2
今度の大会に行くことは、いろいろな意義があるようだ。部室に戻ると、三つの盤で六人が対局をしていた。
美しい光景だと思った。
一人余った僕は、詰将棋の本を開いた。あの日と同じ、五手詰めの本だ。もう二周ぐらい解いたけれど、時間ができるとこの本を見たくなるのだ。いいことが起こりそうな気がする。
「将棋、好きなの?」
あの日の声が聞こえてくる。本の中で、波が揺らめき始めた。ついに、図面自体が海に見えるようになってきたようだ。
将棋という心地の良い海の中で、仲間たちと過ごす。僕は今、本当に幸せだと思った。
「あれ、早いっすね?」
「え」
寮の入り口で会った青田が、目を満丸くして僕のことを見ている。ただ図書館に寄ってからなのでいつもより遅いぐらいで、何のことやらだ。
「いや、さっき十字路で荷物持ってるの見かけましたよ。どこかに出かけるのかと思って」
「何言ってんの。ずっと学校いたよ」
「そうっすか……おかしいなあ。制服も着替えてたんで、あれって思ったんすよ」
「……」
そそっかしい青田のことだから、と思えなくもない。見間違いをしたのだろう、というのが常識的な線だ。ただ僕には昔からこういうことがたまにあって、原因が同じだとするとちょっと困った事態ということになる。
「まあ、俺の勘違いっすね。すいません」
「あのさ、そいつ……青い鞄じゃなかった? 丸い感じの」
「あ、そうそう、そうでした。あれ、やっぱり高嶺先輩だったんですか?」
「いや……俺じゃ、ない」
僕は携帯を取り出し、着信を確認する。連絡はない。いったいどうつもりなのかはわからないけれど、放っておくわけにもいかない。
「悪い、これあずかっといて」
「え、あ、はい」
青田に荷物を押し付け、僕は元来た道を引き返した。
食事を始めて十分。三人は空腹で仕方がないかのように、黙々と食べ続けていた。僕と崎原は、時折視線を上げて様子をうかがっていたが、風は決してこちらを向かなかった。
蜜さんにも連絡したのだが、こんな時に限ってパーマを当てているらしい。「明日まで秘密にしとこうと思ったのに」とちょっと不満そうだった。崎原に手伝ってもらい、何とか風を見つけたのはグラウンド横のドミトリーと呼ばれる安ホテル。玄関から覗くと、丁度風がチェックインするところだったらしい。
とりあえずここまで連れてきて、僕も合流した。何となく予想はしていたのだが、風の姿を見てため息をつくしかなかった。着ている服は黒いジャケット。僕のだ。家に置いてきたと思ったけれど、風は持ち出していたらしい。髪は短く刈られて、もみあげを少し長めに残している。僕と一緒だ。
昔から、時折風はこうなる。逆の場合もある。むしゃくしゃした時、切なくてどうしようもない時、色々なものを持ち出し、相手になりきろうとする。一瞬、自分の内にあるいやなことを忘れられるのだ。ただ、問題は何も解決しない。
「三人でこうやって話すの、初めてかも」
沈黙を破ったのは崎原だった。視線は窓の外だ。近くにバスターミナルがあり、大きな音を立てて古いバスが出入りするのが見える。
「そうかな」
「そう。不思議な感じ」
風はコップを両手でつかみ、そちらに視線を落としている。僕と崎原を前にして、恥ずかしさがこみ上げてきたのかもしれない。しかし恥ずかしいのはこちらも同じだ。自分が目の前にいるようなものなのだから。
「風……明日はどうするのさ」
「……」
風は唇を噛んでいる。宿をとっていたということは、明日もこちらにいるつもりということだ。
「学校はどうするの?」
「……辞めたい」
「じゃあ、辞めるか」
僕の言葉に、唇を曲げて鼻をひくつかせる風。止めてほしいに決まっているのだ。
「明日……遊びに行こうか」
崎原の言葉に、僕も首を曲げてしばらく凝視していた。おそらくおんなじ顔で二人、目を満丸くしていることだろう。
「崎原、何で……」
「風君、嫌なの?」
「そ、そんなことはないけど」
「だいたい風君は最初からサボるつもりだったんでしょ。私がサボれないなんてずるい」
「いや、そう言われても……」
「じゃあ俺も」
「了君はダメ」
「え」
「ややこしくなるから」
何も言えなくなった。崎原の強い意志が感じられたからだ。僕の知らない、二人の間だけでわかる感情というものがあるのかもしれない。
「いいよね、風君?」
「……わかった」
少しだけ、風の顔がゆるんだ。それは、僕には似ていない表情だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます