7

「そうだね……慣れてはきたかな。うん。将棋部、あったよ。……強い人は、まだわからない。いるみたいだけど。……大会があるって。団体戦。……わかった。ありがとう。……うん、おやすみなさい」

 携帯電話を置いて、窓の外を見る。ほとんど雲が出ていないようで、たくさんの星がきらめいていた。

 蜜さんは、電話の向こうで元気そうな声を出していた。もともとそんな声を出さない人だから、元気じゃないんだろうと思った。

 今日は何というか、感情をうまく整理できない一日だった。予想とは違う将棋部の実態。予想しなかった崎原の迷い。そして予想通りの蜜さんへの心配。いろいろなことがぐるぐるとまわって、一回思考停止を選んでしまう。

 曖昧なんだろう、と思った。僕はいっつも、はっきりとしたものを持っていない。将来のことも今のことも、ほどほどの気持で眺めているだけだ。高校に行きたかったわけじゃないけど、何となく来てしまった。せめて楽しむために将棋部に行ってみて、そんなに悪くもないかもと思って。

 このまま三年過ごしてしまうのだろうか。特に勉強したいわけでもない。この土地が好きなわけでもない。ただ流されるようにここまで来てしまった。三年後、もう一度何かしら決断しなければならない。そのとき僕は、答えを見つけているだろうか。

 僕がはっきりと願うことは、「将棋が強くなりたい」ぐらいしかない。それでもないよりはましか。いつかは蜜さんと平手でいい勝負をしたい。そのためにはとてつもなく強くならなければいけないけど、不可能とは思いたくない。

 不意に携帯電話の画面を見て、はっとした。そこには牛の赤ん坊の写真が。ただ試しに撮ったもので、少しぶれていた。他に全然撮らなかったのでこれにしたのだが、蜜さんを撮ればよかったのだ。たぶん僕には、そうすべき理由がたくさんあった。ただ、それを思いつくような関係じゃない気もする。

 じゃあ、具体的にはどういう関係なのだろう。

 僕らは大事な手順を踏まずに、あいまいなままで離れてしまった気がする。そしてそれが、僕らの真実を映しているようにも感じる。僕はあまりにものんきで、蜜さんはあまりにも繊細だ。けれどもいつかは、しっかりとした接点を持たないといけない。

 ゴールデンウィークには島に戻ろう。宿が忙しいかもしれないけど、将棋を指してもらおう。今のところ、それが最善の、そして唯一の確認方法だ。



「あのさあ、高嶺君」

「はい」

「将棋部員なのにさあ……ひどいよね」

「はい?」

「彼女」

 高校生活は、特に波乱もなく始まった。そこそこ友達もできて、火曜・木曜は部活に来て。寮での暮らしもそんなに苦にならない。

「彼女って……」

 蜜さんのことが頭に浮かんだが、胡屋さんが知っているはずもない。

「一緒にいるところ見ちゃった」

「……ああ」

「付き合ってるんでしょ」

「ないですよ」

 一緒にいると言えば、考えられるのは崎原だけだ。彼女とは一緒に買い物したりもしているし、はたから見れば勘違いされても仕方ないかもしれない。

「本当に?」

「島に彼女いますから」

「……絶望した」

 胡屋さんには彼女がいないらしい。というか、将棋部員には普通いないらしい。本当だろうか。

「胡屋さんは作ろうと思わないんですか」

「そう思った時は別の部活に入るね」

「クラスにも女の子はいるじゃないですか」

「いいかい、この世は競争社会だからね。君はまあ、ちょっとかわいい感じだしね、もてるだろうさ。でも俺なんか、何にも目立つところがない」

 言われてみればいたって普通の顔で、特に惹かれるところとかなさそうだ。趣味が将棋というのも、確かにもてる要素ではない。

「大会には、女の子は来ないんですか」

「……来るよ。数人はね」

「数人、ですか……」

 男社会とは聞いていたけれど、それほど少ないとは思わなかった。何せ僕はずっと女性と将棋を指していたのだ。蜜さんはそんな男社会に、プロになるべく飛び込んで行ったのだ。本当に大変だったろうと思う。

「俺は中学からやってるけどね……本当に男臭い世界だ」

「ううむ……」

 ちなみにそんなことを言っている間にも将棋は進行中で、僕の方が有利な局面である。僕と胡屋さんの力の差はわずかだけど、今のところ僕の連勝。定跡は胡屋さんの方が知っているのだが、中盤のねじり合いは僕の方が得意みたいだ。駒落ちの経験が生きている。

「負けました……」

 そして、気が付くと胡屋さんの王将は逃げ場がなくなっていた。まだ受けがあると思っていたのだが、どうやら必至のようだ。ちなみに必至というのはどう対処しても次には詰んでしまう状態で、蜜さんに教わった。

