年始め

* * * * *


「沙耶姉さまの舞、すごく綺麗だった」


 小さな従妹が頬を染め、私から神具を受け取りながらそう言った。


「ありがとう」

「本当よ。皆すごく綺麗って言ってた。他のムラの巫女と比べても一番だって!」


 十も年の離れたその子は興奮気味で、どう綺麗だったかを力説してくれている。あまりに自分が美化されているものだから、何だかこっちが恥ずかしくなった。

 他のムラにも崇める森があり、その森にカミがまた別にいるように巫女も存在する。自分がその一人であるものの、他の巫女たちと会ったことが無い。互いに森を離れられない身であることを考えれば当然のことだ。私たちはおそらく、同じ運命に身を置きながら一生相見えることはない存在であるのだろう。


「みんなすごく楽しそうねえ」


 少女の感嘆に「そうね」と返した。

 年明けの初めの夜はいつもの静けさが無い。人々の声を遠くに聞きつつ、自分が身に着けた舞の衣装を眺め、道具たちを確認してから箱にしまう。次に使うのはまた一年後だ。

 年初めのこの行事はムラ人総動員で行われ、一族の女は皆社でのお勤めに励むため、一年で一番社が賑やかになる。あちらにもこちらにも首長の血縁にある女たちが走り回り、その子らも外で大きな声を上げて年の初めを祝っていた。男たちは火を起こし、昼間のような灯りをともして、酒を酌み交わしている。女子供の声の遠くに彼らの豪快に笑う声がした。

 いつもなら傍で相手をしてくれるカヤも、今は駆り出されてここにはいない。いつだって傍にいる彼女がいないと何だか変な感じがした。


「ほら、何してるの」


 背後から叔母の声がして、従妹を呼んだ。


「巫女様の邪魔をしないの!これからお祈りの準備があるんだから」


 強めの口調で言われ、小さな従妹は慌てたように飛びあがり、私に一礼すると母親の方へ走って行く。


「沙耶姉さま、あとでね!」

「ええ、あとで」


 一人になった部屋で息をついて、私は結っていた髪を解いた。次のためにまた着替え、髪を結い直さなければならない。休んでいる暇など無かった。こんなにも忙しいのは年の初め以外に思いつかない。


「頑張りましたね、沙耶」


 懐かしい声がしたと思ったら、部屋に母が顔を出していた。


「まあ、母様」


 向き直って母を迎え入れる。


「綺麗でしたよ。カミもきっと喜んでいらっしゃることでしょう」


 母の姿に胸が弾んだ。どうしても抑えられず、自分は子供のようになってしまう。この社に入る前の、あの時の年齢の私に戻ったかのよう。


「父様もいらっしゃっているの?兄様も?」

「ええ、二人共沙耶のことを褒めていましたよ。よくお仕えしていると。明日になったら会えますからね」

「父様に会うのなんて、久しぶりだわ」


 私の背後に膝をつくと、母は櫛を取り出した。

 母の衣からは、皆に振る舞われたはずの汁物と、甘い酒の匂いが微かにする。何もかもが幼い日を連想させた。


「母が髪を結ってあげましょう」


 母に髪を解いてもらうのはいつ以来だろう。櫛が髪を通り、少し頭が後ろに引かれる感覚が好き。幼い頃から私の感覚は変わっていない。

 他愛のない話をする。今度はいつ会えるかと胸の奥で思いながら、母の柔らかい手が自分の髪と髪の間を通り抜けて行くのを感じていた。


 そうして一刻もしない内に私は母に連れられ、社の奥へと向かった。奥の間の敷居の前には大巫女がおり、緊張で身を固めた私に大丈夫だと諭すように語りかける。このムラの大事な神聖なる行事の前にはいつもこの表情がある。


