3

 その光景は、聞きしに勝る。

 会場はとある高校の食堂で、今日もそのまま営業するのだとか。まあそれはともかく。

 ここは、男子高校生の卸売市場か。いや、市場とか見たことないけど。

 ずらっと並ぶ男子高生たち。制服こそ違うものの、みんな同じに見えてしまう。中には女の子もいるけれど、本当に一握りだ。

「どうだ、高嶺」

「本当に……男ばかりですね」

「そこかよ」

「え」

「こう、なんかいいだろ。勝負の世界って感じ」

「言われてみれば……」

 今まで何かの競技に参加するということもなかったので、これだけの人が一つのことに熱中するというのは確かに初めて見る。

「言うことは一丁前だな」

 唐澤さんはついさっきふらっと現れた。制服も着ておらず、上はジージャン、下はカーゴパンツという何とも浮いた格好である。

「いいじゃないか、別に」

「いいか、高嶺は未知数なんだ。勝負はお前次第」

「あ、ああ」

 明らかに一番緊張しているのは胡屋さんだ。動きが硬くて、それでいてふらふらと揺れている。喋るときも少し舌が空回り気味だ。

「ちなみに予選は確実に俺全勝だから。チームが負けるときは、わかるな」

 唐澤さんはポケットに手を突っ込んだまま、予選の組み合わせ表を見ている。僕はまったくどの学校が強いのか知らないが、胡屋さんによれば「やっぱり厳しい組み合わせ」らしい。それはつまり、僕も胡屋さんもなかなか勝てそうにない、ということだ。

「大丈夫、去年の俺とは違うよ」

「そんなんで何とかなればいいけど」

 開会のあいさつが終わり、ついに競技が始まることになった。指定されたテーブルに移動し、大将から並ぶ。僕らのチームは胡屋さん、唐澤さん、僕の順だ。

「……お前」

 相手チームは南部の高校で、将棋部のことはおろか詳しいことは何も知らなかった。でも、唐澤さんは向かいに座った相手に目を丸くしている。

「お久しぶりです、唐澤さん」

「まだやってたのか」

 ひょろっとしていて、鼻の高さが目立つ青年。表情をほとんど変えずに、口だけで喋る感じだ。

「高校入って、再開しました。他にすることもないし」

「……そうか」

 それ以上、会話はなかった。そして振り駒で先後が決まり、胡屋さんと僕は後手、唐澤さんが先手ということになった。

「それでは、準備ができたところから始めてください」

 会場全体に、「お願いします」の大合唱が響き渡った。ああ、これか、と思った。体の底から、ぞくぞくしたものが湧きあがってきた。怖さとか楽しさとか、そういうものがごちゃ混ぜになった感情。

 僕の相手は恰幅のいい、動きの機敏な人だった。初手を指す手つきも百人一首をしているかのような素早さだった。そして僕が角道を開けるなり、太い腕がこちらににゅっと伸びてきて、僕の角をむしり取った。いきなりの角交換だ。そしてその角を、歩の両取りの位置に置く。見たことのない序盤だった。

 隣では唐澤さんがうなっている。今まで見たことのない様子だった。局面は見る限り互角。知り合いのようだし、相手が強いことがわかっていて真剣になっているのだろう。いや、きっと勝負が始まってしまえばこの人は真剣なのだ。

 僕の方は、わけのわからない局面になっている。とりあえず角が成られないように注意しながら指していたら、相手は飛車を振ってきた。どう指していいのか方針が全く分からない。そして持ち時間はどんどん減っていく。

 唐澤さんは絶対勝つと言っていたけれど、それは相手がもっと格下だと予想していたからだろう。胡屋さんは現状僕より弱いわけだし、あの緊張具合だし、大将で勝つというのは期待しない方がいいだろう。僕が負けたらシャレにならない。棋力にそう開きはなさそうだし、局面もまだそんなに悪くはなっていない。勝たないと、勝たないと、勝たないと……

 気が付くと、相手の攻めが受けきれなくなっていた。指先が凍えたように動かなくなる。次の一手を指したくない。もう、一直線に負けへと進み始めている。隣ではまだ唐澤さんが難解な局面を、うなりながら戦っている。今僕が負ければ、チームの負けはかなり濃厚になってしまう。せめて、負けを伸ばさなければ。

 もう、詰み筋に入っている。それでも時間いっぱい使って、考えているふりをした。何度確認しても詰んでいる。詰んでいるけれど、投げられない。個人戦ならとっくに終わっている勝負を、続けなければならない苦痛……

「負けました」

 それでも、永遠には続かない。きっちりと最後まで詰まされて、僕は頭を下げた。

 局面を見ると、完敗だ。作戦の選択から何から、ずっと相手の思惑通りだっただろう。悔しい。本当に悔しい。

 立ち上がって見てみると、胡屋さんもがっくりとうなだれていた。結果は聞くまでもない。

 チームの負けは確定している。それでも、唐澤さんの勝負は続いている。どちらの陣形も乱れていて、急所のわかりにくい難解な終盤に見える。唐澤さんは人差し指で何回もテーブルを打ち付け、読みを確認しているようだった。相手もひょうひょうとしたままのようでいて、時折舌打ちをしていた。

 実力があるということは、こういうことなのだろうか。ただ読みが深いとか、知識が豊富とかだけではなく、勝負に対する執念があるということ。それが強さなのか。

 他の対局も続々と終っている。いつの間にか唐澤さんの対局には人だかりができていた。そういえば、強い人同士の将棋を間近に見るのはこれが初めてかもしれない。迫力が違うし、熱量も違う。アマチュアでこれだけのものが見られるのだから、プロならどれほどのものなのか。蜜さんは、そんな舞台で戦っていたのか、と今さらながらに思う。

