第一章

森の巫女

* * * * *


 私の生まれた家は小さなムラにあった。

 流行りというものから遠く離れた田舎。便利なものも、厄介事も遅くにやってくるような辺鄙な場所だ。ムラの長である首長は我が父であり、父は小さいながらも自分の治めるムラに大きな誇りを抱いていた。その唯一の跡取り息子として、いつかムラの頂点に立つに相応しい男となるために育てられてきたのが私だった。

 近い未来、私が治めことになるだろうムラの後ろには広大な森が広がっている。その森を我々は『カミの森』と呼び、昔から恐れ敬い尊んできた。

 決して森の中に入ってはならぬ。決して森の中で獣を殺してはならぬ。という昔からの掟を大概守り、狩りや釣りは森の外で行ってきた。森に踏み入れずとも、不思議と生活に困らない量の獲物が取れたのだ。

 巨大な森を後ろに、その自然からの恵みにより生計を保ち、我々のムラは命を繋いでいた。飢餓に苦しめられたことも、疫病が流行ったこともない平和なムラを、誰もが愛していた。

 そんなカミの森とムラを分ける境界、森に少し踏み入れた位置にあるのが、古い茶色の社だ。首長である私の一族には、「一族に生まれた娘を一人、森を奉る社の巫女として捧げよ」という慣わしがあり、今は私の曾祖母の姉に当たる老婆がそこに仕えていた。一体今年で何歳になるのか知れない、深い皺で顔が埋め尽くされたその老婆は、ムラの中では一番の年寄で、あまりに長く生きているがために、その若かりし頃を知っている者は一人としていない。

 彼女は森とムラを繋ぐただ一人の巫女であり、長年その均衡を保ってきたことから「大巫女様」、「大婆おおばば様」と呼ばれ、皆から慕われている。政に対する発言力もあり、悩み事があるとわざわざ社を訪ねるムラ人たちも少なくはない。

 そんな何十年も前に社に入った大巫女が、自分の寿命は近いと言い出したということで、彼女の後継が選ばれる事態になったのだ。

 それが沙耶さや──私の妹だった。

 生まれる子供の数はそれほど変わらなかったのだが、その年代に関しては、丁度良い年頃の娘は一族に沙耶一人だった。

 生まれたその頃から、沙耶は巫女になるという定めにあった。沙耶もいずれは自らが巫女になるのだと物心ついた頃から両親から言い聞かされ、本人も己の決められた道に納得していた。

 齢十二を越え、月のものが来たと分かった瞬間から、沙耶はからとなるために、生まれ育った家を出され、大巫女のもとで巫女となるための修業が始まったのである。


 年始を含め、年に5度だけ妹と会うことを許されている私は、馬に跨り、悠々とムラから社までの道を進んでいた。

 不思議と冬も緑を宿している森は不気味でもある。この森が緑を保てる理由は分からない。周りはカミがいる、生きた森だからというのが常だった。ついこの前まで雪が降っていたため、森の中には溶け残った雪がちらちらと見え隠れしている。空からの陽を木々が遮ってしまっているために雪が溶け残っているのだろう。奥の方が緑が生茂り、陽射しが届かず暗いわけだから、森の奥に進むほどに雪が残っており、深緑が真白に埋め尽くされている様子を想像するのは容易だった。


 社まで来ると、その裏に回って馬を止める。肌寒い風が通り過ぎて行き、木の葉が揺れる音がした。結った髪を風が大きく攫う。その風はまるで森の奥へ私を引き込もうとしているかのようだ。昼間だというのに、社の裏に続く森への真っ暗な道はこの年になっても恐ろしく思える。

 ただ、自分がこの道を通ることはおそらく一生ないのだということも分かっていた。この社の奥の森に入ることを許されているのは社に仕える巫女だけで、この奥にある泉で身を清めるのだと言う。

 自分などの巫女ではない人間が踏み入れればどうなることか。カミの怒りに触れるに違いなかった。そんな森に恐れること無く足を踏み入れるのだから巫女とは凄いものだ。


 息をついて森から目を反らし、母から預かってきた手土産と供え物を確認して、馬から降りた。


「ああ、与一よいちさま!お久しゅうございます」


 社に顔を出すと、飛びあがるように手を叩き、カヤは私に頭を垂れた。


「元気そうだな、カヤ」


 カヤは妹が巫女になる折、母が妹につけた侍女であった。年も沙耶に近い娘だ。


「ええ、お陰様で!沙耶さまで御座いますね。今お呼びして参りますので少々お待ちを」

「ああ、それもなのだが……」


 こちらの言葉など聞こえていないかのように、彼女はひゅんと飛んで行ってしまう。

 そそっかしいところはあるが、沙耶の話し相手になってくれる良き友人でもあるから兄としては有り難い。この広い社に老婆と沙耶、それに若いとは言えない傍女三人だけではいくら沙耶が変な娘だと言っても可哀想というものだ。

