第11話 嵐の夜

 気がつけばもう十月も終わりに近い。

 校内に植えられたモミジが赤く色づき始めている。

 四時間目の授業終了後、僕はそれを教室の窓から見下ろしていた。

 特になんの感慨もなくただボウっと目をやる。

 最近どうも窓の外を見ていることが多い。

 このときも結構長い時間そうしていたらしく――

「あの。火野くん。どうしましょうか。ちょっと教室で休んでから部室行きます?」

 と春日さんが声をかけてきた。

「……すいませんボーっとして。もう行きましょう」

 カバンを手に持って立ち上がる。

「キレイですね。モミジ」

「僕も。そう思います」

 春日さんと教室を出た。少々重い足取りで廊下を歩き、部室棟へ向かう。

 文化祭まであと一ヶ月と少し。現在、文化祭大バーゲンに向けた全面改装工事のため、マチダモールは閉店中。商品の準備のみに集中することのできる状況だ。ここは一番、気合を入れて同人誌の執筆を行う必要がある――のだが。

(最近どうも調子が悪いんだよな。……まァ良かったタメシなんてないけど)

 などと考えながら部室のドアノブに手をかける。

「痛った!」

 慌てて手を離した。

「ひ、火野くん!? どうしたんですか!?」

「なに騒いでんだおめーら」

 千代美先輩がドアを開けて顔をのぞかせた。

「す、すいません千代美先輩。静電気が」

「気ィつけろよ。もう冬だぜ」

 シビレはすぐに収まった。いつもの席に座る。

「千代ちゃん先輩。部長は?」

「休み。重圧で胃にチーピンのような穴が空いたとか言ってた」

「なんの重圧ですか?」

「しらん」

 さて。執筆にとりかからなくてはならない。

 僕はその日の作業を開始する前に、それまでに書いた所を一度簡単に見直すことにしている。本日もその習慣に従うこととした。

(――やっぱりダメだなこれじゃあ)

 読み直しが終わった感想だ。気持ちがずっしりと重くなる。

(どうにもキャラクターが弱い弱すぎる。特に主人公のドM男。リアリティーも外連味もなく全く魅力がない)

 それはわかった。しかしどう改善してよいか見当もつかない。続きを書く手が動かない。

 隣の春日さんを横目で見た。さらさらとパソコンに接続したペンタブを動かしている。それなりに順調なようだ。千代美先輩も調子よくペンを走らせている。

 僕は深く息を吸い込み溜息を――

(――っと。またやるところだった)

 息を吐き出すのをキャンセルした。溜息をつくとそのたび春日さんが泣きそうな顔で僕を見るからだ。肺にたまった空気を鼻から少しずつ放出する。

 春日さんに余計な心配をかけることを回避したのはよいが、それで原稿が進むわけでもない。

 書いては消し、書いては消し。

 とうとう一行も進まない内にとうとう五時間が経過してしまった。壁かけ時計の短針が『6』の数字を指し示す。

「あ」

 そのとき。千代美先輩が小さく声を上げた。春日さんがなんですか? と問う。

「忘れてたけど。今日台風来るらしいぞ。夜」

 ガラケーでニュースサイトの画面を見せてくれた。

「じゃあそろそろ帰った方がいいですかね」

「そーだな。かなりでかい台風らしいし」

「チェリコンの調子悪いと思ったら。湿気のせいかなあ?」

 みんなで荷物をまとめ始める。今日はとうとう一行も書くことができなかった。

「お疲れ様です」

「おーまた明日な」


 帰り道。春日さんと二人いつもの川沿いの道を歩く。

 ここのところあまり会話が弾まない。春日さんは一生懸命話しかけてくれるのだが、どうにも会話がとぎれとぎれになってしまう。大変申し訳ないし情けなく思う。

 モヤモヤとした心持ちでふと空を見上げると。

「げ。春日さん見て下さい。あの空」

「ドエライ色をしていますね。この世の終わりみたい」

「まるで爆発寸前のナメック星です。これは急いだ方が」

 ポツリ。

 雨のしずくがアタマのてっぺんを打つ。

 ホラやっぱり振ってきた、と思った数秒後にはもう――

「ひ、火野くん走りま――ギャーッ!」

 豪雨、強風、さらには稲光。

 あわてんぼうの台風が予定よりも早めにいらっしゃったようだ。

 傘などなんの役にも立たない。雨宿りする場所もない。

 僕と春日さんは川沿いの道を駆けた。

 制服が一瞬で水浸しとなり体に貼りつく。靴が雨水に侵食され体が芯から冷える。強烈な向かい風で前もロクに見えない。地面がツルツルと滑り何度も足を取られそうに――

「あっ!」

「火野くん! 大丈夫――キャッ!」

 というか実際に取られた。それも二人まとめてだ。

(バチが当たった……かな)

