8

 部室に入ると、すでに唐澤さんは着座していた。僕より先に来ているのは初めてだ。テーブルの上には扇子とハンカチ。僕と目が合っても、表情一つ変えなかった。

 奥には胡屋さんが。小刻みに揺れて、そわそわしているように見える。この対局に秋の団体戦がかかっているのだから、まあ当然かも知れない。

「来たのか」

 唐澤さんの声はいつもより低く、ゆっくりとしていた。万が一にも負けられない、という思いが伝わってくる。そしてその思いは、たぶん強くなる。

「蜜さん」

「はい」

 僕に呼ばれて、姿を現した制服の女性。蜜さんの方が崎原よりも背が高かったので、少し膝が出てしまっているが、それ以外はまったく違和感がなかった。伸びた髪はおさげに結っているので、僕の知っている印象とは随分違うけれど、この高校ではよく見かける感じだ。ただ、白く透き通った肌は、相変わらずすごく目立つ。

「前川蜜です」

 蜜さんは、深々とお辞儀をした。わざとまじめな姿を装っているのかと思ったけれど、顔を見る限り至って真剣そうだ。将棋をする空間が、そうさせるのかもしれない。

「高嶺、その子は……」

 胡屋さんが目を丸くして聞く。答えの予想はついてるのだろうが、いろいろと予想外のことがあったのだろう。

「彼女が、将棋の強い子です」

「唐澤です」

 唐澤さんは立ち上がり、軽く頭を下げた。いろいろと思うことがあるだろうが、そんなことは全く表に出していない。さすがだ。

「話は聞いています。その……とにかく、勝負してみましょう」

「そうだね」

 蜜さんは唐澤さんの前に座ると、鞄から扇子を取り出した。唐澤さんの視線が一瞬だけそちらに注がれた。

「じゃあ、振り駒するよ」

 胡屋さんが唐澤さんの歩を拾うのを見て、蜜さんはにやりと笑った。そう、蜜さんはただ将棋が強いと噂の人に過ぎない。この部屋の中では、一番下手(したて)なのだ。

 テーブルの上に歩が四枚出た。唐澤さんの先手だ。

「持ち時間は10分の30秒、いいかな」

「はい」

「では、お願いします」

「よろしくお願いします」

 しばらくの静寂の後、初手7六歩。蜜さんも少し間を置いて、二手目3四歩。僕は胡屋さんの横に腰掛けて、対局を見守る。

 練習将棋の雰囲気はない。まるでこの勝負が何かの試験であるかのような、神聖な雰囲気。特に蜜さんにとっては、何も背負うものなどないのだ。しかししばらくぶりの強豪との対決に、秘めた思いは強いに違いない。

 二人は将棋が強いだけではない。将棋が大事な人たちなのだ、と思う。蜜さんは奨励会を続けられなかったことを後悔している。将棋を嫌いにならなかったのに、プロになることを断念せざるを得なかったのは本当に悔しかっただろう。あの島に来てから、僕に指導するときだけが、将棋と関われる時間だった。それすらも非常に楽しみにしているようだったのだ、本気で強い相手と指せるとなれば、喜びも格別なのではないか。ただ、勝負に対する恐怖はぬぐえているだろうか。

 蜜さんは五筋に飛車を振り、歩をどんどん伸ばして言っている。そういえば平手の将棋というのは見たことがなくて、どんな戦型を選ぶのかも知らなかった。これは確か、ゴキゲン中飛車というものだ。

 対する唐澤さんは王将を香車の下に潜り込ませて、徹底的に守備を固めている。穴熊だ。なかなか寄せられない代わりに、守備的な戦法なので攻め駒不足が心配される。僕なんかが指すといつも圧敗してしまうけれど、唐澤さんのことだからうまく指しこなすことだろう。

 中盤になり、唐澤さんが時間を使って考えている。そして蜜さんは扇子を広げ、大きく仰ぎだした。そこには、太く力強い字で「飛躍」と書かれていた。名前も書かれていたが、崩れすぎていて「九段」しか読み取ることができなかった。

 細くて白い蜜さんが、大きく見えた。風格というものだろうか。蜜さんは常に上を上を目指して、強豪たちと切磋琢磨していたのだ。唐澤さんを恐れる理由などないのだろう。

 唐澤さんの表情は、だんだんと強張ってきているように見える。県で一番になって、次は全国を目指そうという時に現れた女性。性格からして、自分より強いなんてことはないと思っていたに違いない。でも蜜さんの指し手は淀みがなく、全く隙を見せていない。チェスクロックを押す手つきも慣れていて、それだけ見ても「そこら辺にいる強い人」でないことはわかるかもしれない。

