とても懐かしい光景が目の前に浮かんでいた。

 いつだったか、私はこの白い手を同じように目の前に差し出されたことがある。

 遠い、遠い昔に。まだ巫女としての自覚も沸いていない、幼い頃。自分がこんな身の上になるとは想像もしていなかった、あの頃。

 それと同時に、カミの存在を解き、私に巫女の役目を教え諭してくれた大婆様の声が脳裏に蘇ってきた。森を感じ、森に吹き流れる風の音、水のせせらぎ、動物の声、忘れかけていた、遠のいてしまっていたものが突如私の中に戻ってきたのを感じた。

 そして今、暗闇の中に差し出された白い手は煌々と輝いているように見えた。まるで月のようだ。

 しばらく相手の手を見つめ、その白さに引き寄せられるようにして自分の手を伸ばしかけたが、途中ではっと我に返って手を止めた。

 どこの誰とも知らない人だ。それも相手は夫ではない男性で、禁制の場所に入り込んで私に接触している。これがここではどれだけの罰に当たるか。もし、ここでこの知らない男性の手を私がとったことが知れれば、ムラや森はどうなるか。

 でも、ここでこの手を跳ね除けてしまったら。

 ここで手を差し出してくれたこの人を拒んでしまったら、もう二度と、このままここを出ることはなくなってしまうかもしれない。

 躊躇っている内に、白い手は引き下がった私の手を追いかけ、そのまま優しく握って引いた。懐かしさを覚える白い手は、今までの問答を吹き飛ばすくらい、泣きたいほどに暖かかった。


──覚えている。


 胸のどこかが訴えるのを聞いた。

 私は、憶えている。この優しい白い手を。

 再び記憶の断片がぼろぼろと頭の中に落ちてくる。森を離れてから忘れかけていた記憶だ。

 まだ、遠くの記憶に残っていた白い手。私を導いてくれたあの手が、今私の手を握っている。触れている。決して離すまいとその手を私は強く握り返した。涙を堪えるのに必死だった。

 離したくない。離れたくないと、心が強く願った。


 引かれると身体は浮くように動き、彼はそのまま私を軽々と抱き上げた。抗うことはしなかった。とても懐かしい気持ちでいっぱいだった。不安などはない。安堵の方がずっと大きい。相手の衣から漂う森に似た香りがそう思わせた。

 私はこの人に会いたかったのだ。何の根拠もないのに、私はこの人に会えたことに身に染みるような嬉しさを感じていた。


 彼は私を腕に抱きかかえたまま、ゆっくりと御簾をくぐり外へ出た。夢でも見ているようなふわふわとした感覚が取り囲む。とても心地良かった。そうしているうちにこれは夢なのだと思うようになった。


「……どこへ?」


 掠れた声で尋ねると、私を抱えた彼は静かに月を仰いだ。


「空へ」


 一瞬瞳が透き通るような青に光ったように見えた次の瞬間、彼は屋敷の縁をたん、と軽く蹴った。風が吹き荒れたと思い、反射的にぐっと目を閉じると、次に瞼を開けた時、私たちは空を飛んでいた。信じられない思いだった。

 周りは空に囲まれ、星々が瞬いている。真下には今まで私がいた屋敷があり、子供の遊具のように小さく見えた。


「ああ……!!」


 驚きで思わず相手の首に腕を回すと、彼は嬉しそうに喉の奥で笑った。優しく私を抱き込むと、しばらくゆったりと空を進んだ。眠れと言わんばかりに、相手に預けた私の身体は雲のように揺れていく。

 これは夢だ。夢に違いない。

 最初は生まれてこの方見たことのない空の光景に身を小さくしていたが、流れていく風が心地よく、途中からうつらうつらとして、何かにいざなわれる様にそのまま目を閉じた。


「──沙耶」


 呼ばれて閉じていた瞼を開けると、私を抱く人は下を見るよう促した。恐る恐る空が周りを取り囲む中、下を覗くと、大きな森があった。

 森に守られるように小さなムラが寄り添ってある。誰もが寝静まり、灯りが一切なくとも一目で分かった。何度も帰りたいと願い、それでも帰ることは許されない、掛け替えのない私の故郷なのだと。


「ああ……」


 懐かしさやら嬉しさやらが胸からとめどなく溢れ、私は思わず彼の腕から身を乗り出した。

 奥にある一番大きなあの屋敷には母や兄がいるのだろう。兄の子は無事に大きく育っているだろうか。父を失った母は前を向けただろうか。ムラに住む皆は元気にしているだろうか。新しい巫女は立っただろうか。森の社を任せてきた侍女たちは、今も社にいてくれるのだろうか。まだ一度も訪ねることができていない大婆様のお墓はどうなっているだろう。


