3.竜と遭逢

 外は快晴だった。

 王都近郊に与えられた、パンドルフィーニの自治領である。田舎町というほど辺鄙なわけでもなく、さりとて王都のように忙しないわけでもない、実に中途半端な領地だ。

 それでも、暑さから寒さに傾く大気にも負けず、行き交う人々の声は活気に溢れている。半端なのどかさが、ルネリアは好きだ。

 荷馬車の揺れる音を横目に、目深にかぶったフードに隠れる視界で、護衛の男を見た。

 見目には穏やかそうな男だと、いつも思う。ルネリアよりは十五ばかり年上だ。体は貴族の護衛相応に鍛えられているが、旅人のていで歩く彼女に合わせて、格好はごく質素だ。腰に括り付けた剣は、見る人が見れば鋭利な輝きを放っていることに気付くのだろうが、心得のない彼女にはよく分からない。

 ――分からなくていいと思っている。

 端くれとはいえ魔導四家の領地である。旅人がうろついていても咎められないのは、今が平和である証左だ。貴族の娘が剣の良し悪しに精通するような時勢ではない。

 外にうろつく凶暴な獣たちも、竜の加護を得た領地からろくに出たことのないルネリアには、あまり関係のないことだ。よしんば遭遇したところで、護衛についた精鋭たちが、すぐに仕留めてくれる。

 前から歩いてくるフードを被ったローブの男も、ルネリアが装う旅人の類だろう。近くにある平野では、この時期になると砂塵が舞うというから、きっとそこを越えてきたのだろうな――などと、彼女はちらと男を伺う。