 手土産を腕に抱きながら、自分を取り囲む建物を見渡し、少し古くなっただろうかと考える。もしかしたら、近々この社の一部を建てなおさなければならないかもしれない。先祖代々守ってきた社をみすみす自分の代で崩してしまう訳にはいかなかった。

 それはそうと。

 もう一度カヤが去っていた方を見やる。見やって眉を顰める。

許しがあるまでは社に上がるまいとしていたのに、沙耶とカヤはなかなか現れない。いくら待てども来ない。出て来ない。どうしたのかと耳を済ませていたらじれったくて仕方ないというカヤの声が聞こえてきた。


「沙耶さま!さーやーさーまっ!!」


 ああ、まさか。


「お目覚めになってくださいまし!」


 溜息が漏れた。彼女の声が聞こえるということは社の中で妹は爆睡しているらしい。私は髪を掻き揚げながら、「あのような妹がお仕えしていることをどうかお許しください」と胸の内に3回唱えてから社に上がった。


 どれほど昔に作られたか知れない社は古く、足を踏み込むとぎしぎしと情緒ある音が耳に響く。これと言った美しい絵などはないが、中もその神々しさを失ってはいない。


「沙耶さま!」


 遠くにあったカヤの声がどんどん大きくなる。


「与一さまがおいでになっておりますよ!!さーやーさーまっ!!」


 この趣ある社には似つかわしくない声が響き渡っている。


「起きてください!!!」


 社の隅に設けられた小さな間に、妹とカヤはいた。妹の沙耶は巫女の衣を着崩して、ごろりと横になり、気持ち良さ気に寝息を立てていた。とてもではないが、巫女とは言える姿ではない。


「沙耶!」


 私が呼ぶと同時に、妹が瞼をひたと開けた。妹は着崩れた衣のままゆっくりと身を起こし、まだ眠たそうな目を擦りながら私の姿にあっと声を上げた。


「兄様……兄様ではありませんか」

「兄様ではありませんか、ではない」


 妹の向かいにどっぷりと腰を下ろすと、カヤは部屋の端へとよそよそしく下がる。


「年頃の、それも社に仕える巫女が何故このようなところであられもない姿で床に寝転がっているのだ。巫女と言う自覚がお前にはあるのか」

「だって、眠かったのです。朝も早かったので鏡を磨いていたらいつの間にか」


 妹は背伸びをし、一度大きな欠伸をした。その胸にはカミのために捧げられた銅製の鏡が抱かれている。鏡の文様は流れるようで美しい。カミのための、巫女だけが持つことを許される鏡だ。それを抱いて寝るなど、罰が当たるのではとそわそわしてしまう。


「ほら、もう春ですもの。すごく暖かくて気持ち良い。風が変わった」


 沙耶は外から流れてくる森からの風に瞼を閉じる。それから、「ね?」と私に同意を求めてきた。そんな自分の妹に頭を抱えずにはいられない。


「きっとあと少しで花が次々と芽吹くわ。明るい緑でいっぱいになる。ああ、楽しみ」


 沙耶は鏡を手にしたまま、おっとりと微笑んだ。


「大巫女様はよくこんな娘をご自分の後継として傍に置き続けていらっしゃるものだ」

「巫女としての務めを果たしていれば他は自由にして良いと仰ってくださっています」


 婆様はほとほとこの小娘に甘い。血縁もあるこの娘を、曾孫のように思えているのだろう。


「それで、兄様は何の御用でこちらに?」


 妹に言われ、当初の用事を思い出し、膝を叩いた。


「そうだ、今日は婆さまにも会いに来たのだ。どこにいらっしゃる」

「あら、父様に話す用事があるということでムラに行くと仰っておりました。きっと行き違いになってしまわれたのだわ」


 大巫女が首長である父に話があるということは、最近の世の動きについてであろう。強大な力を持った大王が西方に立ったという噂。次々と周りのムラを統制していっているという。その大王率いる勢力がこちらにも手を伸ばしているらしいと知らせが入り、もし万が一我らのムラがその大王の支配下になることがあれば、租庸調そようちょうと呼ばれる、食糧などを年ごとに差し出す厳しい制度が設けられるかもしれぬ、その大王をカミとしているらしいことから、カミの有り方も変えて行かねばならぬと危惧されている。