「降りたいか」


 私の様子に、彼は提案した。

 降りる。故郷に。ずっと帰りたいと密かに願い続けていたあの場所に。どこまでも駆けて、自由であったあの場所に。

 母や兄に会いたい。皆に会いたい。森に戻りたい。──でも。

 脳裏を横切るのは自分の夫の顔だ。優しい顔をしながらどこか冷たい表情の、私のムラの命運を握る、あの人。

 戻ることは許されない。私はムラの平和と引き換えにあの人の妻となった身なのだ。

 今戻って、母や兄やムラの人々になんと言えばいいのか。嫌で戻ってきたなどとは口が裂けても言えない。私が戻ってきたとなればまほろばとの約束が破断になったと皆は嘆くだろう。私が戻ることはムラの危機に繋がる。

 ムラの誰も、私が戻ることを望んではいない。


「……帰りましょう」


 これ以上焦がれた場所を見ていられず、私は瞼を伏せて首を横に振った。それに、この穢れた身ではもう森に帰ることは叶わない。


「私の居場所は、もうここにはないのですから」


 ならば、あの屋敷が私の居場所であるのか。

 おそらく違うのだろう。なら、どこに。私の居場所は、どこに。


「お願いです。連れて帰って」


 涙が止まらなかった。私はずっと、その人の腕の中で泣いていた。






「──沙耶様、沙耶様」


 身体が揺すられている感覚と、私を呼ぶ声が、徐々にはっきりとしてきた。


「沙耶様、このようなところで寝ていては風邪を召されます。起きてください」


 重たい瞼を開けると、心配そうに覗き込む見慣れた侍女の姿があった。


「……カヤ?」


 目を擦って身体を起こすと、カヤは懐かしむように私に微笑む。


「このようなところで眠られるなんて、お社にいたころを思い出しますね」


 そう言われて、自分が眠っていた場所を改めて見てみると、御簾のすぐ傍、寝具も何もないところだった。ここに来てから寝具のない場所で寝たのは初めてのことだ。


「寒くはありませんでしたか?お風邪は召されていません?」

「え、ええ……身体が少し痛いくらい」


 固い床で寝たせいか、身体の節々が痛む。


「このようなところで寝てしまわれたからですよ」


 彼女は私の衣を素早く直すと、私を目元を見て悲しそうな顔をした。


「昨夜、お泣きになられていたのですか?目元がこんなに腫れて……」


 衣の袖で私の目元を優しく擦った。言われた通り、瞼が腫れぼったい気がした。


「さあ、お着替えいたしましょう」


 着替えのため、カヤは私を奥の部屋につれていこうとする。背中を押されながら、思わず御簾の方に目をやった。

 昨夜、私は簾の外に人を見たのだ。とてもこの世のものとは思えない美しい男の人を。白い手を差しだした、あの人を。

 差し伸べられた手を取り、そのまま抱きかかえられて、空を飛んで。森を越え、河を越え、帰りたいと願い続けた故郷を空から見たのだ。

 あの時は感情に埋もれて礼のひとつも言えなかった。いつ帰ってきたかは分からないが、それでも懐かしい風景を見せてくれた。感謝しかない。どこかにいやしないかとどれだけ辺りを見回しても男性の姿はどこにもない。カヤが心配そうに私を覗いているだけだ。


「どうかなさいました?」


 やはりどこにもいない。あの人の姿がない。


「……昨夜、誰か来なかった?男の方が」

「男の方、ですか?」


 カヤは目を丸くして尋ね返す。そうだと頷くと、彼女は隣の老婆と目を見合わせてからまた私を見た。


「いらっしゃるはずがありません。ここはそこらの男の方が入れる場所では御座いませんもの」


 そう言われて、肩から力が抜けた。


「そう、よね……」


 確かに、こんなにも厳重に守られている奥の屋敷まで男性が来るとも思えない。ましてや空を飛んで遠く離れた故郷に行くなど、夢のような話ではないか。人の為せる業ではない。


「まさか、何かあったのですか?」


 色鮮やかに記憶が甦るのに、何事もなかったかのように私は御簾の傍で寝ていた。

 夢だったのだ。あまりにここを出たいと願ったために見た夢。ならば、なんてひどい夢だろう。きれいさっぱり、起きた時になくなってくれていたら良かったのに。


「沙耶様、」


 着替えを済ませながら、カヤが戸惑いがちに呼んだ。


「実を言うと、昨晩はいつの間にか私も、他の端女も眠りについておりまして……沙耶様と同じように床で」


 はっと思いながらも、もう夢だったのだと閉じこもってしまう。変な期待は持たずにいたい。夢だったのなら、それで終わりだ。


「ですから、その間にどなたか来ていらっしゃったのなら、それは旦那様にお知らせしておいた方が……晩に旦那様の他に男の方がいらっしゃったのなら大ごとです」

「夢を見たの」


 顔を上げて、前を見据える。どんな夢を見ても、いつもの日常が始まる。いつものことだ。ただ、その夢がいつもと違って、幸せなものであっただけで。


「夢、ですか?」

「とても素敵な夢だった」


 そう。とても素敵な、悲しい夢。


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