 二十分ほど走りようやく我が家に到着。僕は大きく息を吐きヒザに手をついた。

「お疲れ様でした……!」

 春日さんが憔悴しきった声を発する。

 まるっきり濡れネズミそのもの。グレーのカーディガンが真っ黒に染まり、髪の毛の大きな束がオデコにべっとりと貼りついていた。

「また明日です!」

 その状態のまま再び駆けだそうとする。

(いくらなんだってこれ以上濡れるのは……)

 僕は春日さんの右腕をそっと掴み、提案した。

「服。乾かして行ってはいかがですか? その……他意はないんです。マジで」

 彼女は一瞬驚いた顔、しかしすぐに安堵した笑顔で首をタテに振った。


「そっか妹さんはいらっしゃらないんですね。ちょっと残念」

「さ、先にシャワー浴びて来て下さい」

 春日さんは申し訳なさそうにしつつも洗面所に向かった。バタンと扉が閉まる。

 僕も制服や下着を脱ぎ、とりあえず流しにほおり込んだ。これはさすがにクリーニングに出さなくてはならないかもしれない。

(しまった。着替え。それにバスタオルも。洗面所に干しっぱなしだ)

 一般的な家庭ならタンスの中に複数の着替えやバスタオルがあるだろうが、そこは我が家である。

(カスミの着替えなら数着あるが。いやそれはいくらなんでも変態性が強すぎる。第一あれは春日さんに着てもらわないと)

 さしあたって全裸で過ごすしかないようだ。台拭きで体を拭きどうにかびしょ濡れ状態からは脱することができた。座布団に腰を下ろしフウと息をつく。

 洗面所からシャワーの音が聞こえてきた。

(今。春日さんがあの向こうで――)

 そう考えると一瞬胸が高鳴った。

 正直申し上げて、少々いやらしい想像をたくましくさせて頂いた。

 でも。

 そんな気持ちは長くは続かず、すぐに別のことで頭が埋め尽くされてしまう。

 このところずっとそうだ。

 頭に浮かぶのは『あのとき』のことばかり。

(こんなことじゃあダメだと。分かってはいるんだけど)

 ――そうして十分ほどたったころ。

 洗面所から「あの~」というくぐもった声が聞こえた。

「はい!」

 必要以上に大きな声が出てしまった。

「あの。図々しいのですが……お着替え的なものを貸して頂けないかなーと」

「妹の服でよいですか? ちょっとだけ小さいかもしれませんが」

「ありがとうございます」

「バスタオルはありましたか?」

「はい! 大丈夫です」

 タンスから妹の服を取り出す。

「で、できれば目をつぶりながら扉を開けて頂けると」春日さんの非常に小さな声。

「しょ、承知しました!」目をつぶって扉をスライドさせた。

「こちらご注文のお着替え――」

「ウボアアァァ!? キイイイヤアアァァァ!」

 モンスターの断末魔のような叫び声、さらにビターンという大きな音が聞こえた。

「春日さん!?」

 驚いてつい目を開いてしまう。春日さんはバスタオル一枚の姿で尻餅をついていた。シャワーの熱で薄紅色に染まった白い肌。すらっとした脚。バスタオルで半分隠れた控えめに主張する胸。上を見ればびしょ濡れのセーラー服や下着が干されている。心臓が痛いほどに高鳴り、顔面が燃え盛るのを感じた。

