第三章

月夜

「ご覧になりまして?」

「あの振る舞いに御座いましょう?これだから田舎者は嫌だ」


 聞こえる。聞こえるように笑っている。楽しいものではない。私に向けられた嘲笑だ。


「笑うなんて失礼というものですよ。田舎の小娘なのだから、こちらのやり方などご存じではないのです」

「教えて差し上げたら?」

「あら、森からいらした御方に、まほろばの言葉が通じるとお思い?」


 顔を上げると、前を行く三人の奥方と目が合った。嫌な目だ。そのまま目を伏せ、自分の衣を掴んで踵を返そうとするとカヤが私の前に出た。


「無礼にも程がありましょう!」

「カヤ……!」


 我慢ならず声を荒げて彼女たちに向かおうとするカヤの袖を掴んで止めた。


「離してください、沙耶様!限度というものがございます!」


 私に訴えるカヤの背後で、また袖で口元を覆った人たちが身を寄せ合いながら目を細めて笑った。


「まあ、野蛮だこと」

「田舎からの娘は獣を連れているのだわ。恐ろしいこと」

「ちゃんと首輪を付けてしつけてほしいものですわね」


 カヤが睨み返すと、彼女たちは笑いながら去っていく。去って行った三人の背中に穴が開くのではと思うほど睨んでいたカヤが縋るように私を振り返った。


「沙耶様!このまま言わせておいてよろしいのですか!」

「いいのよ、放っておきましょう」


 いいえ、とカヤは首を強く横に振る。


「カヤ、お願い。落ち着いて」

「もう我慢がなりません。ここに身を落としたとは言え、沙耶様は森の巫女でいらっしゃった御方です。あのような下賤な者たちとは比べ物にならないほど尊い御方です!」

「私はもう巫女ではないのよ」


 カヤを落ち着かせるよう、出来るだけゆったりとした口調で告げた。


「森を離れて人の妻となった私は、もう森の巫女には戻れない。あの人たちが言うように私は何も知らない田舎娘なのだから、他に言い方があるにしろ、半分は当たっているのよ」


 そう言うと、彼女はとても悲しそうな顔をする。


「でも、沙耶様はここに来てから懸命に沢山のことを学ばれて……なのにあの仕打ちは酷い!」


 どれだけ必死にまほろばのしきたりや風習を覚えて出来るようにしても、彼女たちの私を蔑む目が変わることはないだろう。そんなことはもう当の昔に分かったことだ。


「カヤ、ここで言い返して口論になったりしたらそれこそ大変なことになる。あの方たちは私のことを良く思っていないだけ、それを口に出して言っているだけで、実際に何かをしてくることはない。そうでしょう?」

「それは、そうですが……」

「カヤが私のために噛み付いて、あの方たちと同類になる必要はない」

「いいえ……いいえ!」


 相手は強くまた首を横に振り、私を真っ直ぐに見つめた。


「ムラを離れられぬお母上様や与一様の代わりに、私は沙耶様のためにここに来たのです。沙耶様の幸せを願って、沙耶様を守るために」


 家族の懐かしい表情が浮かんだ。私がここに来ると決まった時、幸せを願いながら送り出してくれた母と兄。


「今の状況を、与一さまに伝えましょう?あまりにも酷すぎます」

「それは駄目よ」


 声音が強めになった。


「兄様とムラの人たちを困らせるだけだわ」


 伝えられるはずがない。兄やムラに迷惑をかける訳にはいかない。

 言ったところで、ムラに何ができる。まほろばからの要求を叶えることができず、私がここへ来たというのに。

 揺れ動きそうになった心を抑え込むように、胸に片手を添える。誰かがまたやってくる気配がして踵を返した。


「部屋に戻りましょう。このままここにいても同じことが繰り返されるだけだもの」





 自分の部屋に戻るといくらか気持ちが落ち着いた。庭の見える方へ進み、そこに座り込んで狭い空を仰ぐと夕暮れの光が眩しかった。夕暮れの色は悲しい美しさがあった。

 森を離れて三度目の春がそろそろやってくる。私の部屋の前にある桜の蕾も色を持ち始め、あと数日もすれば咲き誇るだろう。そうして眺めながらもう三年目になるのだとしみじみと思った。


 まほろばから遠く離れた田舎から来た私を蔑む人々は多かった。周りが皆まほろばから連れて来られた女人なのだから、それが想像できなかった訳ではない。若い侍女たちも例外ではなく、田舎から来た私に仕えることを嫌がり、結局は私が彼女たちの任を解いて他の奥方につかせた。今私の身の回りの世話をしてくれるのは、カヤと老婆の二人だけだ。


