契り

 別れた夜から彼は姿を現さなくなった。

 これで良かったのだと自分に何度も言い聞かせていたものの、日常を過ごしていく中で不意に淋しさやら悲しさがこれでもかと溢れた。何をしようにも手に付かず、一日がとても長く感じられる。恐ろしいほどの孤独に自分一人が置き去りにされているかのような感覚があった。

 きっとこの孤独は前々からあったものだろう。それが彼に出会う前よりも浮き彫りになっただけで。

 悲しみに暮れている訳にはいかない、私がそうしたことだ。それが彼にとっても一番良いことであって、彼に出会う前はこの孤独の中で私は暮らせていた。その頃の自分に戻ればいいだけの話だ。


 そうしている中で、皆が眠り続ける「祟り」がもとは巫女であった私の為せる業ではないかと責める者が現れた。それらのほとんどは周りをひどく警戒していた他の奥方だった。肯定も否定もしなかった。自分のせいだと言われたらそれは紛れもない事実だ。彼は私のためにここを訪れ、皆を眠らせて私を連れ出してくれていた。それが私の望みだった。

 それでも彼のことを言うつもりは断じてなかった。彼の存在が明らかになれば、ムラや森を潰している彼らはどう出るか。少しでも自分に安らぎを与えてくれた彼を危険な目に合わせたくはない。

 カヤはそんな私の異変にもすぐに気づいて励まそうと、夫を呼ぼうと尽力してくれていたが、それはやらなくていいのだと弱く笑って諭した。来てくれなくて構わない。自分から巫女の資格を奪った人なのだと思うと恨めしさもあった。恨めしいとは言っても、それを了承したのは紛れもない自分であることも分かっていた。

 私は自ら巫女であることをやめたのだ。そう思うことで自分を納得させた。

 彼が私を見つけてくれたことも、何よりも幸せに思えた逢瀬も、すべて夢だったと思えばいい。この牢獄のような場所で、たとえ短い時であれ幸せな時を過ごすことが出来たのだと。私はここで生きていく以外の道を知らないのだから。



 そんなある日の昼間のことだった。珍しく、私のもとへ夫から呼び出しがあった。久々にまほろばの地からここへ赴いた弟君が私に会いたいと言い出したため、その場を設けたとの話が侍女を通して来たのだ。

 弟君には昨日、奥方たちが集まる場面で一目会っただけだ。カヤを伴っての夫への謁見は許されず、私だけが侍女に連れられて部屋を出た。

 一度会った時に何か不手際があっただろうかと考えながら、夫の侍女をつれて指定された場所まで向かう。

 夫に会うこと自体が久しくなかったことだ。もしや「祟り」のことではないだろうかと身を固めるも、非常に恐れているのは女性だけであって、夫たちはあまり気に留めていないとも聞いていた。ならば、何の用だろう。


「こちらです。くれぐれも粗相のないように」


 部屋の前へ案内すると、侍女は不快そうに私を一瞥すると下がっていった。

 御簾の奥にいる夫に声をかけてくれても良いものなのだが、あの侍女にとって得体のしれない巫女だった女に対する礼儀などこれで十分だということなのだ。煙たがられていることが分かっていたから仕方ないと肩を落とすしかなかった。

 改めて御簾の外から声をかけようとした時、中から話し声が聞こえてきた。


「兄上、何故あのような田舎者をここへ入れたのです」


 田舎者──私のことだろうか。

 聞き覚えのない声は弟君のものだろう。呆れているような言い草だった。


「他の女房たちと比べると随分浮いているように見えました」

「お前も見ただろう、沙耶は女房達の中でも格段の美しさを持っている」


 これは夫の声。


「確かに、お美しい妾を手に入れられたものだとは感心致しましたが、まほろばから連れてきた女房たちからは酷く煙たがられているようで。このようなところに閉じ込めておくような娘ではないようにも見受けられました。何故得体の知れぬムラにいた娘などをわざわざ妾になど……」

