人と森と
ユキは思っていた以上に早くムラに馴染んだ。人見知りは強いものの、慣れればよく話をする女だった。
「ここはカミの森に守られた尊い場所です」
森の前を歩きながら彼女はそう言った。
風が森から流れ込んでくる。その先に沙耶のいる社があるのだが、まだ訪れる時期ではない。
ユキはかねてから巫女である沙耶に会いたがっていて、沙耶のいるこの森を眺めるために二人で森の前を歩くのが日課になっていた。それ以外は、戦だ、戦だと殺気立っているところに身を置く他ない分、二人で寛ぐことのできる一時が唯一安らげる時間であると言えた。
「そちらのムラにも森はあって、カミもいるだろう。何も珍しいことじゃない」
「確かにそうですが、このムラほど森との間に強い繋がりはありません。勿論巫女もいますが、沙耶様ほどではないのです」
沙耶が格別だと言わんばかりの言い様に驚き、咄嗟に隣の相手を見やった。てっきり巫女のすべてが沙耶と同じような存在で、力があるのだと思っていた。
「ここのムラの森との繋がりが強いのは、やはり昔の伝承がある故なのでしょうか」
彼女は好奇心を露わにして、森を仰ぐ。
「伝承?」
「遠い昔に、カミがこのムラの娘、つまり最初の巫女を愛し、真の妻とした。そのために他のムラよりもこのムラは豊かなのだ、という伝承です。こちらのものとは少し違うようですが、私のムラでも語られているものです」
婆様と同じことを言う。この森のカミは、最初の巫女を、人の女を愛したのだと言う。もしそれが真実であったとしても、カミと人の間に生まれた子がその後どうなったのかを知る者はいない。母である巫女はやがて寿命を迎え、普通の人間と同様に死んでいったと言う。父親であるカミは、姿はおろか存在も危ういところだ。
カミの存在を疑いつつある自分は罰当たりだと分かっていながらも、そう考えることをやめられない。我らは誰一人、カミの姿を見たことがないのだ。この目に見えないものを、どうやって信じろと言うのか。すべては、目に見えてこそではないのか。
「そのような話、他には聞きません。素晴らしいことだわ」
ユキは夢見るような心地で語った。自分が妻を迎えて思うことは、沙耶にもユキのように巫女ではなく、女としての幸せをもって生きてほしいということだった。前々からそういう願いはあったものの、妻を迎え、沙耶と年の近いユキを近くで見ている内にその願いは更に強まった。
目に見ることもできないカミのために、寿命を終えるまで、あの社に一人で身を置くことに何の意味があるというのだろう。これから時代は流れていく。進んでいく。昔からの仕来りに縛れていては、取り残されてしまう。
「悪いが、私はそれをあまり信じてはいない」
「あら、それはなりません」
彼女は驚いたように目を瞬かせる。
「カミは人が信じるからこそ存在しているのです。私たちが信じずに、一体誰が信じると言うのですか」
そうだなと妻に笑った。
「沙耶様は、誰よりも特別な方だと聞き及んでおります」
社にいるであろう妹が思い浮かんだ。ユキと同じ年頃でありながら、まだ少女のように振る舞う沙耶。森に耳を傾け、まるで人ではないものになったかのような神秘的な表情をする巫女としての沙耶。良い意味でいうのであれば、沙耶は確かに特別な娘なのだろう。
「森と語らうことの出来る方だと、他の娘では代わりにならないほどの唯一無二の尊いお方だと、私のムラでは噂されておりました。私はそんな尊いお方のいるムラに嫁ぐことができて幸せ者です」
ユキの声を聴きながら瞼を静かに伏せた。
沙耶に普通の女としての幸せを私が願ったとしても、誰も沙耶を普通の娘として見ることはない。沙耶が普通の娘ではない以上、このままであり続ける。私も、そしておそらく沙耶自身もそれ以外の道を知らないのだ。
祝言からふた月が経とうとした頃にユキが待ちかねた時期がやって来て、私はユキを連れて沙耶に会いに行った。久々に沙耶のもとへ行くなり、妹は嬉々として部屋へ飛び込んできた。
「兄様、ユキ殿、おめでとうございます」
ユキは想像以上に活発に振る舞う巫女に唖然としながらも、緊張している様子で恭しく挨拶をした。
「ユキ殿、そのように頭を下げないでくださいな。あなた様は私の義姉君なのですもの。ああ、ずっとお会いしたかった!」
沙耶はユキの手をとって明るく微笑む。私は見慣れてしまっているが、尊い存在だという噂ばかり聞いていたユキにとって、この巫女の在り様に驚くに違いない。