「さあ、お行き。カミの森の巫女よ」


 母と大巫女に見守られながら私は奥の間へと踏み入れた。背後の扉は一年ぶりに開かれ、御簾が掛けられている。その奥に村人の黒い影が跪いているのが見えた。皆、私が皆の言葉を祈りとしてカミに代弁するのを待っているのだ。

 私が向かい合う先には、鏡がある。巫女だけが触れることを許された森のカミのためのもの。社の奥に奉られる鏡の向こうにあるのが、カミが住まうとされる神聖で恐ろしい森だ。我々が太古の昔から崇め、奉ってきたカミの森。

 私は、この森の巫女。

 そう自分に言い聞かせると、身体を何か白い光のようなものが貫いたような感覚がする。

 母に甘えていた自分が一瞬のうちにいなくなり、巫女としての自分が自分を支配する。私はこの森とムラのためにある。この二つの幸せのためにある。そのために生きている。それが私。

 一糸乱れぬ衣に、髪飾り。巫女としての私。


 足を踏み入れるほどに衣から下げた鈴の音が転がった。ムラの人々を背にして、私は真白な衣を翻し、沈黙の中に響く鈴の音を聞く。

 膝をつき、目を閉じる。このムラがまた平和に何事も無く一年を送れるよう。子供たちが腹を空かせて泣くことがないよう、お恵みを下さるよう。また私たちを見守って下さるよう。

 次第に背後にいるムラの男たちは再び酒を浴びるように飲み始め、カミのために歌い始め、女たちはカミのために舞い始め、賑やかさが世界を覆い尽くす。それに反し、祈り続ける私は吸い込まれるように意識が一点に集まって行った。この社にいては聞こえるはずのない音さえ、まるで森の中にいるかのように私の身体を満たしていく。

 大きく大地を波打つ大木の根。森の木々の枝が揺れ、葉が擦れる音がする。澱むことのない川のせせらぎが耳に響く。暗い瞼の裏にありありと森の様子が浮かび上がり、それらはまるで目の前にあるように甦って流れて行く。

 風の音。葉を揺らし、枝を震わせ、こちらへ向かってくる。勢いを持ち、とどまることなく私を突きぬけ、髪を大きく後ろに攫う。

 わっと、春の香りがした。

 春が巡ってくる。こちらにやってくる。赤ん坊のように賑やかで愛らしい若葉が青々と芽吹く季節が私たちの前に。

 そしてそれらに寄り添うように聞こえる、誰かの足音。静かに、厳かに、ゆっくりと。草花を踏まぬよう、地に生まれた命を気遣いながらこちらへやってくる足音──。


 ふと顔を上げた。足音が本当に自分に向かってきているような感覚に襲われたからだった。振り返ると、誰の人影もなく、狭い部屋と外を区切る御簾があった。

 一筋の光が尾を引いて暗闇を貫いている。夜が明けようとしているのだ。御簾越しに見える森の上を覆う空は美しかった。

 御簾の中からでも分かる。森の空はあれほどに綺麗で心を震わせる。

 立ち上がり、御簾に顔を寄せて息を吸い込むと、まだ肌寒い空気が胸の中に入り込んで目を覚まさせた。これらを全身に感じると衣を脱いでそのまま森へ駆け出したい気分になる。御簾の向こうでは皆が転がるように寝静まっていた。これであれば駆けて出て行ける。早く行ってしまおう。


「大婆様」


 奥の間を出ると、大巫女が待っていた。今年も大きな祭事が終わったことに、彼女の優しげな表情を見て深く実感する。


「よくやった、沙耶。今年もきっと良い年になろう」

「ありがとうございます」


 お礼を言う私の逸る気持ちに気づいてか、呆れ気味に大婆様は笑った。


「森へ行くのかい?」

「ええ。着替えたらすぐに。皆が起き始めたらしばらくは外へ出られなくなってしまうもの」


 ムラの人々が目を覚ましたら、またそこで話しこんでしまうに決まっている。他の男たちに姿を見られてはいけないという決まりがある以上、そうなってしまえば彼らがムラの方へ戻るまで待たなくてはならない。外へ出るのならば今だ。


