6.蛇と呼称

 最初に、姉をお姉ちゃんと呼んだのは、わたしの方だった。

 初めてその呼称を口にするとき、ひどく緊張した。高鳴った心臓が破裂しそうなくらい膨張して、喉を塞ぐような気がしたのを、わたしは今でも覚えている。

 視線を外すわたしのことを、姉は急かすでもなく見詰めていた。一瞥した唇は、確かいつものように笑んでいて、慌てて口を開いたのだったか。

 ――お姉ちゃん。

 言えば、姉は呆れたように笑った。

 ――貴女も子供じゃないのだから、ちゃんとお姉様って呼びなさいな、ルネリア。

 ――でも、お姉ちゃんって呼びたいよ。

 わたしが意固地になったのは、姉とわたしの間に横たわった溝が、部屋の形をして現れたからだった。

 姉は。

 惨憺たる親子喧嘩の翌日以降、自分の部屋からあまり出てこなくなった。元から他人を好いていない人だったけれど、よけいに人を遠ざけるようになって、白い手袋を外さなくなった。

 厄介ごとを起こした彼女を、父が部屋に押し込めたのだと知ったのは、それから数年が経ったころのことで――。

 当時のわたしには、それが姉の意志であるように思えていた。

 わたしから離れようとする姉、、、、、、、、を引き留めようと、彼女の手を握る。困ったように笑う顔は、他の人に対してよくやっているように、わたしの腕を跳ねのけたりはしなかった。

 ――お母様とお父様には内緒よ。

 そう言って、姉は折れた。

 だから、わたしは彼女をお姉ちゃんと呼ぶ。そうしなくては、姉は本当に遠くに行ってしまって、わたしのあずかり知らぬところで死んでしまうような、根拠のない予感がしていた。

 一度受け入れると、彼女はその呼称をいたく気に入ったようだった。冗談でお姉様と呼べば、柔らかく眉をひそめるほどには。

 わたしが十四になり、姉が十六になるころには――自らをそう呼ぶようにもなっていた。

 ――私はお姉ちゃんだからね。

 おどけた口調は、いつもわたしの目を見ている。赤い瞳がゆるゆると細まって、整った口許が悪戯っぽく笑みを描くのが好きだった。父母にも負けないほど口が達者で、纏う雰囲気は大人びていて、空想家でありながら奔放な姉に、よく似合う表情だと思った。

 ――お姉ちゃんは大人だね。

 いつだったか、口を尖らせてそう言ったことがある。

 嫉妬というには幼い感情だったように思う。本の世界を愛する美しい姉は、わたしからすると本人までも現実味がなくて、それがなんだか――。

 きっと、羨ましかった。

 わたしの膨れた頬を突ついて、姉はころころと笑った。

 ――そうかしら?

 肯定するのは癪で、けれど否定することもできなかったから、わたしはその念押しから視線を逸らした。姉はまだ穏やかな笑声を立てている。

 ひとしきり笑い終えて、彼女は唇に指を当てて、そうね――と声を上げる。

 どんな些細な言葉にも応じようとしてくれるところが、やはり大人だと思ったのを、よく覚えていた。

 ――だとしたら、貴女っていう可愛い妹がいるからよ。

 ――妹か弟がいれば、わたしもお姉ちゃんみたいになれるかな?

 今思えば実に安易な話だったが、姉は当時のわたしの結論を笑わなかった。否定の言葉もないまま、ただ眉をひそめる。

 ――私みたいには、ならなくていいわ。

 姉は、わたしが彼女をなぞるのを、ひどく嫌っていた。

 わたしの知る肖像画の誰よりも美しく、教育係よりも博識で、父母の強い語気にも決して屈しない彼女は、わたしの理想であり続けているのだけれど。

 取り直すように、姉はわたしを見た。赤い瞳が優しく煌めく。

 ――もう少し大きくなったら、貴女もお姉さんになるのよ。

 ――妹も弟もいないのに?

 何がおかしかったのか、首を傾げたわたしに向けて、姉は破顔した。そういうふうにありありと感情を浮かべる彼女は珍しくて、呆気にとられたのを思い出す。

 わたしが何も言えないうちに――。

 彼女は言い聞かせるように声を紡いだ。

 ――五歳のときの貴女と比べてごらんなさい。今の貴女は、ずっとお姉さんでしょう。

 姉になるというのが、大人になることをも示すのだというのを、わたしはそのとき初めて知ったのだ。

 少なからぬ衝撃に襲われて、しばらくは姉の笑みが脳裏にこびりついていた。いつか彼女に追いついてしまうという事実を突きつけられた気になって、わたしはひどく混乱したまま、ベッドの上で眠れない夜を明かした。

 けれど。

 意味のない苦悩を重ね、姉が消えて、空っぽになった部屋の真ん中に立ち尽くして。

 十六の誕生日を迎えても、わたしはおとなにはなれないままだった。

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