「簡単だ」


 鼻で笑うように夫は言う。


「あの女が珍しかったからだ。カミの妻として森の奥でひっそりと祈りを捧げ続ける巫女を、それも特別だと噂される美しい巫女を手に入れて抱いてみたかったのだ」

「で、いかがだったのです。その珍しい巫女を手に入れて」


 更に呆れたように弟が尋ねる。


「何も変わらぬよ。抱いてしまえばあれも普通の女に過ぎぬ」


 苦笑が聞こえる。夫の声は、私の知らない冷たさがあった。


「世は変わったのだ。今までの古い考えに縛られていてはならぬ。古い神を崇めるなど馬鹿馬鹿しい。あれらは我らを守るためのものではない。ならば人をカミとする方が我々人のためでもあろう。そもそもカミは独りで良い。森やら水やら風、すべてにカミがいてどうする。カミは唯一の孤高の存在であるべきだ」


 このまま中へ入ればいいものの、私の身体は動かなかった。動き方を忘れてしまったかのように固まってしまっている。


「だが沙耶はいい女だ。良いものをもらったと思っている」

「というのは?」

「まほろばの男たちは私を羨む。古から続く森の巫女を手に入れて妻とした男などそうはいまい。巫女はカミだけのものであり、死ぬまで清らかな存在で人前に姿を現すことは滅多にない」


 羨む。まほろばの男たちが。夫が私を妾にしたことを。よく、分からない。


「それに沙耶はまほろばでも名の通る強大な森の、不思議な力を持つと噂される巫女だった。知る人ぞ知る稀に見る特別な巫女というわけだ。私にあっさりと沙耶を差し出したくらいにムラの者共はその重大さを理解していないようだが」


 自分がそんな特別な存在だとは思っていない。ただただ森のことだけを考え、自然のすべてに耳を傾けてきただけだ。それが当たり前のことだった。


「特別な巫女を娶ったというだけでまほろばでは一目置かれた。大王の耳にも入り、興味を示しているという」


 大王が、私に。まさか。

 すべてを崩してしまった、あの存在が、私を。


「沙耶を手に入れなければ、大王やまほろばでふんぞり返っている者共が私を気に留めることもなかっただろう」


 珍しい身の上の女として、私はここへ連れて来られた。そう、夫は言っている。他愛のない話をするかのように、せせら笑いながら。

 それでは私は、ただの見世物ではないか。


「沙耶は切り札だ」


 聞きたくない。耳を塞いでしまいたいのに、身体が動かない。


「もし大王が沙耶を欲しがり、沙耶を取引に出せば、私の地位もあがる可能性もある。実に良い女だ」


 これが本心なのか。私の夫の。私をムラと森から切り離し、ここへ望んだ夫の。

 殺すように繰り返していた呼吸が乱れていく。喉元が苦しい。息ができない。


「兄上は、大王が巫女を差し出すよう御命じになれば、従うのか」

「無論。おそらくその暁に大王は私に名誉をお与えになるだろう」


 顔を両手で覆った。胸の内が声にならない悲鳴で押し潰されそうだ。

 どんなに望まれても古のカミを蔑ろにする大王のもとになど行きたくはない。地位のためだけに誰かに捧げる身ではない。

 まほろばが私のムラと森に無理を強いるから、ムラの人々が彼らの無理難題に苦しんだから、兄は苦渋の決断で私に妾になるよう頼んだのだ。私はムラと森を守ることが出来るのならと、一生離れるはずのなかった森を出た。

 なのに、これはどういうことなのか。


「大王さえも興味を持つ沙耶がこの手にある。それを言いふらすほどに、どうしようもない優越感に浸れる。その優越感に浸りたくなった時に沙耶のもとへ行くのだ。沙耶は驚いて嫌がりながらも私を受け入れる。受け入れざるを得ない。私の腕に抱かれ、乱れるのだ。その姿をこの目にすることで更に優越感は増した」