「良かろう、行っておいで」


 お許しが出て殊更胸が躍った。


「行ってきます」

「気を付けるんだよ」


 大婆様の声を聞き受けるや否や駆け足で自分の部屋に戻り、カヤに手伝ってもらいながら、堅苦しい衣を脱ぎ捨てて、いつもの気慣れた衣に素早く袖を通す。やはりこちらの気慣れた衣の方がずっと安心できた。


「残念ですねえ。こんなにも綺麗な衣なのに、年に一度だけだなんて」


 カヤは私の脱ぎ捨てた祭事用の衣装を惚れ惚れと眺めている。それに反して、私は一刻でも早く外へ出たい気持ちで一杯で名残惜しさなど微塵も感じない。


「でも重いから好きじゃないわ。それじゃ走り回れやしない」

「まあ、沙耶さまったら贅沢!これは走るためのものではありません。そもそも巫女様は走られる御身分では御座いません」

「あら、私は他の巫女とは違う、変わり者なのよ。兄様もよくそう言ってるじゃない」

「私の主は難しいお人だわ」

「そんな私と一緒にいるカヤも随分と変わり者よ」


 冗談を言い合って、二人でくすくす笑い合っていると小さな声が部屋の外から聞こえてきた。


「さやねえさま」


 入ってきたのは、ムラの幼い女の子だ。まだ眠たそうな表情で私の前にそろそろとやってきた。


「どうしたの?」


 女の子の目線に屈んで顔を覗き込む。今にも寝てしまいそうな様子だった。


「これ、さやねえさまに渡してって」


 小さな手から渡されたものが何であるか一目で察すると、自分の眉間に自然と皺が寄るのが分かった。


「あら!まあ!」


 カヤが私の手元を覗いて興奮気味の声を漏らす。


「どこぞの方でしょう!」


 ご丁寧に花まで添えられた文。ムラの誰かから、私に渡すように言われたであろう、私への恋文。


「なんと、なんと書いてありますの!?」


 身を乗り出すカヤの前で文を開くと、美しい歌が綴られていた。甘い言葉に、あわよくば社を出てどこかへ共に逃げようという熱烈な求婚の恋歌。添えられた名を見ても、その人がどこの人で、どんな顔をしている人なのかも、この社に身を置く私には皆目見当がつかなかった。

 読むだけ読んで、文をぐっと握りしめる。部屋を暖めていた火を眺め、唇を引き結ぶと、握りしめたそれを燃える火の中に落とした。あっという間に真っ黒になって、文なんてあったかどうかなど分からなくなるほどに跡形もなくなってしまう。


「ああっ!勿体ない!」


 カヤが悲鳴に似た声を上げるも、時はすでに遅い。黒い炭に成り果てたものを炎の中に見つめながら少女は私の衣の袖を引いた。


「いいのよ」


 私がこの森を捨てて行くなど出来ないというのに。


「わざわざ持って来てくれたのにごめんなさいね」


 小さな子の髪を撫でると、その子はううんと首を振って、また大きな欠伸をした。


「起こされてお遣いしたのね。ここで休んでいいのよ」


 言われるなり、へにゃりと笑ったその子はころりと寝転がった。瞬く間に寝息を立て始め、小さく身体を丸めている。先程脱ぎ捨てた衣をカヤから受け取って女の子の上にかけた。