 あっという間に夕陽は沈み、夜の闇が満ち始め、皆が夜の支度に入る。女たちも密やかに今夜は自分のもとへ夫が来るのではないかと気持ちを高める時間だ。違わずカヤも侍女の老婆と共に寝所の支度をいそいそと始めた。

 寝間着に着替えなければとカヤに手伝ってもらいながら袖を通していく。とても豪華で素晴らしい生地で編み込まれた白い寝間着。今日はあの人は来るだろうかと白さを見つめながら漠然と考えた。来なかったなら一人で夜を過ごし、また朝がやってくる。朝が来れば決められた時間を皆と過ごすために部屋を一度出なければならないから、またそこで他の奥方に会うことになる。それを想像するだけでやはり気は沈んだ。


 最初はどうにか溶け込もうとした。それでも変わることのない他の奥方から白い目は居た堪れない。身分や生まれによる隔たりは何をしても埋まることはなく、彼女たちの眼差しの冷たさが変わることは無かった。あからさまな酷い扱いを受けることは少なくとも、あの空気に耐えられない。森や故郷のムラを馬鹿にされるのは苦しかった。言い返そうにも、それが他の奥方によって変に大きくされて夫の耳に入り、約束を違えられてしまったら元も子もない。唯一変わらずにある、懐かしいムラと森が苦しめられることだけは避けたかった。

 私が耐えることで避けられることならば、何もせずじっとしていた方がいい。森やムラを守るためにも。ここに、居続けるためにも。それが私の使命なのだから。


 そう考えるたび、愛があれば変わったのだろうかと時たま思うことがある。夫が私を愛し、私も彼を愛して、母が願っていたように子を授かり、それなりの幸せを感じられていたなら、今置かれた状況はもう少しましなものになっていただろうかと。


 現実は思ったようには行かないもので、私がここへ来た最初の頃は何度も私のもとへ来て甘い言葉を紡ぎながら夫は私を抱いたものの、時が経つにつれ、その足は徐々に遠のいて行った。月に一度や二度、夜に私のもとへやって来て、唐突に眠っていた私に身体を求めてくることはある。最初の夜のような優しさはない。乱暴に身体を開かれ、愛しているだとか、そういう言葉もなく私はただただ相手を受け入れるだけに終わる。それ以外の術を知らなかった。

 朝、目覚めるとその人はもういないが常だ。彼は夜のうちに眠ったままの私を置いて一人去っていく。

 昨夜私を抱いたのは何だったのか、私がここにいる意味は何であるのかと、虚しさを覚えながら支度を整え、皆が集まる部屋に向かうと、いつも決まって他の奥方からの妬みの視線を浴びる羽目になる。


 子も授かれば変わったのかも知れないが、何が悪いのか授からないままだ。最近はまたまほろばから新しい女性を入れたとの話も聞いている。

 母が望んだように、愛し愛されているかと問われると素直に頷くことは出来ない。幸せかと問われたら、首を横に振ってしまいそうになる。


 私はどうしてここへ来たのだろう。

 あの人が私を望んでここに入れたのも、カミに仕える巫女という珍しい肩書があったからだろうか。私は、あの人の珍しい女の寄せ集めの一人に過ぎないのか。

 結局は、年初めの儀式の時にもらった文と同じだったのか。私という存在が、珍しかったから欲しかったのか。

 だからと言って会った時にそう尋ねることは出来ないでいた。そうだと言われたら、何もかもが崩れてしまいそうだったからだ。


 そこまで考えてしまうと、ますます遠い故郷が恋しく、今自分の置かれた場所の寂しさがこれでもかと浮き彫りになった。

 かと言って、送られてくる兄からの知らせに寄れば、約束通り、森もムラにも手を出さず、私がいた時のままにしてくれているという。あの人は、私の夫は、約束を守ってくれている。生活に困ることはない。着るものも食べるものも、望めばいくらでも出してくれる。それこそ湧き出るように。この広い部屋で一日を何することもなく過ごして終わる。閉じ込められているようだと感じたのは、いつだっただろう。


──何のために。

──ムラと森のために。


 ムラと森のため、それらを守るために私の自由がなくなっただけの話。そう考えれば、少しは心が救われた。何が悪かったかといえば、私が、普通の娘がするような恋やら愛やらを期待してしまったこと。ただそれだけ。