 耐えてきたはずの涙が足元に落ちて行った。止まらなかった。


「沙耶は何でも言うことを聞くぞ。自分を捧げたムラと森を今でも強く愛している愚かな女だからな」


 二人の笑い声が聞こえる。


「その巫女も、哀れなものですね」


 弟は言う。


「それだけ森を愛していながらその森から引き離され、守り抜いてきた巫女としての資格を兄上に奪われ、挙句の果てには権力のために売り渡されようとしているなど」

「我が弟ながら嫌な言い方をするものだ。ああ、そうだ、もうすぐここに沙耶が来る。兄弟のよしみだ、お前が気に入ったのなら一晩貸してやってもいい」


 足が震えた。手が震えた。

 今まで懸命に張っていた何かが、痛ましいほどにきりきりと張り詰めて痛みを生む。


「ご冗談を。私はいくら美しい女であろうと田舎者は好かない」


 胸に溢れて止まらなくなるものが、怒りなのか、悲しみなのかは判別がつかなかった。自分の中に張り詰めていた糸がぷつりと切れて虚しく落ちて行ったことだけは明確に感じていた。


「しかし兄上、あの森の話は私も聞き及んでおりますが、かなり強大なカミが古来住み着いているとか。知りませぬぞ、兄上に祟りがあっても」

「結局はカミなど化け物に過ぎぬ。殺してしまえばよいのだ」


 それ以上聞くことは出来なかった。聞けば何かが崩壊してしまいそうだった。

 私の足は本能のままに自分の部屋に向かって走り出す。背後から夫たちの笑い声が聞こえ、いつまでも耳元についてくるかのようだった。



 回廊を渡り、簾を越え、そのまま奥の寝所に入り込んだ。私の逃げ場はここしかなかった。ここしか知らなかった。

 あまり陽の光が射しこまないそこで、私の足は途端に力が抜けて動かなくなる。どうしたって息は苦しかった。夫の声が何度も反芻され、目元からこれでもかと涙を溢れさせた。


「沙耶様?お戻りに?」


 物音を聞きつけたカヤが私を呼んだ。返事をしようにも嗚咽しか出てこない。

 いつだって、夫は笑みを湛えていても、どこか非情で冷ややかに私を見ていた。あの目はそういう意味だった。夫は、地位のために私をまほろばに立った王に渡すことも厭わない。愛など存在しない。私に対してそんなものは微塵も抱いていない。ただ自分の優越感を満たしたいためだけに、私を──。

 自分の身体を抱き締め、その場に崩れ落ちた。咽ぶように泣くことしか出来なかった。


「沙耶様、どうなさいました?沙耶様」


 御簾を越えてカヤと老婆の侍女が入ってくる。


「旦那様に何か言われたのですか?沙耶様、沙耶様」


 カヤは蹲る私を上から覆うように背を撫でて宥めようとした。

 理由を話そうにも、言葉が口から出てこない。発せられるのは嗚咽だけだ。何度も不規則な呼吸が落ちていき、咽ぶような声を抑えようとしても止まらなかった。

 その時、御簾の外から足音がした後、私を呼ぶ声がした。私を夫の部屋まで案内した侍女の声だ。怒っているような様子に、老婆が慌ててそちらの方へ向かっていく。要件を聞いてきた老婆がカヤに言伝を伝えた。カヤは少し悩むようにしてから、私の肩をそっと叩いた。


「沙耶様、旦那様のもとへ来るようにと、今侍女が……」

「いや!」


 反射的に拒絶が口から飛び出した。私が現れないことに夫が気づき、案内させた侍女を叱りつけ、もう一度私を呼びに寄越したのだ。


「行きたくない……!」


 あんな夫のもとになど行きたくはない。


「お願い、カヤ、誰にも、誰にも……会いたくないの」


 誰にも。もう。

 少しの沈黙の後、カヤは私を静かに呼んだ。


「大丈夫です」


 私から離れ、御簾の外へ行ったカヤが侍女に気丈に言い返す声がした。会いたくないという私の意思を尊重してくれたのだと知った。

 涙が落ち続けていく。兄や母、ムラや森のこと、この屋敷に来てからの日々、夫からの辱め、そしてカミの子だと名乗ったあの人が、閉じた瞼の裏に流れていく。そのたびに涙の量が増した。