 唐澤さんの持ち時間が無くなり、秒読みに入った。駒組みは終わっていて、あとはどこで駒がぶつかるか、という局面だ。先手の唐澤さんはとにかく固いので、細くてもつないでいけば有利になりやすい。蜜さんの方はバランスの良い陣形で、攻め込まれても逃げる場所が多いのが強みだろうか。

 20秒を過ぎ、電子音が指し手を急かす。唐澤さんは少々あわてた手つきで、飛車先の歩を突いた。これは取る一手。こうなるともう後には引けない。

 蜜さんの方はまだ三分ほど持ち時間が残っている。扇子を閉じて、テーブルの上に置く。そして空いた左手で、口を覆う。思考が呟きとして漏れるのを、防いでいるかのようだった。

 さらに歩を突き上げ、駒を交換していこうとする唐澤さん。それをかわしながら、端攻めを見せてさらに相手を焦らせる蜜さん。やはり、蜜さんの方がより戦い慣れている印象だ。

 ただ、唐澤さんの攻めも相当に力がこもっている。とにかく一点でも突破すれば、穴熊ペースになりやすいのだ。少しぐらい駒を損してもいい。そのような攻め方は「穴熊の暴力」と言われることもある。

 蜜さんも秒読みに入った。局面が進むスピードが速くなり、見ているこちらも余裕がなくなってくる。胡屋さんも熱中しているようで、対局しているときのような震えはまったく見られない。この人も、将棋が大好きなのだ。

 香車を捨て、角を切って、なんとか唐澤さんが龍を作ることに成功した。駒損は大きいけれど、この龍が拠点となって攻めていければ相当手は続きそうだ。ただ、蜜さんにあわてた様子はない。優勢を意識しているのだろう、じっくりと局面を見て、25秒ぐらいで余裕をもって着手する。まず、飛車を龍にぶつける。せっかく作った龍なので交換できず、唐澤さんの龍は逃げる。そしてその龍あたりに角を打つ。この角は遠く穴熊の玉もにらんでいる。唐澤さんはやむを得ず龍を自陣に引き上げる。これは辛い。ただ、龍を引いたことにより唐澤さんの陣はさらに固くなった。反撃しようにも、そのとっかかりが見えない。

「ふうん」

 おそらく対局が始まってから、初めて漏れ出た声。蜜さんは盤面の端から端まで見て、そして9九の、玉将のそばにある香車を持ち上げた。そして、一マスだけ前に進める。すぐには意味が分からなかったが、それまでの手との関連を考えるとわかってきた。次に飛車の横の金を上がり、香車がいたところに飛車を持ってこようというのだ。そうすれば打った角と合わせて、端攻めがより有効になる。実現までに数手がかかるので見えにくいけど、龍を引き上げた先手にはその間に有効な攻めがないと見ているのだ。

 唐澤さんの顔が紅潮し始めた。相手の狙いはわかっている。けれども防ぐ手段がなさそう。将棋が強いことに誇りを持っている唐澤さんにとって、こんなに屈辱的な状況はないだろう。ただ、あきらめてはいない。唇をかんで、膝を叩き、必死に考えているのがわかる。

 6六歩。ひねり出されたのは、中空に歩を置く予想外の手だった。これは角でただ取りすることができる。真意はどこか……としばらく考えて分かった。同角ならば6八龍と回って、角取りにしつつ再び龍を攻めに参加させようという手なのだ。よくこんな手を思いつくものだ。この人たちは、まるで違う次元で将棋をしている。

 かっこいいと思った。二人とも、すごく憧れる。すごい努力をして、ここまで来たのだろう。負けたくないだけではないのだ。負けられないだけの積み重ねがあるのだ。

 駒が激しくぶつかり、終盤に突入した。唐澤さんは受けの手も織り交ぜて、必死にあやを作ろうとする。でも、蜜さんは崩れない。急がずに、それでも急所を突く手で、唐澤さんの穴熊を崩していく。

 盤を覆うようにして前傾姿勢で必死に読みふける唐澤さん。それに対し蜜さんは、背筋をぴんと伸ばして、顎を引いて盤面を見つめていた。その姿はとても美しい。こんなに神聖なものを、今まで僕は独占していたのかと思うと震えてくる。

 端攻めから逃れるため駒をばらけさせようとする唐澤さん。右側に逃れられれば、しばらくは詰みから逃れられるだろう。しかし蜜さんはそれを鮮やかに阻止した。動いた駒を強引に引き戻す金のただ捨て。駒は損するが、逃げるスペースをなくしている。そして、端攻めが切れる心配はない。