「ややこが生まれるのが楽しみです。生まれたらすぐに連れてきてくださいね。一番に森のカミに祝福していただきましょう。約束です」
「お前は気が早いな」
「命は廻るわ。これ以上素敵なことはない」
そういう沙耶は夢見るような表情をする。
「それに、ややこが生まれれば父様も母様も心から喜ぶでしょう?私には二人をそうやって喜ばせることは出来ないから、兄様たちに頑張っていただかないと」
最初は沙耶がこれでもかと話したてるものだから、ユキが圧倒されるのではと懸念していたのだが、その心配も無用だったようだ。
沙耶は話すのが得意ではないユキの言葉をしっかりと待って聞くことをした。ユキが沙耶に抱く尊敬による隔たりはそれなりにあるものの、初めて会うユキも沙耶に好感を持ったようで、二人は和気あいあいと私を置いて話を盛り上げていた。
「……沙耶は森と語らうことが出来るのか?」
二人の会話が一段落したころで、私は唐突に聞いてみた。
「まあ、誰がそんなことを?」
そんな大層なことはできないと沙耶はけらけらと笑った。
「ユキや隣のムラの者たちが言うのだ。お前は他の巫女たちとは違う森の繋がり方をしているのではないかと。これがこのムラが豊かで、疫病も流行らなかった理由ではないかと言う輩もいた」
「他の巫女たちと会ったことがないから分からないけれど……」
沙耶は困ったように笑うと、そうね、と頬に片手を当てて首を傾げて視線を流した。
「ただ、命が巡って行くことだけは分かる。森に行くとそれが身体の芯を貫くように一本になって私の前に現れるの。すべてを感じられるときがある」
「例えばどのように?」
「例えば……秋が来て、葉が綺麗に色づいたら、目を見張るくらいの美しい風景が生まれるわ。次にそれらは枯れて地面に落ちて行くでしょう。とても寂しい色合いになるけれど枯れて落ちた葉たちは土の中へ溶けて行って、根を地に巡らせる樹木たちの中へ帰っていく。それを受け取った木々たちは春になればまた小さな鮮やかな若葉が芽吹いていく」
妹の言葉が私とユキの脳裏に森の様子を映し出させる。色がついて鮮やかに、今目の前にあるかのように、それらは流れていった。
風の音がする。緑の香りがする。花々がやってきて、色づいた葉が満ち足りる。ユキも同じことを感じていたようで、目を大きく見開いて沙耶を見ていた。
「これは人も同じ。一見なら当たり前のことが、どうしようもなく愛おしく、美しく、何にも代え難いものに感じることがある……時々泣き出したくなることもあるの。ひとつひとつを目を閉じると細やかに感じられて、森が今度はどうなるかが湧き出るようにわかる時がある。それを感じることが森と語らうことに当たるのだったら、私は森と語らっているのかも知れないわ」
沙耶は、そう言って静かに微笑んだ。
「すべてに名があり、想いがある。森にいると、それが分かります。すべては生きて、我々を生かしてくれている。それらと寄り添い、それらの声を皆に伝えるのが巫女の役目です」
帰路につきながら夕日を眺めた。近い内にまほろばとの戦が始まる。あとどれくらい私はこの夕日を眺められるのだろうとふと思った。
「……沙耶様は、これからの戦のことをご存知なのですか?」
考えていたことが同じだったのか、沙耶は私に静かに尋ねた。
「いや」
「何故、教えて差し上げないのです」
ユキの訴える声はやや私を責めるものだった。彼女の表情は赤い夕陽に照らされて明暗がついていた。
「妹は血が流れることを酷く嫌う。何を言っても反対する」
あの様子だと、婆様も沙耶に言っていないのだろう。沙耶の保護者が大巫女である以上、身勝手なことは言えない。
「人そのものも、カミのものであるから、沙耶は人が人の手で殺められることを泣くほどに嫌うのだ」
ユキはそれ以上何も言わなかった。
いよいよ近々勢力が攻めてくる頃となり、大巫女に報告するために時間の合間を縫って社を訪れた。大巫女は集まりの時と同様、私の話を聞きながらも難しい顔をしていた。争いを止めることはできないのかと言うこともしなかったが、彼女の本心がそこにあることは痛いほどに分かった。
「兄様!」
沙耶が顔を出した。戦のことを聞いたのか、深く思い詰めた表情をして私に駆け寄ってきた。酷く、青ざめていた。沙耶のいない時を狙ってきたつもりだったが、会わずに済ませることは不可能のようだった。
「兄様が来ていると聞いて、急いで森から戻って参りました」
森の中にいたのだろう、妹の衣の裾には泥がついていた。昨夜雨が降っていたために森の中がぬかるんでいたに違いない。