 遥か昔から先祖代々崇め奉って来たカミを捨てろという新たな大王に反抗するムラが後を絶たず、戦が増えたというのは最近の話だ。カミを捨てろなどと無茶にもほどある。ムラそれぞれに、それぞれの森とカミがいて、それらと守り信じ、我らは生きてきたのだから。

 新たな大王が成さんとしていることがどれだけ恐ろしい事か、彼らは分かっていないのか。


「婆様はお前がいても大巫女でいらっしゃる。ここを出ることはないというのに。お止めしなかったのか」

「お止め申し上げたのですけれど、このままでは身体が鈍ってしまうと言って聞かなかったのです。ね?カヤ」


 部屋の外の廊下に座るカヤも困った顔で頷いた。


「一応、傍女は二人つけましたが、何と言ってもご老体ですから……」


 本来であれば巫女は尊い身分であるがために、社と森以外に姿を現すことが無い。用がある時は使いがムラに出されたり、こちらが出向いたりするのが常だ。一族の者でなければ、顔さえ合わせることも無いというのに。


「大婆様はご自分でももう長くはないと仰っていました」


 沙耶は寂しそうに視線を手元に落とした。


「きっと今のうちに生まれ育った場所をご自分の足で歩きたいのだと思います。何十年前に歩いたきりの道を行ったのだと、この前嬉しそうに話してくださいました」


 自ら後継として選んだ沙耶も今や年頃の女性となり、それなりに巫女として育ったこともあり、大巫女は自分の役目はほぼやり終えたと考えているのだろう。


「分かった。ならば、ここで待たせてもらおう」


 行き違いになってしまったのなら仕方がない。今日中には帰ってくるだろうし、父のもとへ行ったのであれば、こちらが話したかったことも父が大方、大婆様に話してくれているはずだ。


「……ねえ、兄様」


 色々と考えを巡らせながら、何となく「うん」と頷いて返す。


「懐かしい夢を見たのです」

「夢?」

「母様と父様に内緒で、兄様とカミの森に入った時のこと」


 過去の自分の愚かしさに顔を覆いたくなる。もうやめてくれと手を振ったら、沙耶は面白そうに笑った。


「よく、あの時は迷いも無く入ったものだ。思い出したくもない」


 森にはカミがいる。それがどういう姿をし、どこにいるのかは分からない。だが、この社の先に進んでしまうと突如雲行きが怪しくなって雷が落ち、雨が降り、風が起こり、近くの河が氾濫し、ムラを流してしまうことさえある。カミを倒しに行くのだと馬鹿なことを言い出した猛者は誰一人として帰ってこなかった。そんな森に勇猛果敢に行ってみようと意気込み、両親の目を盗んで踏み込んで奥まで進んだのにも関わらず無事生還を遂げたのが幼き日の我ら兄妹である。

 私は途中から後ろにいたはずの妹がいなくなったのに気付き、探し回っている間に森の外へ出てしまっていた。何度入ろうと試みても、いつの間にか社に戻って来てしまうと言う不思議な体験をした。このままではならぬと慌てて両親を呼びに行き、ムラ全体で総力を挙げて探すかと話が進んでいた時に妹は泥だらけになって森の奥から還ってきた。妹は今も、あの時森に住む人間の誰かに助けられたのだと言って聞かないが、あの森の中に人がいるとは考えられず、母は物の怪に化かされたのではないかと夜も眠れぬほどに妹を案じ、何度も大巫女のもとへ連れて行った。ムラの者たちは、森の奥まで行ったのにも関わらず生還した娘は、やはり森の巫女に誰よりも相応しいと豪語した。