 とても長い時間が過ぎたように思える。どれがいい手だったとか、そんなことはまったくわからない。ただ、頭を下げたのは相手の方だった。唐澤さんが勝ったのだ。

「やっぱり、鈍ってるな」

「はは。初めて負けましたかね」

 二人の会話はそれだけだった。そして唐澤さんは左右を確認して、小さく頷いた。

「あの……」

 唐澤さんは、胡屋さんの肩を叩いて言葉を遮った。

「言っただろ。俺は勝つ。お前らの負けなんて想定内だ。あいつが副将で出てきた以上、こっちにとっては一番いい当たりだった。それでも勝てなかった。そういうことだ」

「あの人はどういう人なんですか?」

「……小学生の頃のライバル、かな。高嶺と同じ学年だ。プロを目指すって言ってたけど奨励会に落ちて……そのあとは見かけなくなった。やめたと思ってたよ」

「その……どうでした?」

「何が?」

「昔より強くなってましたか? その……唐澤さんも当時よりは強いでしょうし」

「……まあ、なあ。総合的には、かね。勉強を続けていたのはわかったよ。感覚的な鋭さとかは変わんないかね」

「そうですか……」

 思い浮かべているのは、もちろん蜜さんのことだ。

 プロを目指して挫折して、それでも再び勝負の世界に戻ってくる人がいる。そしてずっと将棋を続けていた昔のライバルに負けて、再びあの人は情熱を燃やすのではないだろうか。将棋に一度憑りつかれた人は、簡単にそれを追い払うことなんてできないに違いない。

 僕の中にも今、悔しさだけでない何かが生まれようとしているのがわかる。将棋はただの盤上ゲームではない。まるでそれ自体が生き物であるかのように、こちらを魅了してくる。たとえ負けたとしても、そこにはよくわからない心地よさがある。

 あの日、詰将棋を解くのをさっと見つけて、蜜さんは語りかけてきた。将棋そのものが敵ならば、そんなことはしなかったはずだ。何度も僕に将棋を教えてくれた。その姿は、美しかった。蜜さんには、将棋が似合う。

「おい、次あるぞ」

「あ、はい」

 いつの間にか、唐澤さんが僕らを引っ張る立場になっていた。第二戦のため、僕らは慌ただしく移動する。

「おい、胡屋。負けて当たり前の相手に負けてへこんでる場合か。次こそ勝負だろう」

「あ、ああ」

「高嶺はまあきついだろうが、負けたら胡屋のせいだから。やれるだけやればいいさ」

「はい」

 次の相手は少し雰囲気が違った。三人ともちょこんとおとなしく椅子に座っていて、闘志というものが感じられない。先ほど表を見た限り一戦目は2‐1で勝っていたので、弱いというわけではないだろうけど。

 僕らも席に着く。胡屋さんの顔はもはや青白くなっている。唐澤さんはきりりとしてきており、なんだかかっこいい。

 今度は胡屋さんと僕が先手になった。挨拶が終わり、対局が始まる。先ほどのことがちらりと脳裏をかすめ、僕は飛車先の歩を突いた。これですぐに角交換されることはない。相手は角道を空け、飛車を振ってきた。オーソドックスな居飛車対四間飛車だ。とりあえず安心した。

 唐澤さんはじっくりとした相矢倉になっている。こちらもよく見る形で、すぐにどうこうということはなさそうだ。

 とても落ち着いている。たぶん先ほどの唐澤さんの姿を見て、信頼できると思ったからだろう。普段は部活にも来なくて、態度もぶっきらぼうだけど、一度対局を始めてしまえばどこまでもまっすぐなのだ。勝つと言ったら勝つ。そういう人なのだと思った。

 僕は左美濃を目指す。いろいろと試してみたのだけれど、王将の上にちょこんと乗っかるこの囲いが僕は好きなのだ。そして相手が比較的何も考えず組み上げてきたので、僕は右側の銀を繰り出して攻めていった。面白いほどにうまく攻めが決まる。このまま何事もなければ、負けはしない。

 それでも持ち時間が減っていくと焦り始める。将棋は詰まされたら負けのゲームで、ちょっとした読み抜けも致命傷になりかねない。だから、気を抜いてはいけない。それでもすでにこれは二局目で、神経がすり減っているのがわかる。必死に追いかけてくる犬から逃げているときのようだ。もう少しでゴール。もう少しで……

「負けました」

 その声を聞いたとき、体中の筋肉が一瞬でゆるんだような気がした。全身で戦っていたのだ。そして、一周遅れて喜びの感情が湧きあがってくる。将棋部員として、団体戦で一勝したのだ。初めて、公式な場で勝利できたのだ。

「負け……ました」

 そして連鎖反応のように、隣からも投了の声が聞こえた。唐澤さんの声ではなかった。

「延命したな。次勝てば決勝トーナメントあるな」

「はい」

 そして数分後、胡屋さんは頭を下げ、そのままの姿勢で固まってしまった。

「ありゃ、相当参ってるな。先に飯食おう」

「え、でも……」

「飯食った後は血が頭に行かないんだよ。早めに食って消化するのがいい」

「胡屋さんは……」

「自分でどうするか考えさせるさ。慰めたって急には将棋は強くならない。あいつが頑張るって言ったんだから、頑張り方はあいつに見せてもらわんとな」

 対局は全て終わったようで、選手たちが食券を買うために並び始めた。唐澤さんもそこへと向かう。その背中を、僕も黙って追った。

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