2.蛇と逸走

 一年前に、姉は家を飛び出した。

 わたしが目を覚ましたときには、もうどこにもいなかった。突然の遁走に家中が騒ぎになって、馬車がいくつか出たが、結局見つけることは叶わなかったらしい。

 なぜなのかは分からない。パンドルフィーニの髪は目立つのに、どうやって逃げおおせたのだろうかと、最初はそればかり考えていた。王都や信仰都市は当然として、芸術都市ですら、あの髪を隠せはしない。

 ならば田舎にでも逃げ込んだのかと思う。世界に轟く四家といえど、パンドルフィーニは新参者で、言ってしまえば中流貴族に近い存在だ。他の三家と比べれば扱いは天地ほども違うから、肖像画も出回らない場所でなら、身分を隠して生きることもできるのかもしれない。

 慌ただしい家の中で、家人たちと同じように嘆くふりをしながら、わたしはひどく落ち着いていた。

 だって――理由を知っている。

 姉が書いて、わたしにだけ見せてくれていた悲劇の脚本が、本棚から消えていた。何より愛した悲しい物語の束だけを持って、彼女は自分の名前をした星の下を、どこかへ駆けて行ってしまったのだ。

 自作した悲劇の脚本が本棚に並んでいるだなんて、家の誰も知らなかったから、誰にも言わなかった。

 言えばすぐに見つかることも分かっていた。悲劇の脚本をわざわざ持参したのだ。行きつく場所なんて多くない。でも言えば姉は悲しむだろうと思ったし――。

 何より、その秘密が、わたしと姉の間にある唯一のつながりのような気がしていた。

 姉は――。

 パンドルフィーニの魔術師として見るなら、ごく平凡な才をしていた。わたしが竜の使いとして生まれなければ、きっとこの家は姉が継いでいただろう。そうであれば、姉は悲劇に傾倒することも、この家からいなくなることもなかったのかもしれない。

 それでも、わたしは竜の使いとして生まれてしまった。

 生まれながらにして人でないわたしに対して、姉は人だった。父親譲りの容姿をしたわたしとは逆に、母によく似ていた。与えられた教養をこなすことで精一杯だったわたしとは違って、本が好きだった。言うことを聞いて育ったわたしと比べて――奔放だった。

 いずれファミリーネームさえ違える運命にあるはずだった。

 けれど。

 跡を継がない貴族の娘として、同格の家へ嫁に出されることを、姉は強く拒んだという。破談続きのまま十七の誕生日を迎える頃には、使用人にまで行き遅れだと言われていた。

 ――私は別に、あの方と結婚しても良かったのよ。

 三度目の破談の折、父の叱責を受けたあとで、姉はわたしに囁いた。悪戯めいた笑声がころころと響く。

 ――でもね、あの方は、私についてこられなかったの。

 姉は毒花なのだと皆が言う。甘やかな見目で人を誘うのに、触れれば蝕む。要らない知識を頭に詰め込んで、空想の世界に溺れて、毒に満ちた物語を紡ぐ。だから近寄る者はない。誰だって毒は嫌いで、痛いのは嫌なのだ。

 傍に寄れば――こんなにも優しい笑顔を向けてくれるのに。

 それを聞いて初めて、人を愚かだと吐き捨てる姉を、わたしは少しだけ理解した。

 いつもと同じように眉をひそめ、わたしから視線を外した彼女が笑みを消す。鼻を鳴らすさまは、わたしから見たって高慢だ。けれど、姉にはそういう所作がよく似合う。

 ――馬鹿な男は嫌い。上品なだけの男も嫌い。綺麗なふりをして、中身は汚いばっかりなんだもの。

 ――じゃあどんな人が好き?

 ――今日の遊びは、町娘ごっこ?

 支配者めいた顔も一瞬で、わたしが問えばすぐに表情は和らぐ。冗談めかして肩を竦めたわりに、真面目に思考をしてから、白い手袋は顎をなぞった。

 少しだけ――。

 間があった。強い意志を孕んだ赤い瞳が、長い睫毛の下に沈んで、形のいい唇から息が漏れる。

 その顔を見るたびに、姉が頑なに綺麗なものを望むのは、きっと自分が美しいからだと思う。わたしも、美しい姉の隣には、美しいものがあってほしいと望んでいる。

 だから、きっと。

 ――剣みたいな人が好き。鋭くて、冴えて、私の心を刺してくれるの。そういう綺麗な人がいいわ。

 その応答だって――少しくらいは予測していたはずだった。

 けれど、わたしは困惑する。剣が美しいだなんて、一度も思ったことがなかった。

 あれは人を刺すためのもので、人と争うためのものだ。

 口を開けずに視線をさまよわせるわたしを笑って、姉の手が頭を撫でる。手袋越しの温もりが優しくて、思考まで溶かしてしまう。

 ――だって汚いのは嫌だもの、人でも、そうでなくても。

 言い聞かせるように。

 言われてしまえば、わたしにはもう、返す言葉はなかった。優しい笑顔と掌に考えを預けて、目を閉じる。

 声にしたいことはたくさんあった。それなのに、もう何も出てこない。姉はわたしに考えさせないのがうまくて、子守歌めいた声で赤子に戻すのが得意だった。

 それでも。

 その日は一つだけ、言えたことがあった。

 ――刺さったら、痛いよ。

 誰だって嫌なはずだ。

 毒も、痛みも。

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