 森へ帰りたい。何もかもを捨てて、あの場所へ帰ってしまいたい。けれど出来ない。帰れない。

 夫の言う通り、ムラのことがある。森のことがある。約束を私から違えれば、間違いなくまほろばの勢力は母や兄のいるムラを滅ぼす。

 でも苦しい。辛い。このままあの夫のもとにいたくなどない。思い通りになりたくなどない。

 それでも私はムラの平和との引き換えにここにいる──。

 どうにもならない問答が頭を右往左往し、呼吸を荒くした。どうしたらいいか分からない。涙が零れて行く。自分の前にあるはずの道が何も見えない。

 私は何のために、ここにいるのか。



 一人で泣き続けて夜になった。

 カヤは泣いている理由を言わない私を慰めながら寝具を用意し、私を寝かせた。カヤに言ってしまえば楽になるのかとも思ったが、これだけ親身になってくれている彼女を煩わせてしまうのは気が引けた。ここを出たいという望みは、私が最も抱いてはいけないものだ。夫の発言を知れば、カヤはきっと自分を顧みない行動に出てしまう。それが分かっているから余計に言えるものではなかった。

 夜もカヤは傍にいようとしたが、一人にしてほしいと頼み、結局は隣の部屋に控えてくれることになった。寝具に身を埋めても嗚咽は止まらなかった。


 枯れ果てるくらいに泣き、深夜になった頃だった。誰かが御簾を越え、私のいる奥の部屋に入り込む気配がした。

 夫だと思った。昼間来なかった私のもとへ来て、また辱めようとしているのだと。

 嫌悪と恐怖に苛まれ、私は寝具から身体を起こした。どこか隠れようとしようともそんな場所はない。夫であるならば、カヤを呼んでもカヤは夫に従うしかない。部屋の角まで身を寄せ、寝具を引き寄せて自分を守ろうと身を小さくした。

 息を潜めて身を震わせている私の前に、いよいよ影はやってきた。恐ろしさに目を閉じていると、不意に優しく肩に触れる手があった。


「沙耶」


 弾かれるように顔を上げた。想像とは違う、暖かい声だった。


「沙耶の呼ぶ声が聞こえた」


 彼だった。

 彼が、ずっと会いたいと焦がれていた彼が、私の前に膝をついていた。

 彼なのだと知ったら、じっとしていられなかった。涙に頬が濡れていることにも構わず、私は寝具から身を乗り出してそのまま彼に手を伸ばした。私を胸に受け止めると、縋り泣く私を落ち着かせるように彼は背を擦った。その温もりをもっと感じたくて、私はその人の胸に抱かれるように身を寄せた。壊れ物を扱うように、包み込むように、彼は私を抱き締めた。


「……ごめんなさい、ごめんなさい」


 また会いたいと強く願った。だから来てくれたのだろう。

 あれほど会えないと私から突き放しておきながら、それでも彼はまた私のもとへ来てくれた。それが申し訳なくも嬉しかった。

 名を呼ばれ、引かれるように彼を見上げた先に、悲しげな優しい灯が相手の瞳に灯っていた。


「何があった」


 堪らず私は目を反らした。彼にはとても言えることではない。知られたくはない。


「これ程に泣いてまで、ここにいる必要があるのか」


 相手の手は涙の跡が残る私の頬を撫でた。

 ここにいなければならない。そうしなければムラと森に関わってくる。私にはその道しかない。

 返答できずにいる私の背を、彼はひとしきりあやすように擦り続けていた。自分の啜り泣く声だけが聞こえる中、彼は何かを深く考え込んでいるようであった。


「沙耶」


 やがて、顔を上げるよう彼は私を呼んだ。見上げた先に、美しい瞳がある。黒さの奥に淡く青が光っていた。やはり人ではないという現実が突きつけられる。それでもその眼差しに惹かれてしまう。