 文の主は巫女である私と直接会うことが出来ないから、社に入りやすい幼いこの子に恋文を託したのだろう。


「勿体のうございますねえ」


 カヤは残念そうに頬に手を当てながら炎の中を覗き込んでいる。


「沙耶さまが巫女でいらっしゃらなかったなら、きっと……」

「カヤ」


 彼女は口を噤み、深々と頭を下げる。彼女の言わんとしていることは分かっている。けれど、言われてもどうしようもないことだ。

 文も花をも燃やした火をしばらく見つめてから立ち上がる。立ち上がった勢いで駆けて、外へ飛び出した。


「沙耶さま!私も御伴を!!」


 カヤの声が遠くになり、森から拭く風が髪を巻き上げる。年初めの涼やかな風が首筋を冷やしていった。奥へ奥へと駆けて、根の上を登り、駆けおり、誰も来ることのできない森の中までやってきて、ようやく足を止めた。

 乱れた衣を直し、結っていた髪を解く。流れた長い黒髪を頭を振って除けると、風に吹かれて後ろに流れた。髪が後ろに引かれる。大きく揺れて、揺らされて。走ったための動悸が聴覚を支配し、上がった自分の呼吸を、空を仰ぎながら聞いた。

 朝が来た森の空は緑の間に青色を見せている。しがらみのない真っ新な色だと思った。ここに来ると、水も風も、命も絶え間なく巡っていることが分かる。自分もまた、違わずこの森の一部であるかのように、それらが流れ込んでくるのを感じる。再び大きく息を吸い込み、すぐ傍の緑の苔に覆われた樹の幹に寄り掛かった。

 あんな文を貰って、心が揺らがない訳ではない。昔共に遊んだ女たちは好きな男のもとへ嫁いで、子供も産んでいるという。

 自分がその身分であったならと思い描かなかったことがなかった訳ではない。男と面と向かって会うこともない自分には、世間の年頃の女の言う恋も分からない。だが恋文を貰ったことで心が揺れても、これは恋というものではないのだろう。私はただ自分にないものを憧れているだけ。それだけでしかない。

 蹲るようにして大きな根の上に座り込んだ。


「──沙耶」


 しばらくして、名を呼ばれた。膝から顔を上げると、馬に乗った大巫女が奥に立っていた。


「大婆様……」


 大巫女は馬から降り、馬を置いて、私の方へ歩み寄る。


「カヤから話を聞いてな、来てみたのだ」


 カヤのことだから心配して相談したのだろう。彼女は、心配性だから。

 男に会うなと諭し続ける大巫女が、私に送られた恋文をどう考えたのかと思い、少し身を竦めた。


「わしもそういう頃があった」

「え?」

「恋文を貰ったことがあったと言っておる。熱烈な言葉が並べられたものだったのう」


 遠い、若かりし日を回顧する相手の表情はやけに穏やかだ。


「私にとて、お前と同じ年頃の時分があったのだぞ?」


 冗談気味に言われ、自分と同い年ほどの大巫女の姿がまったく想像できず、目を瞬かせてしまった。


「巫女というだけで物珍しい。故に食付いてくる馬鹿な若造は多い。我々もそういったものに慣れてないがために、心を揺らしてしまうのだ」


 文を贈ってくれた人は顔も知らない人だ。

 私の姿を見たと言っても、昨晩の舞を捧げる遠くからの私か、祈りを捧げる御簾越しの私。贈った男性は私の何に惹かれたのだろう。私の何を知って、一緒になりたいと思ったのだろう。

 きっと、何も知らないのだ。私がどれだけこの森を愛しているのかも。


「沙耶、そなたも普通の娘に戻りたいか?」


 言われて、普通の娘というものを、思い浮かべる。誰かを愛して、子を産んで死ぬまで添い遂げるのも一つの幸せの形なのは確かだ。それでも、と私は唇を固く結ぶ。


「いいえ、私は巫女です」


 背筋を伸ばして森と向かい合う。腰を下ろした根の主である、大木の幹に頬を寄せた。

 樹のぬくもりが身体に巡る。苔の匂いがする。私はこれが好きだ。私はこの森のもの。この森の妻なのだから。


「このカミの森に仕える巫女の一人」


 他の道など始めからなかったはずだ。これが私の定め。


「巫女であることこそが、私であることなのです」



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