「相手はいくつものムラと森を滅ぼした者たちであると言うのは真ですか」
妹は大巫女と向かい合う私の真横に腰を下ろした。慌てた様子のカヤがその後ろにつく。
「何故、私に言って下さらなかったのです」
切羽詰まった声だった。妹は戦というものを酷く嫌っている。愚かなことだと言って決して戦に赴く我々を肯定することはない。もし言っていたら、沙耶は反対しただろう。それが分かっていたからいずれは露見することだと知りながら私も大巫女も今の今まで黙っていたのだ。血が流されると知ると、沙耶はあまりに悲愴な顔をする。そんな妹の顔は見たくなかった。
「何故、私にだけ何も教えてはくださらなかったのです。森とムラに関わる大事であるというのに」
「沙耶、」
大巫女が妹を諭すように呼んだ。
「我らは俗を離れた身。森と同様、彼らの行いに口を出すことは出来ぬ」
「でも私は……」
沙耶は私と大婆を交互に見やり、それから私にその静かな眼差しを向けた。
「そのような相手に勝てるのですか?勝つ見込みはあるのですか?」
「分からぬ」
胡坐をかいて、歯を噛みしめて答えた。
「武器もできる限り揃えた。若い男も少ないわけではない。隣ムラとやりくりして千人集まった。やりようで勝てる可能性もある」
「でも兄様、これから攻めてくる者たちがどれほどの力を持っているか、ムラから離れて暮らす私でも噂に聞いています。本当にこんな小さなムラが勝てるお思いですか」
「やってみなければわからぬ」
「お願いです。無用な争いはおやめください。無駄な血を流すだけです」
沙耶は私に懇願した。私とて、戦いたくて戦うわけではない。避けることができるのならそうしたい。でもできなかった。できるはずがなかった。敵は否応なく攻めてくるのだ。だから守るために、立ち上がるしか道はないのだ。
「そればかりではありません。ユキ殿は身籠られたばかりではありませぬか。もし兄様の身に万が一のことがあったらどうするおつもりです」
「そんなことは分かっている!!」
床を拳で叩くと、沙耶は怯んで口を噤んだ。
「分かっていても、戦わねばならぬ。この地を守らねばならぬ」
立ち上がって自分に言い聞かせるように呟く。
そうだ。自分のやるべきことはただひとつ。この地を他の者に許さぬこと。ムラを守り、森を守り、家族を守る。避けては通れぬ道なのだ。
「沙耶、巫女となり、ムラを離れたお前に今のことが分かるはずがない。お前はこの森のカミに我らの武運を祈っていればよいのだ」
投げやりに言うと、沙耶は唇を固く結んで私をまっすぐ見据えた。先程のまでの悲壮な顔とは一転して、身体の前で手を重ね、まるで諭そうとしているかのような表情をしていた。
「カミは身勝手な人間を救う存在ではありません」
低い声だ。
「なんだと」
反射的に言い返した。これだけ祀ってきたというのに、我らはこの森を守ろうとしているというのに、何故カミは我らに力を貸さぬのか。
「人の世は人が決めるもの。人が栄えるも滅びるも、森やカミには関係のないこと。きっと他の森も同じでしょう。人に水や恵みをもたらしてくれる存在だとしても、どこの森も人の栄枯には関わることはない。人同士の争いに介入することは決してない」
「それで森が侵されたらどうするのだ」
「森は、人の行いでどうこうされるものではありません。誰かが踏み入れれば、雨風で荒れ狂い、森に流れる川で洪水が起こり、ムラを流そうとするでしょう。人の侵入を拒むために。森がカミのものである限り」
森はおそらく、自分の身は自分で守るのだ。なんて理不尽だろう。
「兄様、見えぬものにこそ、真実があるのです」
カミの存在に疑いを持ちつつある自分の心を見透かされたようだった。
「己の欲と得のためにしか動かぬ人のために、カミがその力を使うことはない」
何も言い返すことなく、私はそのまま社を立ち去った。出発は明日早朝。妹と戦の是非に関して問答をしている時間はなかった。だが、森を出る中でも、口を固く結んだ妹の瞳が、頭にちらついて離れなかった。
* * * * *
兄たちが戦に向かったという話を、その翌日に森の社で聞いた。
二日が経とうとした頃、社でじっとしていることが耐えきれず、雨が降りしきる森へ出た。森の中で、葉の擦れる音だけが暗い森の中に響いている。
目を閉じると、人の悲鳴が聞こえる気がした。血の匂いさえ漂ってくるようだ。足を進めると、一歩一歩踏み込むほどに森が怒りを抱いているのが分かった。人間の愚かさに、森のカミは悲しんでいることも。多くの人の感情が地を伝い、私のつま先から頭へ駆けあがっていく。怒り、憎しみ、悲しみ、欲望──。