「オギャバア!」

 春日さんはもう一度凄まじい声で叫ぶや、脅威の身のこなしで僕の手にあった服を奪い、扉を叩きつけて閉めた。

「ドドドドド……!」道路工事或いはジョジョのような声がドア越しに聞こえる。「どうして全裸なんですかあああ!」

 自分の下半身を見た。彼女の指摘は正しかった。

「き、着替えがなくて!」

 そういう問題ではない気がするが、そう叫ぶ他はなかった。

「なんで告知をしないんですか! 僕は全裸ですなう! と!」

「申し訳御座いません! 考え事してて!」

「全裸より大事な考え事なんてありません! ありえません!」

 自分でもそう思う。春日さんが鼻水をすする音が聞こえた。

「泣いてますか?」

「シニタイです! なんか慰めて下さい!」

「えっ!? えーっと……春日さんのバスタオル姿! 可愛かったです!」

 今日一番の、もはやなんと記述していいかわからない奇声が洗面所から上がる。

「ウソです! 見てません! おっぱいは半分しか見えてませんでした!」

 すると。さすがにちょっと騒ぎすぎたか、両隣の一〇一号室と一〇三号室の住民に壁ドン、二〇二号室の住民に床ドンをされてしまった。

 ――両者沈黙。片や半裸、片や全裸。

 ややあって。春日さんが無言のままドアを少しだけ開き、洗面所に干してあった着替えを外にほおりだしてくれた。僕はそいつを装着してようやく人間らしい姿になった。

 心臓がまだバクバクいっている。

 ちなみに。先ほど拝見した春日さんの下着の色は上下共に黒であった。素晴らしい。


「た、ただいま上がりました」

 ようやく僕もシャワーを浴びて洗面所を出た。

 春日さんは僕を見上げ柔らかく微笑む。床にペタンと座ってちゃぶ台の上で携帯をいじっていたようだ。コンタクトレンズを外したらしく赤いメガネをかけている。

「お疲れさまです。ちゃんと暖まれましたか?」

 あれほどのことがあったのにもうケロっとしている。こういう所が彼女の穏やかな性格を現すと共に、そこはかとなく大物感も漂わせる。

「ええ。風邪は引かずにすみそうです」「それならよかった」

 まだ少し髪の毛が濡れている。小さめのTシャツを着て、丈の短いショートパンツを履いた姿は大変に――

(いや。あまりいやらしい目でばかり見るのはよそう。本当に嫌われてしまう)

 視線を少しだけそらしながら春日さんの対面に腰を下ろした。

「夕飯をお出ししたい所なのですが、買い置きが全くなくて……」

 米びつの中はからっぽ。冷蔵庫はそもそも所持してない。ちなみに炊飯器もないのでいつもはんごうでお米を焚いている。

「いえいえ。突然でしたし。これでも一緒に食べましょう」

 春日さんはカバンから平べったい正方形の箱を取り出した。ラメ色に光る上蓋にはアルファベットで『ガーナチョコレート』と書かれている。

「みなさんと一緒に食べようと思って忘れてました。でもちょうどよかったかな?」

 フタを開くと高そうなチョコレートが十個ほど詰められていた。

「頂いてよろしいのでしょうか? 高価なものなんじゃ」

「いえ。親戚に送って頂いたものなので遠慮なく」

 お言葉に甘え一粒口に入れる。あまりに上品な味に舌も胃もびっくりした。

「さっき。妹さんとしゃべっちゃいました」

「ええ!?」

 春日さんが我が家伝統の骨董品、黒電話を指さした。

「どうかなとも思ったのですが、何回も鳴っていたので」

 これは後日カスミからの追及がエラいことになるであろう。

「妹はなんと?」

「『台風やべーからみんなで学校泊まる! めっちゃ楽しい!』と」

 確かに先ほどよりも更に雨風が強くなり雷も鳴っている。兄としても学校にいてくれた方が安心ではある。

「妹さんカワイイですね。男の子みたいに無邪気で。お兄ちゃんが溺愛するのも分かります」

 でも『邪気』も男の子っぽいんだよな。

「あの。間違いなく失礼なことをのたまったと思います。大変申し訳ございません」

「し、失礼ではないのですが、なんていうか、思春期だなあと……」

「悪気はないので許してやってください」

 春日さんは赤面しながら首肯した。カスミは一体なにをホザいたやら。

「それはいいとして! どう? 小説の方の進行具合は?」

 ムリヤリ話題を転換してくれた。ありがたい。

「全然ダメです。ご覧になられてたかもしれないですが、書いては消し書いては消しで」

「そっか。私と一緒ですね」

 髪をかき上げて苦笑した。春日さんにしては少し大人っぽい仕草だ。

「春日さんは順調そうに見えましたが」

「デジタルだと分からないだけですよ」

 机に絵を描くを真似をしてみせた。

「やっぱり。集中できないよね。あんまり」フフッ、と自嘲的な笑い声。それから静かな口調で言った。「殺村さん。前にも増して近寄りがたくなっちゃったかな。あまり暴言も吐かなく、ってゆうか無口になっちゃった。大森先生もつまらなそうですよね」