 着替えを終えると、まだ起きていようと部屋と外とを区切る御簾の傍に腰を下ろした。自分の日常の内にいつも思い出すのは、懐かしい森の社やムラのことだ。

 美しい空。雄々しい木々。たおやかな風。駆け巡った緑の根が這う大地。優しかった大婆様に、兄様、父様。そして私の身を案じ続けていた母様。

 寂しい。虚しい。どうしたらいいのだろう。この気持ちを、どこへ投げたらいいのだろう。


「沙耶様」


 何を察したのかカヤが私の背を撫でた。


「きっとこれから、いいことがありますよ。だって、生きているうち、幸せ半分不幸半分だってよく大巫女様がおっしゃっておられましたもの」


 幸せ半分。不幸半分。生前の大婆様のしわがれた声が脳裏に優しく響き渡る。

 今が不幸ならば、これから幸せが来るだろうか。大婆様が今の私を見たら、いったいなんて声をかけてくださるだろう。


「……そうね、ありがとう」


 顔を上げて、カヤに微笑みかける。心の支えは最早彼女と、老婆の侍女だけだ。


「しばらく、一人でいたいの」


 そう言うと、カヤは一瞬ためらったものの、何かあれば呼んでほしいと言って奥へ下がった。


 今まで夫から送られてきたものが部屋の隅にある。どれも、この寝間着と同じ位大層なものばかりだ。森の社にいては決して手に入らなかったものばかり。豪華で、華やか。

 カヤはカヤで、主人が私を選べば他の奥方は何も言えなくなるだろうと、あの人が私のもとへ来るよう、どうにか根を回そうとしてくれているようではあるけれど、あの人にまた来て欲しいとは思わない。このまま来なくても構わない。私を忘れて、私を解き放ってくれればいいのに。もう、私があの人に愛を求めることは無いように思う。


 ぐっと目を閉じると風の音がした。もう風がなんと言っているのか知ることは出来なかった。


『嘆かわしいことです。森を離れてから、沙耶様は元気をなくされて、まるで日に日に弱っていくようで……』


 いつか、カヤがもう一人の侍女である老婆にそう嘆いているのを聞いた。

 自分が弱っているかは分からない。ただ、今まで風が吹くだけで季節が移り変わっていくのを感じられたのに、森を出てからその気配がとても遠くなってしまった。色んな声が聞こえていたはずなのに、何かに閉ざされたようにくぐもり、ほぼ聞こえてこない。森で巫女としていた記憶も遠い昔のように薄らいで、もう大婆様の声さえ思い出せない。これが巫女としての資格を失ったためのものなのかも、分からなかった。


 そっと御簾を手で押し上げて、夜空に浮かぶ月を眺めた。灰色の雲がうっすらとかかりながらも月は白く煌々と私を照らしている。今見ている空が、あの森に繋がっていると思うと、目頭が熱くなった。森の中から見る月はここから見えるものよりも、ずっと美しいだろうに。

 許されるのであれば、今すぐにでも飛んでいって、あの森からこの月を眺めたい。兄の馬を借りて、颯爽と跨ってあの深緑の中を、風を切って走って。森の泉で身を清めながら、小鳥のさえずりと、小川の流れに耳を澄ませる。花の香りを感じて、季節の移ろいに目を閉じて。

 婆様の顔が浮かんだ。母や父や兄の顔が浮かんでは消えて行った。森の緑も、空の青さも、何もかもが消えて行く。巫女を失った森を思い浮かべ、傍女しかいない社を想った。


──帰りたい。


 堪らなくなって俯くとぽたぽたと目から涙が落ちた。大婆様が亡くなってから今まで泣くことなどなかった。月がよく見えたから、余計に感情的になってしまったのだろうか。

 一度落ちると止まらない。泣いてもどうしようもないと分かっているのに、情けなくなるほどに止められない。少しでも帰りたいと願ってしまったら、その願いは瞬く間に胸の中で大きく膨らみ、溢れて涙となって出てくるようだった。


 しばらくしてから、誰かの視線を感じて顔をあげた。身を固めて目を凝らすと、月光の中に誰かがいて、こちらを見ていた。背筋が凍る思いがした。まさかこんなところにまで私を辱めようと見に来たのか。

 ここの奥方の誰かに泣いているのを見られれば、また何かと上げ足を取られて嫌味を言われるに決まっている。慌てて袖で拭い、御簾を下ろしかけ、そこでふと手を止めた。

 よくよく考えてみれば変だ。

 誰かがいる、というのはこの時間にしてはおかしい。皆が外に出て遊ぶのは昼間であって、夜は夫の来訪がないものかと各々の部屋で待っているものだ。

 ならば、遠くに佇んでこちらを見ているあの影は何者であるのだろう。

 不思議に思って目を凝らしてみると、闇に慣れてきた目が、その人の影の輪郭を捉えた。女ではない。男だ。姿形からして夫ではなかった。今の時間であれば、あのようなところに佇むこともしない。