悍ましくぶつかり合う二つが、こちらに近づいている。それらは決して互いを受け入れることはない。弾き合って、血が渋く。命が消えていく。感情が、想いが、失われていく。
むせ返るほどに感情に襲われて、木の幹に寄り掛かり、顔を手で覆った。こうして塞いでいても激情のような悍ましさに襲われる。逃げられない。
そうしている間に、兄との問答が脳裏に蘇った。戦をしても何にもならぬと私が説いても仕方がなかったのは知っている。兄たちはもともと戦いたくなどなかったのだ。そんなことは分かっている。世の中がそうさせてしまった。どうしようもなかったのだ。兄たちが戦を望むような人間ではないことは百も承知だ。ただ、私は巫女として、兄に相対しなければならなかった。森の言葉を伝えるのが私の役目だ。兄の妹である前に、私はこの森の代弁者なのだ。私がムラと森の架け橋にならなければならない。私に何かできればいいと思っても、戦をどういうできる力はない。私は森とムラの架け橋であるだけで、守護できる身分ではないのだ。
兄たちの無事を願いながら社へ帰ると、カヤが泣きそうな顔で私を待っていた。
「勝つことなど、あるのでしょうか」
カヤは心配でたまらぬという表情で私に問い掛ける。
「分からない」
結局は私も兄と同じ返答しか出来ないでいる。
「噂では、他のムラもまほろばの者たちに滅ぼされたと」
「……ええ」
長い間、このムラは平和だった。戦もなく、疫病が流行ることもなく、子供たちはすくすくと育って大人になり、誰かと結ばれて子を得て育て、子供たちに看取られながら死に、また新たな世代がムラを支えていく。そうやって命を繋いできたのだ。
そんな戦を忘れたムラが勝つ見込みがどれほどにあるというのか。
無力な自分が情けなく、泣き出しそうになりながら社へ上がると大巫女が私を待っていた。
「大婆様」
少しでも心を安堵させてくれる存在を前に、膝から力が抜けて私は座り込んだ。大巫女はこちらの目線に合わせて腰を屈め、再び私を呼びかけた。
「人の世は人が決めるもの。俗世を離れた我らにはどうしようもないこと。お前が悩んでも仕方のないことだよ」
慰めるような声だ。
「今回の戦いは、古よりのカミを蔑ろにしたことが始まりだと聞く」
大巫女の手はゆっくりと動き、私の濡れた髪を撫でていく。
「いずれは罰が下ろう」
そう言うと、カヤに私の着替えを命じて、奥へと下がっていった。
大巫女の後ろ姿を漠然と眺め、それが見えなくなると自分の膝元に視線を落とす。森から出ても、目を閉じれば、森の中にいた時と同じように、遠くで巻き起こっているであろう、醜く恐ろしいものが感じられた。決して消えない。ぶつかればぶつかり合うほどに激しさを増し、どちらかが消えうせるまで終わることはない。
「沙耶さま、沙耶さま、お気を確かに」
意識が引き戻され、カヤの声がすぐ近くに鳴っていることに気づいた。
「奥に参りましょう?ここでは風邪を召されます」
「……ない」
雨に濡れたままの冷えた身体は震え、私の発する声を余計震わせた。
「え?」
カヤが私に聞き返す。
「土や水を与えてくれるのは何であるのか……それらは決して誰のものでもない。それで奪われる命もまた、私たちのものではない」
自分の中の誰かが話しているようだと思える。けれど紛れもなくそれは自分の胸にあることと寸分違わないのだ。
「どんな理由があろうと、人同士で戦い、命を奪い合うことなどはあってはならない……」
泣き出しそうになる。自然と膝は立ち上がり、私は森を振り返った。
「沙耶さま、それはどういう……」
遠くで人が死んでいく。次々と、絶えることのない悲鳴をあげて、血を流しながら。失われていく。
声は、震える唇を通って飛び出していく。
「人は死ねば土に還る……森へ還っていく。私たちのこの身体もまた、森のカミによって森から作られたもの」
風による木々の揺れる音が、死んでいく人々の悲鳴のように耳に鳴り響く。
「勝手に殺し合い、血を流し合ってはならない」
雨風が大きく吹き荒れ、外へ開かれたままの社に吹き込んだ。カヤが小さく悲鳴を上げる。入ってきた雨が顔に当たって弾けた。
「それらすべては人の身勝手なものから生まれたものなのだから」
──ああ。
森の音を聞いて悟る。
戦が、終わった。
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