 春日さんの言葉がグサリと胸に刺さる。

「ご、ごめんなさい。あの……火野くんを責めるつもりは全然なくて」

 顔の前で必死に手を振る。どうも僕がよほどひどい顔をしてしまっていたらしい。

「えーっと言いたかったのは……」そう呟きながら頭を掻きむしる。「今度謝りに行きましょう! 私と一緒に!」

 このメガネをかけたおとなしそうな女の子の口から出たとは思えないくらいに、強い意志の籠った言葉だった。

「文化祭には間に合わないと思うけど。暴言カレンダーを発表すること、私まだ諦めてないよ。だって! 私たちの努力の結晶じゃない! 一年生のときから続けてきた!」

「春日さん……」色々な感情がこみ上げてきてうまく言葉にすることができない。

「タイミングが難しいかもだけどね。謝りに行く」

「そう……ですね。少し怖いです」

「怖い?」

「彼女をさらに傷つけるのが。です」

「大丈夫! 今度は私も一緒だから!」

 ちゃぶ台に手をつき、身を乗り出してきた。顔が触れそうなくらい近くにある。

「火野くんちょっと痩せました? 顔がホネホネだよ」

「このところあまりごはんが進まなくて……」

「ははは。私も。やっぱり暴言という名のオカズがないと」

 そういえば春日さんも少し頬がコケたような気がする。

「火野くんはね。もっと私を頼ってよ! そりゃあ頼りないゴミムシのジャパニーズスモールリスザルだけど。これでも一年半一緒にやってきたんだから」

 僕は両手の拳をギュっと握りしめた。

「ははは。オトコノコの癖に」

 春日さんはハンカチでそっと僕の頬を拭ってくれた。

「とりあえずはさ。同人誌の方頑張ろう! 廃部にならないように」

「りょうかいです!」

 大きな声で返事をした。

 春日さんはまた壁ドンが来ると思ったらしく、カラダをビクンと震わせる。

「ち、小さな声でしゃべりましょうよ!」

 しばらくの間ちゃぶ台を挟んで会話をした。カスミの話、大森先生の話、最近読んだ小説やマンガの話、どうやったら部長と千代美先輩のカンケイが進展するのかという話。他愛のない話ばかりだが、久しぶりに楽しくおしゃべりをすることができた。

 ――そうしてどれくらい経っただろうか。

 外からは相も変わらずザアザアというどしゃぶりの音が聞こえる。

「雨。止まないですね」

 春日さんが窓の向こうを見やりながら呟く。

「予報だと、十時ぐらいには止むって言っていたんですけどね」

 時刻はいつの間にかもう二十三時。

(春日さんは。この後どうするのだろうか)

 僕の心の中の天使と悪魔が現れる。

 ――悪魔が叫んだ。

(今日は泊まっていけって言っちまえよ! 結構いい雰囲気だしヤレるぜ!)

 ――天使がささやく。

(悪魔の言葉に耳を貸してはなりません! とはいえ。この雨の中帰らせるのは無慈悲というもの。泊まっていくように伝えなさい。ちなみにその場合ヤッても不可抗力です)

 天使と悪魔が歴史的和解を果たした。

「春日さん今日は――」

 だが。僕の中の童貞とヘタレの全能神が降臨する。

「タクシー呼んだら?」

「そ、そうですね」

(し、しまった!)

 春日さんはスマートホンを手に取った。

「あれ? 圏外になってます。台風でアンテナがトンじゃったのかなあ?」

(これは……! やはり……行くしかない……!)

 僕は身を乗り出して春日さんの目をじっと覗きこんだ。

「な、なんですか?」

 伝えるべき言葉が出て来ない。口をぱくぱくさせてしまう。

(えーっと……なんて誘えば……なにかロマンチック的なことを言った方が……)

 とてつもなく喉が渇く。手のひらにはじっとりと汗。

 春日さんは顔を真っ赤にして、僕から九十度ぐらい顔を逸らす。

 ――どれぐらいそうしていただろうか。

 わからないが相当に長い時間だ。僕はようやく口を開いた。

「きょ、今日はどうされますか? 雨は。その。とっくにやんじゃいましたけど。あえて泊まって行く……とか」

 窓の外には綺麗に月が出ていた。

 春日さんは「今日は帰ります!」と叫び、カバンをひっつかんで立ち上がった。

「あの……送って……」

「大丈夫です! 一人で帰る!」

 彼女は縮地法のごときスピードで玄関口に到達した。

「じゃあね!」

 玄関扉を開きながらこちらを振り返り、右目の下マブタを指でひっぱりべーっと舌を出してみせた。いわゆる『あっかんべー』である。

(ひ、久しぶりに見た。あっかんべーする人)

 扉が閉まり部屋に一人取り残されてしまった。

 僕は畳にダイブし、アアァなどと奇声を上げながらアタマを抱える。

 時計を見上げると深夜の一時。つまり二時間ほどまごまごしていたことになる。そりゃあ愛想もつかされる。

(まァいいか。いろいろと問題が解決してからじゃないと落ち着かないっていうか)

 今年に入って一番大きな溜め息をついた。

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