて、川には美しい魚影が月に照らされて舞っている。

 時には歩き、時には走り、月の光の中を踊るように進んでいく。

 こんなにも自由にいられたのはいつ以来だろう。どうしても笑顔が零れ、私が笑うと彼も優しく笑ってくれた。それが嬉しかった。


 しばらくして近くの静かな森に降り立ち、太い枝に腰を降ろした。そこから一つ、暗い森が見えた。青々とした森がある中、その中で一番大きい森が悲しい色に沈んでいる。夜でさえ生き生きとして美しい自然に、そこだけ穴が開いて無に帰しているようにも見えた。

 何であろうと目を凝らしていると、背後からうっすらと光が射し込んできた。はっとして振り返った先の、東の空が白み始めている。


「夜が、明ける」


 彼が漠然と呟いた。それと同時に絶望のような気持ちが私を取り巻く。夜明けが彼との時間の終わりであることは何となくわかっていた。


「沙耶」


 縋る思いで隣にいる彼を見上げると、彼は否応なく私に手を伸ばして抱き上げ、枝から再び空へ飛び立った。

 帰りたくないと思っていても、帰らなければ問題が起きる。私にとっても明け方の別れは仕方のないことだった。嫌だとは言えない。私は何を言うことなく、彼に従った。

 離れがたい想いを抱きながら、彼に身を委ねていると眠気を感じた。空が明るくなるにつれて、見覚えのある屋敷がうっすらと開く視界に入る。回廊に倒れるようにして眠り込んでいる人の姿がいくつか見えた。また屋敷のすべては深い眠りに落ちているのだ。

 そして降り立つ、屋敷の端の部屋──私に宛がわれた部屋。彼は庭から屋敷にあがり、簾を越えてゆっくりと奥へ歩んでいく。

 まだ夜の闇を保っている私の部屋に入り、冷たくなった寝具の上に私を静かに寝かせた。

 強い眠気で視界がぼやける。彼の顔も、目も、霞んで良く見えない。身体も思うように動かない。空はあんなに軽く駆けることができたのに。身体の自由が利かない理由を知っているように彼は私を扱った。

 最後かもしれないと相手の姿を目に焼き付けたいのに、私の目ははっきりと彼を映してはくれない。それが無性に悲しく、私は彼に手を伸ばした。彼は私の手を取り、もう片手で慈しむように私の頬を撫でてこちらを覗き込む。

 眠気は纏わりつくように、薄れることなく一刻一刻と自分を飲み込んでいくかのようだった。ただ、その眠気の中で、今私の頬を撫でる彼が離れて行ってしまうことだけは悟っていた。


「……夜に」


 声は掠れた。


「夜に、ならないと会えませんか」


 彼は私に顔を寄せ、静かに告げる。


「夜は力を膨らませる。夜でなければ森を離れ、ここまで来ることはできぬ」

「また……会えますか」


 会いたい。この人に。


「来て、くれますか」


 私はここから出られないから。あなたに会いに行けないから。せめて、また。


「沙耶が望むのであれば」


 返事を聞き届けると、私は引き込まれるように眠りに落ちていき、彼は陽の光と共に姿を消した。



 次に目覚めた時には、カヤが私を覗き込んでいた。時は昼頃になろうとしている頃だった。呼んでもなかなか起きない私をひどく心配したらしく、彼女は驚くほど慌てていた。

 そしてまた、あの「祟り」が起きたと屋敷は噂で溢れていた。皆がひどい眠気に襲われ、所かまわず眠りについていたと。それが彼が来たことの証なのだと、私は悟った。夢ではなかったのだと私は胸に噛み締める。

 あの人はきっとまた会いに来てくれる。きっと。

 その事実は私にとって、闇に射し込む一筋の光に似た、希望のようなものだった。

 それと同時に、彼が何者であるかの可能性が頭に湧いていた。もしそれが真実であったならば──と考えながらも私は、それ以上深く考えることが出来なかった。


 それから毎夜、その人は約束通り私の前に現れた。雨が降る夜も、風の強い夜も、彼は奥にある私の部屋まで物音ひとつさせずやってきた。眠る私をそっと起こして外へ連れ出してくれる。

 夜空を駆け、森を歩いた。雨も風も、不思議と彼を避ける。だから彼と会う夜は天気など関係がなかった。

 彼は姿形を思い通りに様々な動物に変えることが出来た。空を行く途中彼の身が青白く光り出し、姿形が見えなくなるほどに光ったと思うと、気づいた時には私は何かに乗って空を飛んでいる。それが大きな白い犬の背であると知ると、心底驚いた。

 雪のように真っ白な毛並みを靡かせ、犬の姿のままどんどん月に向かって駆けあがり、ついには突風で息が出来なくなって目をぐっと閉じる。風がなくなったと思い、毛並から顔を上げると月が驚くほど目の前に迫っている。

 彼はよく鬣の長い馬や鳥にもなったが、犬が一番多かった。犬とは言っても私を背中に乗せて空を走れるような大きな犬だ。神々しささえ感じるその姿は美しかった。その姿の方が移動が速く、私をずっと遠くへ連れて行けるのだと彼は言った。