「きっと幼子だったから許して下さったのだわ。幼子は邪心がなく、清いから」


 妹はくすくすと肩を揺らしている。確か、あの時私は十、妹は五つだった。何も考えず無邪気でいられた齢だ。


「皆カミは恐ろしいと言うけれど、恐ろしいばかりではないのです。ムラに災いを起こすのは清らかな森を人の手で穢そうとするから」


 妹は持っていた鏡を撫で、静かな顔つきで私に告げる。


「ムラに恵みを下さるのは森。私たちはカミの森に生かされている。感謝する気持ちを持っていれば何も悪いことはしない」


 こうした姿を見れば、妹は巫女なのだと強く思わずにはいられなくなる。妹は誰よりもこのムラを守るカミの森を愛しているようでもあった。


「……でも、私を助けてくださったのは誰だったのかしら」


 ふと沙耶は顔を上げて首を傾げた。不思議そうに呟いても、懐古に浸るような柔らかな微笑を湛えている。


「あの森の中にいらっしゃる方なら、きっと森に愛された方だったのね」


 本当に人であったなら、の話だ。だが、あの森に巫女以外の人間が住めるなどということがあるのだろうか。あれほどに人を拒絶するあの森に。


「一目でいいからもう一度会ってみたい。顔も覚えてないから探しようがないのだけど」

「そんな人とも分からぬものに会わなくとも良い。また母上を心配させたいのか、親不孝者め」

「はいはい、分かっています。変なことは母様の前では言いません」


 妹はわざとらしく口に軽く両手を当てた。


「でも大丈夫。私が巫女である限り、会うことはありませんもの。この身分じゃ、探したくても探せやしない」


 沙耶はこの社に身を置き、カミに仕える女として尊い身分についた。カミに仕えるということは、カミに嫁いだ身であるということだ。カミに捧げられた身は決して穢れてはならないがために、他の男たちに会うことは固く禁じられていた。まだ身内である自分や父ならば会えるが、母よりは会える回数が少ない。一族の者であっても、従兄や叔父のあたりになると決して直接会うことはなかった。年の始まりに一族を最前列に社の前にムラの人々全員で集まるが、それでも御簾越しに沙耶はいて、宴を背中にずっとカミに祈りを捧げ続ける。唯一ムラの男たちの前に沙耶が姿を現すのは、カミに舞を捧げる時のみ。それであっても、一族以外の男たちは一番後ろに下げられてしまい、沙耶の姿などゆらゆら揺れる白い衣にしか見えないはずだ。

 誰か男の妻になることはなく、ここの大巫女と同じように死ぬまで清らかなままで有り続ける。それが沙耶に課せられた使命だった。


「ああ、でもあの梅の樹だけでももう一度この目で見たい。どこにあるのかしら。いくら奥へ入ってみても辿り着けないのです」


 迷った森の中で見たという、立派な梅の樹も、沙耶の口癖だった。


「それはきっと夢だったのだ。あの時は色々とおかしかったからな」

「あら、私が梅の花を握りしめて帰ってきたのは兄様もよーく覚えていらっしゃるはずです。本当に美しかった。まだあの花の香りを思い出せる」

「覚えてはいるが、あまり良いものとは思えぬ」


 カミの森に、紅の梅。この森に迷い込んだ時に見たのだと沙耶は言い張るが、緑と黒に染められたこの森にそんな真紅の樹木があるとも思えない。あったとしても不気味だ。大婆様の話でも、自分が踏み入れた範囲内に梅など見たことはないと言うが、沙耶は絶対にあったといって聞かなかった。


「巫女とは言え、森に深く入るのはやめておけ。母上が心配する」

「だから、母様に言うつもりはありません。母様は心配性ですもの。きっと話したりしたら気を失ってしまうわ。兄様の心配性は母様譲りね」


 妹は笑いながら、再び鏡を磨き始めた。

 何度言っても、この娘は森に入ることを止めないのだろう。変に頑固なところは自分とよく似ている。これ以上説得して素直に頷くことはないと分かっているから、この話題は諦めることにした。


「さあ、兄様、大婆さまがお帰りにまるまで、ムラであったことを話して下さいな。聞きたいことが山ほどあるのよ」


 もう踏み入れることはない、生まれ育ったムラの話を妹はせがんだ。昔一緒に遊んだ誰かが祝言を挙げただの、子を産んだだの、知り得る限りのことを話して聞かせている内に、大巫女が傍女らを連れて帰ってきた。





「父様と母様によろしく言ってくださいね」


 用事を済ませ、私が妹と大婆様、侍女たちと共に外へ出た時にはすでに夕暮れ時だった。

 時間が過ぎるのは早いものだ。これではムラにつく頃には陽が暮れてしまっていることだろう。


「まあ、兄様、馬でいらっしゃったの?」


 外へ出て、社の裏に回るなり、妹は声を弾ませた。途端に嫌な予感が過る。


「私も乗りたい」


 ああ、やはり。


「こら、沙耶」


 顔を歪めた私に、妹は両手を合わせてせがんでくる。


「少しで良いの。乗らせて」


 いい、と言う前に妹は馬の方へ行ってしまう。馬の頭を撫で、頬を寄せた。馬もまんざらではなさそうなのが困ったところである。沙耶がまだ家にいる時からの馬だから、沙耶のことを覚えているのだろう。


