5.竜と思慮

 領地を抜けるのに、随分と勇気が要った。

 重い一歩に立ち止まったまま、かぶり直したフードを握り込んだルネリアを、赤い瞳は急かすでもなく見据えていた。窺うように覗いた先で、再びいびつな笑みが浮かぶ。

 それがやけに恐ろしくて――。

 彼女の足は、急くように前に出た。

 それから先の無言にも、兄を名乗る男は口を開かない。

 ただ、先導する足取りがルネリアを気遣っているのだけは理解できた。

 踏みつけるのは歩き慣れない土の感触だ。街道から逸れ、人目をはばかるように、快晴の中を進んでいる。オルテールのまっすぐな案内から察するに、このまま行けばどこかの集落に行き着くのだろうが――それがどこなのか、ルネリアには見当もつかない。

 石畳に慣れた足に、土が纏わりつく。余計に重たくなる歩調を振り返る気配がした。

 それで、ようやく顔を上げる。

「オルテールさん」

 フードの隙間からでは、兄だという男の目元までは伺えない。ただ、分かりやすく落胆したふうに、唇の笑みは消えた。

「お兄ちゃんとは、呼んでくれないか?」

 言葉に詰まる。再び地面に落とした視線には、緑の混ざった茶色の、退屈な色が広がっているだけだった。

 それは――難しい相談だ。

「会ったばかりですし。その、確かに、姉には似ていますが」

 整った容姿。たれ目がちの赤い瞳。意志の強そうな、つり上がった眉。そして何より、血族を示す、よく手入れされた緑の髪――。

 一見して、まさしく姉を男にしたような姿だった。諸刃のような、触れ難い雰囲気までもがよく似ている。

 けれど――。

 それだけを理由に、彼を兄だと信じることはできなかった。

 居心地の悪さに足を止めるルネリアに、諦めたような溜息が届く。思わず肩を跳ね上げた彼女を見て、オルテールが息を止めた気配がした。

「お前が私を知らずとも、私はお前を知っていると言ったろう」

 思うよりも優しい声だった。困惑めいた色を隠すこともしないまま、彼はルネリアの前に屈み込む。

 ようやく見えた赤い瞳が、笑むように歪んだ。

「ずっと見ていたんだよ。片割れを通して」

 ――穏やかな所作が。

 ひどく恐ろしくて足を引く。強引に己の視線を引き剥がして、血の気の引いた顔を隠す少女の視界の端に、オルテールが立ち上がるのが見えた。

 今ならまだ逃げられる。このまま踵を返して、来た道を全力で走り抜ければ、パンドルフィーニ領までは戻れるだろう。人波に飛び込んでしまえば、彼には手出しができまい。

 フードを強く握るルネリアの算段に気付いているのか――。

 彼は悩ましげに溜息を吐いた。

「――アルティアのことが聞きたいのだろう?」

 思考が霧散する。思わず持ち上げた瞳に、白い手袋が思案げに唇をなぞるのが見えた。

「片割れは生きているよ。それだけは信じておくれ。何なら、今から飛蛇サーペンタを飛ばしてもいい」

 続けざまの声で目を見張った。

 空を飛ぶ獣である。竜によく似た鱗と翼を持つものの、手足はない。意志の疎通は不可能だが、パンドルフィーニにとっては別だ。竜から賜った使い魔のようなものとして、伝書などのために、彼らを行使する権利が与えられている。

「飛蛇を使えるんですか」

「私も、お前と同じ家系の人間だからな」

 何度も言っているじゃないかと、薄い唇が苦笑した。思わず言葉に詰まる。

 ――飛蛇そのものはよく見かける生き物だ。危害を加えない限りは無害で、ルネリアも窓の外を飛ぶ彼らをよく見ている。彼女が思うよりずっと広いであろう世界に、それを扱える人間がいたところで、不思議ではない。