「負け……ました」

 その手を見て、唐澤さんは駒台に手を置いた。まだ詰みまでには時間がかかりそうだが、逆転の余地はない。美しく終わりたい、ということだろう。

「ありがとうございました」

「すごい……」

 思わず胡屋さんが声を漏らした。今まで必死に抑えていただろう。僕も同じ気持ちだった。僕らは唐澤さんの勝つ姿しか見てこなかった。まるで別次元の存在だったのだ。蜜さんのことを信じてはいた……けれど、僕は正直、次元の違う人たちの強さの違いなんて分からないのだ。そして、蜜さんは強かった。本当に強かった。奨励会にはもっと強い人がいて、プロはさらに強いという。将棋はどこまで奥が深いのだろう。

「前川さん……は、こんなに強いのになぜ大会とか出ないのかな」

 唐澤さんは、まっすぐに蜜さんを見据えている。この狭い地域の中で、同年代にこんなに強い人がいれば小さい頃から知っているのが普通というものだろう。唐澤さんは必死に頭の引き出しから、蜜さんの記憶を探そうとしているのかもしれない。

「了君……言っていい?」

「あ……うん」

 蜜さんは、小さく何回か頷いた。

「だましてごめん。私、ここの生徒じゃないの」

「え」

「なんだって」

 唐澤さんは目が点になり、胡屋さんは思わず立ち上がった。

「去年こっちに来たんだよね。それで了君に会って……。私、奨励会にいたの」

「なるほど。強いわけだ」

「あなたも強かった。想像していたより」

「それはどうも」

「私……来年ここに来るつもりだから。その時はまた、よろしく」

「本当に?」

 胡屋さんは蜜さんの前まで行って、拝まんばかりの勢いだった。蜜さんが入部すれば、戦力アップはもちろん、他の部員もかなり鍛えられるだろう。

「……てことは、秋の大会はどうすりゃいいんだろうね、胡屋君」

「え……どうなるんだろう」

「あの」

「どうした、高嶺」

「知り合いの子が今度見に来てみようかって言ってます。将棋のことは全く知らないけど、他にもそういう人いるかもしれないし、出れるならやっぱり出ましょうよ」

「まったく、俺のことだましといて悪びれない奴だなあ。お前、結構悪党だと思うよ」

「確かに了君、ちょっとずるいところあるかも」

「え、蜜さんまで」

「いいなあ、仲よさそうだなあ」

 部室の中に、明るさが溢れだした。この感じだ。これが、楽しい部活動というものだろう。蜜さんは今日中に島に帰らなければならないけれど、春になったらきっとここに戻ってくる。そして予想だが、その時蜜さんに勝つために、唐澤さんは今よりも将棋に熱中するだろう。

「船の時間あるから帰らなくちゃ」

「送るよ」

「勝ち逃げなしで。また」

「ぜひ合格してね」

 二人に手を振り、僕らは部室を出た。

「どうだった」

「楽しかった」

「それは良かった」

「唐澤君……伸びしろあるね」

「まだ強くなれるの?」

「まだまだ。私も、了君も。まだまーだ強くなれる」

「そっか」

 冷静になって見てみると、制服姿の蜜さんはとても眩しい。来年になれば、毎日のようにこうして並んで歩けるのだろうか。

「どうしたの」

「変な感じだなと思って」

「変?」

「蜜さんと島の外で、こうして並んで歩いて。制服着てるし」

「もともと着てたんだよ。あ、でもこっちの方がいいかも」

「返しに行かなきゃね」

「ね。……了君さ」

「ん?」

「信じてるからね」

「え?」

「待っててね」

「うん。試験、頑張ってね」

「うん。決心の問題だから。成績はね、大丈夫、のはず」

 潮のにおいが鼻を突く。懐かしい感じだった。故郷の島から、風が運んできたのかもしれない。

「やめたっていいんだよ。蜜さんが選ぶなら、僕は何でも応援するよ」

「ありがとう」

 崎原のいる寮の玄関に着いた。ここからは海が見える。

「あのさ、海に将棋盤が見えることがあるんだよね」

「そうなんだ」

「昔の海戦を想像してさ。蜜さんはそういうことない?」

「うーん。あんまりないかなあ。了君は私よりロマンチストなのかもね」

 蜜さんはまた、海を越えて戻ってしまう。けれども、僕らの間には絆ができていると思う。唐澤さんだけではない。僕も次に会う時までに、もっと蜜さんに近付いていたい。

「そうなのかなあ」

「そうだよ。じゃあ、ちょっと待っててね」

 僕は女子寮に入れないので、ここで待つことになる。制服を着た蜜さんの後姿。もし高校であんなに素敵な先輩に出会っても、僕は声をかけることすらできなかっただろう。もし……もし勝負を続けていたとしても、遠い世界の綺麗な奨励会員としか認識しなかっただろう。偶然が、僕らを引き合わせた。そして、お互いにとって必要な存在になった。

「ありがとう」

 すでに見えなくなった蜜さんに、そして将棋に、言った。潮のにおいは、消えていた。

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