「こういう時でないと乗れないのです。母様は良い顔をしませんし、兄様だけなのです。ね?いいでしょう?少しだけ」


 もう少女という年でもないのに、子供のころに戻ったかのようなはしゃぎようだ。そんな嬉々とした様子の妹に、駄目だと言うこともできず、渋々了承した途端、彼女は履物を脱ぐと、裸足で地面を蹴り上げ軽やかに飛び乗った。えいやと手綱を引き、一気に走り出す。

 社の裏、広めの場所を馬は駆けた。紅の夕陽に照らされ、茶の毛並は燃え上がるかのように赤く光って見える。真白であるはずの巫女の衣も、美しいくらいの紅と橙に変わった。


「ああ、楽しい!」


 妹の声が響く。幼い頃は男共に紛れて泥だらけになるまで遊び転がり、馬にまで跨っていたほどの少女だ。その面影は衰えていない。

 楽しそうな笑い声。風に、沙耶の長い黒髪が美しく靡いた。


「巫女というよりも男ではないか……」

「沙耶はわしよりも巫女らしいぞ」


 頭を抱える私に、大巫女は言った。


「何より、森というものを良く分かっている。風の香りで分かるそうだ。沙耶が『春が来る』と言えば真に森に春が来る。それが当たるからまた凄い」


 沙耶は不思議な娘だ。皆が恐れることさえするこの森を、誰よりも愛している。森の声に耳を傾け、風の調べにそっと瞳を閉じる姿はさながらこの森の巫女なのだと思えることがあった。

 他の森にも巫女が必ず一人いると言うが、彼女たちもまた沙耶と同じであるのだろうか。森と共に生き、身を捧げて死んでいく運命を持って。


「……沙耶は、このまま誰とも祝言を挙げずに年老いて行くのでしょうか」


 楽しそうに走り回る妹を見ている内に、ふと、思っていたことが口から零れた。

 妹を可愛く思うからこそ、美しく成長していく沙耶には幸せになってほしいというのが兄としての願いだ。無論、母と父の願いも同じである。母に言わせれば、他の娘たちと同様、愛した男と添い遂げ、子を産んで幸せに暮らしてほしいというのが正直な想いだろう。ただそれを口に出すことも、実行に移すことも出来ないのが、我が一族の定めだとも言えた。


「それはわしに対する嫌味か?与一よ」

「婆様」


 私は苦笑した。思えばこの大婆さまにも沙耶のような若かりし少女の頃があり、誰とも添い遂げず、顔に皺を刻む年になってしまったのだ。

 昔は絶世の美女だったというが、最早その面影は微塵も見えない。何せ、当時の姿を知る者など皆疾うにあの世なのだから、私が知るはずも無かった。


「婆様のことも勿論憐れに思うが、もう手遅れかと思いまして」

「言いよる」


 二人で肩を震わせて笑ってから、馬で走り回る沙耶を見つめた。


「確かに、そなたにとって実の妹が巫女となれば思う所もまた違うであろうな」


 老婆の染み入るようなゆったりとした口調に、私は頷く。


「カミの妻になったとは言え、カミは人ではない。人である沙耶は人としての幸せを感じずに生きて行くのかと思うと可哀想になるのです。……カミに嫁ぐということは、一生を一人で誰とも添い遂げずにいくということでしょう」

「そうという訳でもない」


 老婆はこちらに否と言った。


「わしは違ったが、ずっと昔、このムラが出来た頃、カミと面と向かって出逢い、契った巫女が一人だけいるという。そうしてカミの子を産んだと」


 まさか、と声を上げて大巫女を見てしまった。


「もしかすれば沙耶がそうなるかもしれぬぞ。あの子は特別な子だからの」

「馬鹿な」


 人ではない者と交わって生まれた赤子がいると思うと、何だかとても悍ましく感じられた。生まれた子はきっと人ではない。人でなければ、それは一体何なのだ。


「冗談は嫌いだ」


 頑ななこちらの返事に、老婆はそうだなと軽く笑ってから森を駆け行く妹の姿を眺めていた。



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