 未だに警戒の色を消さない彼女を見詰めて、彼は再び思索に戻る。しばしの沈黙を挟んで、その指先が撫でるように剣を握った。

「ここだったら、別に構わないか」

 離れるように――と手が動くよりも早く、ルネリアは足早に距離を取る。それを見届けてから、オルテールの剣先が、拙く地面をなぞる。

 描かれる不可思議な文様とともに、低い声が複雑な発音を紡ぐ。とつとつとした口調と、緩やかな手の動きで生まれた術式が、空間で爆ぜて――。

 ――竜を模した小さな炎が、吠えるように空に消えた。

「これを見せれば信じてもらえるだろうと、片割れに教わったばかりの付け焼き刃だがね。信じてくれる気にはなったかい」

 術陣と詠唱。

 この世界でパンドルフィーニにしか扱えない、魔術の形態である。そもそも、魔術は一般人に扱えるものではない。

 こればかりは頷くしかなかった。

 満足げに頷き返す唇が歪むのを見る。再び逃げ出したくなる足をこらえて、続く声を待つ。

「アルティアは生きてる。お前に会いたがっているよ。ただ、少し準備があってね」

 剣の土を払い、男が無防備に背を見せる。先ほどより距離を取ったまま、恐る恐る足を進める。

「なんでも、お前に見せたいものがあるそうだ」

「わたしに?」

 ――それには納得する。

 昔から、姉はルネリアに贈り物をするのが好きだった。大抵は物語であったり、歌であったり、彼女が愛する本であったりしたのだが、ルネリアはそれを楽しみにしていた。

 屋敷の中から自由になった彼女が、何か大掛かりなことを計画しているところは、容易に想像がつく。

 まあそういうわけでね――緩慢な足取りが前を行く。

「それに、あいつがこの辺りに近寄るのは難しいだろう? 色々と。それで、私が迎えに来たわけさ」

 思わず言葉にならない声を上げた。

 姉は既に死者の扱いなのだ。堂々と生家に近寄れはしまい。

 それに、受けてきた仕打ちを考えれば、率先して訪れたい場所でもないだろう。

「実は――少し不安だったんだよ」

 後方の少女の瞳が陰るのには気付かなかったようで、オルテールは上機嫌に続けた。

「長いこと、あの辺りをうろついていたんだがね。お前のことは一向に分からなかったものだから」

「それは――そう、ですね、わたしは」

 竜の使いだと。

 口にすることは憚られた。もっとも、彼が本当に姉と行動を共にしていたのなら、とっくに知っていることだろうが。

 生まれた間を埋めるように、ルネリアは慌てて口を開いた。

「でも、それじゃあどうやって、わたしを見つけたんですか」

「あの男の剣、あれはいいものだった。少なくとも、旅人が雇うような護衛が持ってるものじゃない」

 振り返る瞳がフードの下で瞬く。緑の髪を神経質にしまい込みながら、彼は触れた外套を目深に引いて、いびつに笑みを描いた。

「私も貴族の端くれだ。審美眼はそこそこにあるつもりだよ」

 まるで自分が笑われたようで――。

 唇を引き結ぶ。剣の良し悪しも分からぬ小娘だと思われるのが、何故だかひどく嫌だった。

 続く声が意地の悪い響きを孕むのを押し殺す。彼を刺激したくなかった。

「オルテールさんは、わたしを見付けられなかったら、どうするつもりだったんですか」

「さあ――どうしたろうな」

 存外に、声はのんびりと返る。

 見遣った先の背が、白い手袋で剣の柄をなぞっていた。敵意のない緩慢な動作を警戒する気にはなれない。

 そのうちに――。

 オルテールは、ようやく自然な笑声を立てた。

「アルティアには何も言われてないから、まあ、一旦あいつと合流するのが筋だろう」

 誰でも行き当たるような可能性に、何も言わなかった。

 ――あの姉が。

 紫の瞳が捉える味気ない地面の色を、前を行く影が邪魔する。いつの間にか詰まっていた距離を再び置く気にもなれずに、ルネリアは詰まった息を吐き出す。

「姉は」

「お姉ちゃんと呼んでいるんだろう? それでいい」

 言われてしまえば、従うしかなかった。

「――お姉ちゃんは」

 過ぎる思い出の姉が曖昧に歪む。誰もを撥ね付けるという荊棘の毒は、急に色あせて遠のいた。

「あなたを、信用してるんですね」

 震える吐息に、兄を名乗る男が満足げに笑ってみせた。

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