「ありがとうございました」

「うーん、もうちょっとなんだけどなあ」

「なにがもうちょっとだって?」

 聞き慣れない低い声は、入口の方から聞こえてきた。すっと背の高い、サメのような眼をした男が立っていた。先生かと思ったけれど、首から下は僕らと同じ制服を着ている。

「あ、唐澤」

「本借りに来ただけ~」

 唐澤、と呼ばれたその人は本棚の前まで来て、指さしながらぶつぶつとつぶやきだした。

「ちょ、せっかく来たんだしさ。新入生も入ったんだよ」

「え、めんどくせー。団体戦出るとか言い出すんだろ」

「当然じゃないか」

「先輩いても勝てなかったのに、お前と俺だけでどうやって勝つんだよ」

「いやいや、この子、俺より強いんだ」

 振り返った唐澤さんは、ずかずかとこちらに歩いてきて胡屋さんの肩を押した。席を替われということらしい。

「20秒な」

「頑張れよ」

 目の前に座った唐澤さんは、威圧感たっぷりだった。ちらりとのぞく八重歯は、肉食獣をも連想させる。駒を並べる指は、細くて長い。そして、鋭角に動く。

「名前は」

「高嶺了です」

「聞いたことないな。段位は」

「持ってないです」

「ふうん。まあいいや。始めようか」

 唐澤さんは駒を一枚だけ振った。歩が出て表、僕は後手だ。

「はい、よろしく」

「お願いします」

 僕がチェスクロックを押し、唐澤さんが角道を開ける。すらすらと唐澤さんの四間飛車、僕の左美濃に組みあがっていく。まだ時計というものに慣れていないので、時間が切れないように早めに指すことを心掛けた。

「そういう人ね……」

 唐澤さんは考えている間、テーブルを人差し指でたたく。リズムをとっているかのようだ。そして時折つぶやく。思考が体から漏れ出すタイプのようだ。

「ふうん」

 駒組みも飽和状態で、あとはいつ仕掛けるか、という段階に。仕掛ける権利はこちら側にある。けれども攻める駒が少ないので、組み合わせをよく考えないといけない。が、20秒はあまりにも短い。僕は決心を決めて、飛車先を突いていった。

「なんかさ……変な感じ」

「え」

「不器用。でも、いい手つきだ」

 攻めてはみたものの、丁寧に受けられて後続手がない。悪くなったというわけではないけれど、これは焦る。何かないかと思っているうちに、ピッピッピッとチェスクロックの電子音が急かす。

 思わず声が出そうになった。指した瞬間に悪手だとわかった。攻めを押し返されて、部分的にどうしようもなくなっている。それでも必死に、最善の粘りを探す。自陣は堅いので、差を広げないようにすればチャンスもあるはずだ。

 ……なかった。

 唐澤さんは丁寧に駒を押し上げ続け、と金を作り、僕の駒を着実に押し込んでいった。玉側には一切手を付けない。

「どう思う、胡屋」

「え、俺?」

「これが、お前より強い将棋だ」

「……」

 結局、本格的に攻められ始めたら受けるすべがなかった。

「負けました……」

「うん。わかった」

 唐澤さんは僕が悪手を指した地点を指さした。

「この手がマイナス10点。他は100点でも負ける手。オッケ?」

「……はい」

「あと、組み方が雑。今回は見送ったけど、悪くなる箇所あるから。棋譜並べとかしてないのが丸わかり。まあでも悪くなってからはいい。胡屋は勝手に自爆するから」

「はは」

「でさ、笑ってるけどこの三人で出てどうなると思ってるの?」

「いや……出てみないとわからないじゃん」

「俺が一勝確定。で、もう一勝はどっちが勝つわけ? 俺が三番手と当ったら必敗。困ったねえ」

「……」

 胡屋さんは黙り込んでしまった。団体戦のレベルというのはわからないけど、今のままでは相当厳しいようだ。ただ。

「あの……」

「ん?」

「その……僕は出たいです。いろんな人と指して強くなりたいから」

「……あー。そういう言い方されると困るな。反論しにくい」

「いいこと言ったぞ、高嶺君」

「ただね、もとはと言えば胡屋にも責任あるぜ。あんなにいい先輩たちいたのに頑張りきれなかった。Aチーム入るぞって気概見えなかったもんな。同期がやめようとしてるときだって止めなかったしさ。今になって運よく三人目が入部しました、大会出ましょうよ、って俺に言うのはなんか違うんじゃね?」

「……」

「ま、高嶺に免じて出るのは出るよ。ただ、お前大将な。俺副将。それが条件」

「……わかった」

「じゃ俺今日は本借りて帰るから。大会までにできることしとけよ」

 唐澤さんは立ち上がると、本棚から二冊の本を抜き取って部屋を出ていった。

「相変わらずきついなあ、唐澤は」

「昔からなんですか」

「ああ。先輩にも容赦なかった。まあ実際一番強いし、家では相当勉強してるみたい」

「そうなんですか……」

 たぶん唐澤さんは、蜜さんほどには強くない。ただ、今も強くなり続けている途上だということはわかる。上を向いている人のストイックさというものが、何となく感じられた。それゆえ弱い人間と指す時間を惜しいと感じてしまうのかもしれない。

「それに最初から個人戦は出るつもりだったみたいだし。去年は準優勝だったんだ。負けた時の顔、本当に悔しそうだった。一年で決勝に行けただけですごいのにね……」

 僕にはまだわからない世界が待っているのだ、そう思った。本当に強い人たちが、鎬を削る世界。

 どこまで行けるかわからないけれど、僕もそこに近づいてみたい。蜜さんが挫折した世界が、僕にはどのように見えるのか確かめてみたい。

「頑張りましょう、先輩。できるだけのことはします」

「そうだね。今からでもやれることはしよう」

 これが部活動なのか、と思った。そして、楽しい。


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