 そして自然の声を、彼は聞くことが出来た。

 巫女であった私よりも正確に聞き分けることができる。森で何が起きているかが事細かにわかっているようだった。まるで森そのものであるかのように。


 そしてそんな夜が続くある日、私はまた、あの沈んだ森を見た。死んでしまったかのように闇に沈む森。生が感じられないあの空間。そういう森が、こうして毎晩眺めている内に増えているように見えた。


「あの森は……?」


 不思議に思って尋ねると、彼は遠い目を森に向けた。


「カミの死んだ森だ。殺された森とも呼ばれる」


 カミが殺される──私には信じられない言葉だ。森ひとつひとつにその森を治めるカミが存在しているものだ。カミは森と一体である。だからこそ、カミが死んだために森も死んでいる。そういうことだろうか。

 そもそも、カミが死ぬなどあり得るのだろうか。古から存在しているはずのカミが死ぬなど、聞いたことがない。

 私が悩んでいると彼はその死んだ森に降り立った。

 木々はある。川もある。少ないものの鳥もいる。ただ、悲しいほどに静かなのだ。自然の声が聞こえない。枯葉に地面が埋もれている。何かが失われ、森自体が沈黙してしまっている。

 彼は一番高く太い木の枝に私を降ろし、彼もまた青白い光を発しながら人の姿に戻って私の隣に立った。腰を降ろした木は、冷たかった。


「カミという存在は人の信仰に左右される」


 彼の言葉に昔大婆様から教わったことを思い出した。


「人に忘れられれば力がなく、静かなカミは死ぬ他ない。少ないながらも力の強いカミもいるが、そういう存在ばかりではない」


 人の気持ちが集まり、カミは生きているとも。だからこそ我々が忘れてはいけない。そうすることで森は生きるのだから、と。その森のカミと人を繋げる役目を担っているのが巫女という存在なのだ。


「人は、古来のカミを忘れ始めている」


 相手は遠くを眺めていた。彼が眺めているのはまほろばがある西の方角だ。


「西に大王が立ったことと、関係しているのですね」


 私やムラや森の運命を変えてしまった、自らが神であると唱えた大いなる人。私のムラと森と同じように、多くのムラに森の開墾を迫っているという。森を切り開くことをムラが了承すれば、それは森のカミが信仰を失ったことと同義だ。


「最早、人にとってのカミは一人となった」


 隣の人は静かに言った。


「太古よりのカミではない。人は我らを捨て、一人を神とし、崇めている」

「変えられないのでしょうか。昔に戻ることは、もう出来ないのでしょうか」


 彼は何も言わなかった。沈黙を貫いて死んだ森を見下ろしている。まるでこの森の有様を嘆いているようだった。

 この人は、「人」ではない。

 静かな瞳を見るたびに、私はどこかでこのことを分かっていたはずだ。そうだと分かっても、今まで聞くことは出来なかった。聞けば会えなくなると思ったからだった。


「……何故、あの夜、私のところへ来てくださったのですか?」


 今まで尋ねることがなかったことを、私は初めて彼に聞いた。


「どうやって私を見つけられたのですか」


 彼は振り返り腰を屈めて、私を見つめた。優しい瞳の奥には、人とは思えない青の光が灯っている。


「沙耶が私を強く求めたから、見つけられたのだ」


 確かに、私は森に帰りたいと願った。


「沙耶が私の森を出たあの日から、探していた。ずっと」


 彼の言葉に、嬉しさと悲しさが募った。悲しさの方が、勝っていた。

 私の身体は震え出す。可能性は明確な真実となって私の中に現れていた。


「……あなたは、人ではないのですね」


 彼は静かに頷いた。


「私の一族がお仕えする、森の主、なのですね」


 彼はまた静かに頷いた。

 ああ、と悲しさのあまり感嘆が漏れた。やはりそうだった。この人はそういう人だったのだ。


「私はカミと人の間の子」


 カミの子。


「カミと人とを繋ぐために生を受けた存在」


 大婆様が昔よく言っていた、最初の巫女がカミとの間に産んだ子。伝説にも似たこの話は事実。兄も信じようとせず、ムラの人々も忘れていた存在。それが彼の正体。

 だから森を出ないとされるカミとは異なり、彼は自分の森を出ることが可能なのだ。動物の声も、風の声も、木々の声も、聴くことが出来るのはそのため。その中で私の想いを聞き届け、私を探し、そして見つけた。見つけ出してくれた。


「沙耶」

「なりません」


 私に触れようとした彼の手から私は逃れようと後ずさった。


「ならば……あなたが森のカミと同じ存在であるのであれば、私はあなたには相応しくありません。その目に通ることも許されない身の上です」


 自分の身体を抱いて擦る。私は巫女であったのにも関わらず他の男に身を捧げたのだ。このような身で、彼の前にいることが自分で許せなかった。


「私は一族の役目を、一族のために放棄しました。カミに捧げるためのこの身を穢したのです」


 涙が零れた。忘れかけていたはずの、巫女としての資格を失った瞬間の、引き裂かれんばかりの痛みが蘇る。


「もう、清らかな身ではないのです」


 彼は静かに私の言葉を聞いていた。


「私はもう、森には帰れない。私は巫女には戻れない。あなたにお会いする資格は私にはないのです」


 こんな穢れた自分を見てほしくない。死んでしまいたいほどに辛かった。


「私はもうあなたと会うことは出来ません」


 カミと同等である存在に、穢れた身のまま触れることは出来ない。会うことは出来ない。それがかつて巫女であった者としての最後の役目だった。


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