 旅をする理由は分からないが、ルネリアなどには知ることもできない苦労があったのだろう。

 ぼんやりと彼を見る。詮無い思いを巡らせる彼女の体を、顔を見せない旅人から離すよう、護衛が腕を引いた。それで我に返る。

 腕に従って少しばかり身を寄せる。フードを握った。こちらに向かって歩く旅人は、思うより堂々と背筋を伸ばしている。

 すれ違う瞬間、同士に挨拶でもするように、フードの端を僅かに持ち上げた。

 そこから零れる――。

 ――緑の髪。

「すみません!」

 弾かれるように走り出したルネリアの後方から、鋭く叫ぶ護衛の声がした。フードを握る手に力が籠る。

 緑はパンドルフィーニの色だ。両親と、ルネリアと――姉以外には、誰もいない。そのはずだった。

 男の足取りは悠々と人波を行く。息を切らして掻き分けた腕は、周囲の視線に遮られる。この場で名を叫べれば、どれだけ楽だろうか。

 はやる足取りが縺れた。いつの間にか大通りを抜け、裏路地に入り込んだ頃――。

 男は、ようやくルネリアに気付いたかのように立ち止まった。

 振り返る所作は緩慢だった。零れたひと房は既にしまわれている。

 それでも。

 彼女には確信がある。

 ――あれは幻覚なんかじゃない。

「あなたは」

 震える声を乱れた息に乗せた。込み上げた唾を飲み干して、問いを発する刹那。

「その娘から離れろ!」

 叫び声に肩を揺らした。

 振り返った先に、先ほど置いて行ってしまった護衛がいる。人に揉まれたらしい彼は、それでも息一つ乱すことなく、腰の剣に手をかけた。

 ルネリアは。

 男をちらと見た。何かを思案するように顎に当てられた手が、白い手袋に覆われているのを、彼女は初めて知る。

 散漫になった思考を繋ぎ止めるように、護衛の手はルネリアを引き寄せた。

「さあ、こちらへ!」

「――さっきから思っていたんだが」

 そこで初めて、旅人は穏やかに声を上げた。

 そのまま降ろされた右手が、腰に括った剣を撫でるように取って――。

「可愛いルネリアに、汚い手で触らないでもらえるか?」

 ずるりと。

 嫌な音がして、ルネリアは振り返った。

 彼女を掴んでいた腕がずり落ちる。その先に立つ護衛の、茫然と見開かれた瞳を、血煙が遮った。鋭く息を呑んだのがどちらかも分からぬうち――。

 鈍く赤に染まった剣が、護衛の胸を捉えた。

 押し倒された体には既に魂はない。竜の翼を得て、肉となった護衛の男から零れる血を懐の布で拭きとって、彼は不機嫌そうに息を吐いた。

「汚らわしい」

 剣が腰に収まる。無防備に振り返るさまはやはり緩慢だ。フードが脱げたことにも気づかず、地に張り付いた足を動かすこともできないまま、ルネリアは見張った瞳に涙を浮かべた。

 ――訊かなければ。

 ――この人に。

「あなたは、誰ですか?」

 ルネリアの問いには応じずに、男は口許にいびつな笑みを貼り付けて、フードを外した。

 一つに縛った長い緑の髪がこぼれる。その隙間から、垂れ目がちの赤い瞳が凛と彼女を射る。一見すれば温厚そうな、整った顔つきとは裏腹に、持ち上がった眉尻には確固たる意志が宿っていた。

 その――。

 見知らぬ男が宿す、諸刃めいた美しさを。

 剣に似た鋭い相貌を。

 ルネリアは――知っている。

「――お姉ちゃん?」

「惜しいな。半分は正解だ。流石は私の妹だよ、ルネリア」

 ひどく芝居がかった態度で、男は緩やかに目を細めた。

 頭痛がする。ひどい眩暈で視界が明滅する。心臓は破裂しそうなほどで、吸い込むばかりの息に涙が零れる。

 かつての姉の戯れが脳裏をよぎった。――私にお兄様がいるって言ったら。

「お前が私を知らずとも、私はお前を知っている。ずっと見ていたからね」

 彼はなおも笑う。ルネリアの足は自然と後方へ下がった。石畳と靴底が擦れる音がする。

 口の中が乾く。鼓動が耳元で鳴る。広がる赤がぬめる。まとわりつく。

 ――逃げなくては。

 竜の使いの価値は絶大だ。だから、都合よく他の三家に奪われないために、父はルネリアの才を隠している。目の前の男は――それを知っている。

 石畳を赤が覆う。まとわりついて離れない。足元が小刻みに震える。舌が張り付いて、呼吸がうまくできない。

 視界だけが明瞭だった。見知らぬ男の口許は、引きつるように歪んでいる。それでも、垂れ目がちの赤い瞳は、ルネリアが危惧するより静かに瞬いた。

「参ったな。そんなに怖がらないでおくれ。取って食ったりはしない」

 どう言えばいいのだろうね――。

 困ったように眉尻を下げるさまが、余計に姉と重なった。

 滲む景色の奥で、確かに彼が手を差し伸べたのを見る。

「アルティアに会いたくないか?」

 目を見張る。

 静止した。遠くに聞こえる馬車の音も、翼を得た護衛の男から広がる血のにおいも、零れる涙も、脈打つ鼓動も、行きすぎた呼吸も、ルネリアの中から弾け飛ぶ。

 代わりに。

 ――震える唇を開く。

「お姉ちゃんは、生きてるんですか」

「生きているとも。私が生きているんだから」

「どこにいるんですか」

「案内するよ」

 言いながら、男はルネリアの居城の方角を一瞥した。赤い瞳にちらつく強い感情に眉根を寄せる。

「お前だって、あんな息苦しい場所にずっといるのは嫌だろう?」

 否定は――できなかった。

 立ち竦むままのルネリアを前に、男はフードに触れる。

 彼が踵を返す直前。

 知らず踏み込んだ足音に、ゆっくりと振り返る。赤い瞳が彼女を射って、確信に満ちた瞳が歪む。

「私はオルテール・パンドルフィーニ。お前の兄で、アルティアの片割れだ」

 自身の緑の髪に触れて、彼はいびつに笑った。

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