「私はお前が愛しい」


 白い手で私の両頬を包んで唐突に告げられた言葉に、私は息が止まる思いだった。


「私の妻となってはくれぬか」


 胸の鼓動が止まるような感覚に襲われる。こんな眼差しを向けられたことがなかった。胸がいっぱいになって、息が苦しくなる。

 何度も告げられた言葉を頭に反芻させて、その意味するところを知ろうとする。

 森のカミと人の子だとしても、この人もまたカミという存在であることに違いはない。彼の言葉の真意を知ってかぶりを振り、私は相手から離れようとした。


「……わ、私はあなたに相応しくない……私は穢れてしまった……私は」

「沙耶は美しい」


 私の言葉を絶って彼は言った。離れようとする私を彼は離そうとしない。逆に私を強く抱き寄せる。


「こんなにも美しいのだ。どこが穢れているというのか」


 愛おしいと思う。誰よりも私はこの人を慕っている。狂おしいほどに私は全身でこの人を求めている。それが相手も同じだと思うと抑えきれない気持ちでいっぱいになる。


「沙耶」


 名を呼ばれると胸が高鳴る。この人の妻になれたなら、それほど幸せなことはない。カミだろうと、人であろうと、私が焦がれるのはこの人だけなのだ。

 私を映す相手の瞳は、怖くなるほどに静かで澄んでいる。

 彼を見つめる。夫のある身、それもこの穢れた身を美しいと、愛おしいと言ってくれているのなら。

 私が拒む理由など、どこにあるだろう。私の居場所は、初めからこの人の傍らにあったというのに。


「私を、受け入れてはくれぬか」


 囁くようなその言葉に、私は惹かれるように頷いた。

 彼は子供のように私に笑いかけ、私に優しく口付ける。唇の感触は狂おしいほどの懐かしさと喜びを溢れさせ、私の身体を震わせた。

 私は抑えきれず、思うままに彼に腕を伸ばし、そうしている内に寝具に倒れ込んだ。相手の背中を探り、離すまいと必死になってしがみ付いた。愛しい人の触れ合う温もりに恍惚とし、その力強さに溺れた。

 噛み締める幸せの中で、金色の光がすっと貫いていくような不思議な感覚が流れていく。彼が自分の肌に触れているのは分かるのに、どう自分を抱いているのかが分からない。すべてが朦朧として何も見えなくなる。

 それでも怖くはなかった。彼と共にいることに満ち足りた。

 意識が途切れる前、彼は揺蕩う私の耳元に唇を寄せて呟いた。


「私の名を、授けよう」


 そうして、誰にも明かさない一つの名を彼は私に明かしたのだ。





 目覚めた時、いつもと同じように彼の姿はなかった。また誰もが寝静まっているのだろう、辺りは時が止まったような静けさに沈んでいる。簾の奥から朝の光が僅かに射し込み、夜明けが来たのだと知った。

 覆っていた寝具を退かし、身体を起こしながら自分の身を確認する。契りを結んだ証を認め、あの肌の重みも満ち足りた時間も夢ではなかったのだと安堵した。

 胸の内に明かしてくれた相手の名を噛み締める。

 カミと同様の存在の名を知る──それがどれだけ大きなことか。


 衣を着込み、相手の姿を探すように御簾を越えて屋敷の縁に出た。風が大きく私の方へ吹き流れてきた瞬間、今まで失っていた感覚がその風に乗るように自分の中に流れ込んでくるのが分かった。遠くの花の香りも、そよぐ風の暖かさも鳥の囀りも、すべてが分かる。森に戻ったかのように、まるで巫女の身に戻ったかのように何もかもが鮮明だった。

 森から離れてもこれほどまでにありとあらゆる命が繋がり、美しく見える。尊く感じる。すべてが私に語り掛けてくる。

 嬉しさに胸が大きく上下した。目に涙が溢れて止まらなくなる。悲しみや淋しさ以外で涙を流すのはここに来てからこれが初めてだった。


「沙耶様?起きていらっしゃったのですか?」


 背後からカヤの声がする。もそもそと動き、私の方へ歩み寄るのを背後に感じた。


「私ったらまたぐっすり寝込んでしまって……何でしょうねえ、寝不足ってわけでもないのに」


 カヤの声に後押しされたかのように、頬に涙はぼろぼろと落ちていき、私はいよいよ屈みこんだ。


「沙耶様!いかがなされたのです!」


 慌てて私に走り寄ってきた彼女に、私は衣で目元を拭いながら笑顔を湛える。


「カヤ、違うの、違うのよ」


 カヤは驚いたように目を丸くしている。

 胸に手を当て、大きく息を吸う。朝の涼し気な空気が肺を満たした。


「全部……全部、戻ってきたの」


 私は、私を取り戻したのだ。



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