 ここは主である夫以外、男が入ることが許されない場所であり、大きな塀で囲まれている。それなのに、奥方が集められたこの屋敷の庭に、塀の中に、知らない男の影があって、私を見ている。

 思わず息を呑み、慌てて御簾を下ろした。恐ろしいことが起きていると思った。


「カヤ……!」


 対応を頼もうと彼女を呼ぶ。


「カヤ……?」


 返事がしないので彼女が下がった奥へ行ってみると、彼女はすうすうと倒れてこむようにして眠ってしまっていた。


「ねえ、カヤ。大変、男の方がいるの。起きてちょうだい」


 ゆすってみても一向に起きない。

 先程まで私を元気にさせようとあれほど話題を振っていたというのに、まるで何かに眠らされたかのように眠り込んでいる。他の老婆たちも倒れて眠っていた。


「誰か。誰か、いませんか……!」


 出来る限り大きな声で助けを求めた。


「お願いです、どなたか来てください……!」


 他の奥方の端女を呼ぼうとしても返事が無い。私を嫌って返事をしないだけかもしれないが、まるでこの世界に一人になったかのように、すべてが寝静まって時が止まっているように感じた。


 何だろう。この妙な空気は。

 それでも何がいつもと違うのか冷静に考えている時間はなかった。自分で対処するしかないと意を決して御簾の方へ戻ると、すぐ近くで足音がした。

 あの人が庭から上がったのだと知った。

 こちらへ来る。静かな足取りで、私と外を隔てる御簾の方へ。

 気づいた時には御簾を通して影が私にかかった。足腰が震えた。訳もなくそのまま御簾の前に座り込んで、御簾に映し出される人影に見入った。

 大きな声をあげようかとも思ったが、声など出ない。


──どうしたら。


 すると、その人のものだと思われる手が御簾の下へ差し入れられた。白く大きな、骨ばった手。間違いなく男の手だ。その手が、御簾を引き上げようとしている。

 夫ではない男がここにいること自体が問題なのに、ここへ入ろうとしているのか。


「……ま、待って、駄目、開けないで」


 咄嗟にそう言うと、手は止まった。御簾を掴んでいた手を緩め、私の声の続きを待つように留まっている。


「……どなたです」


 震える声で尋ねた。返事は無かった。

 上がる呼吸を抑えようと、胸元に手をやった。自分の鼓動が恐ろしいほどに早鐘を打っている。


「ここはなりません」


 言葉を続けなければと思った。ここの事情を知らないのであれば、教えて帰ってもらわなければ。見つかれば、この人が殺されてしまうかもしれない。


「捕まってしまいます。ここは女人のみの場所です。誰にも告げ口はいたしませんから、どうか、このままお引き取り下さい」


 返事は無い。


「あの……」


 これだけ堂々としているのだから、もしかすればここの人間なのだろうか。夫から命を受けて、ここに来たのだろうか。戸惑っていると、御簾にあった手がゆっくりと上に動いた。


「だ、駄目、待って」


 御簾が挙げられた先。現れた男の姿に、私の言葉の続きは消えた。


 美しい人だった。

 月の光が似合う、とても儚げな男性が、白と薄い青の美しい衣を纏い、整った顔立ちに微笑を湛えている。蕾であったはずの桜の花弁があたたかな春の夜風に乗せられ、現れた人の背後からひらひらと月影と共に私の方へ落ちて来る。

 身を乗り出した姿は、鷹のような雄々しさがあるのに、透き通った瞳はまるで宝物でも見つけたかのように輝いていた。


 そんな相手から私は目が反らせなかった。

 腰が抜けてしまったのか、力が湧かず顔を隠すことも、逃れることも、声を上げて人を呼ぶことも出来ない。

 御簾が開けられ、相手との境が無くなった途端、世界が一瞬にして変わった気がした。季節は過ぎたはずの、梅が微かに香った。


「──迎えに来た」


 言葉を失ったままの私に、彼が声を発した。


「ようやく、見つけた」


 息を呑む。


「沙耶」


 静かに彼は私の名を呼んだ。愛おしむように。慈しむように。

 その呼び声に胸が震えた。何故だか、泣きたくなった。


「行こう」


 御簾から更にこちらへ身を乗り出して、私に手を差しだした。

 白い、手だった。



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