6

「あ、了君」

 校門の前、俯いていた崎原。僕に気が付いて顎を上げたが、元気そうには見えなかった。

「どうだった」

「うん……そうだなあ」

 崎原は言葉を探しつつ、歩き始めた。僕も、左に並んで歩く。

「なんか大変そう」

「練習が?」

「そうね……練習も」

「人付き合い?」

「うん……なんていうか、さ。わかんなくなってくる。速くなりたいから陸上部に入りたかったけど、陸上部に入って速くなりたかったわけじゃんないし……わかる?」

「なんとなく」

 僕らにとって、部活に入ってみんなで頑張る、というのはあまり縁のない話だった。学校にクラブはあったけれど、そんなにバリバリがんばっているところはなかったと思う。さっきだって団体戦をするというだけで僕は驚いてしまったぐらいだ。

「まだ引きずってるのかも。でも……吹っ切らなきゃね」

 ちらりと横顔を見る。走っているときのような力強さは、完全になりをひそめている。けれども、今の崎原はかわいいと思った。前向きと後ろ向きに揺れる心。いつもは隠しているものが出てきていて、艶めかしいとすら感じる。

「まあ、別にどうしなきゃいけないってこともないしさ。気楽に行こうよ」

「そうだね……了君は? 何か入るの」

「うん。たぶん。将棋部にね」

「そっか。将棋好きだもんね」

 二人は、寮のある方に向かっている。何も聞いていないけれど、崎原も寮に住んでいるのだろう。

「やっぱり……」

「ん?」

 しかし、もう少し、というところで崎原は足を止めた。

「ちょっと、海見たい」

 崎原の視線は左……海岸の方に向いていた。住宅が邪魔して見えないけれど、その先には整備されたビーチがある。

「海?」

「なんかさ……ここって、海が足りない感じしない?」

「ああ……そうだね」

 海が遠いわけではない。けれども、島での生活ほど海が密着しているという感じがしない。波の音も、潮の香りも、ここではありのままでは触れられないものなのだ。

「いいかな」

「俺も、行きたくなったよ」

 二人で左折して、ビーチを目指す。狭い道を抜け、市役所の横に。そして道を渡り、公園を横切ると白い砂浜だ。僕らの島のビーチより広いし、綺麗だし、オブジェなんかもあって豪華だ。ただその分、海そのものの良さを味わうには物足りない気もする。

「あ、見えるね」

「ほんとだ」

 小さいけれど、僕らの島も見ることができる。そびえ立つ中央の山のおかげで、とても見つけやすい。

「不思議。ずっとあそこで暮らしてきたのにさ」

「そうだね。いつもあそこを走ってたんだよね」

「そう。何回も」

 この街では、崎原はどこを走るのだろうか。このビーチから公園を抜けても、まだまだ距離は短い。市街地を走るのは危険だし、あんまり気持ちよくはなさそうだ。陸上部に入ったら、グラウンドの中を何周もするのだろうか。

「これも、ホームシックなのかなー」

 僕らの目の前で生まれた波は、僕らの島まで届くかもしれない。けれども、島と島とを隔てた海は、時に心をも引き裂こうとするらしい。少なくとも今から三年間、僕らと故郷の間にはこの海が広がっている。

「すぐに帰れるよ。いつだって」

「でも、授業もあるし、部活もしたら……」

「崎原にとってそれが大事ならそうだし、島が大事なら高校なんていつだってやめればいいさ」

「……」

 崎原は、僕に返す言葉を考えているようだった。僕は、それを待つことにした。一分ほど経っただろうか。

「戻るだけじゃ、進めないよね。でも、戻るときがあってもいいかも」

 ふと思った。風は、こんな顔を見たことあるのだろうか、と。風が眩しそうに眺めていたのは、前向きに走り去っていく崎原の姿だったのではないか。立ち止まった崎原の、はかなげで壊れそうな、それでこそ美しい姿を見たことがあるのだろうか。

 僕は今、初めて崎原を魅力的だと思っている。それは、僕にだけ今の姿を見せてくれるというシチュエーションの魔術かもしれない。それでも思う。僕らは表と裏、見るところは違うけれど結局惹かれていくものは同じなのではないか、と。

 それでも、これはやはり風とは違う気持ちだと思う。僕は崎原でなくても、この気持ちを持つと思う。綺麗で儚いものが目の前にあれば、少し眩しく思うものではないか。

 もし今ここにいるのが僕でなければ、崎原に何としてでも走ってほしいと懇願したかもしれない。けれども僕は、そんな風に無責任に本人を追い立てるようなことは言えない。そしてそこまで考えて、なぜそう考えるのか、わかってしまった。

 追いかけて、疲れて、もともとの場所にもいられなくなってしまった人を知っているからだ。夢を失うだけではない。元の居場所も失ってしまうのだ。

 しばらく一歩も動かなかった、崎原の両足。その足が走り出すのか、帰り道を選ぶのか、どこにも進めなくなるのか。僕はどうすべきか、わからない。けれども、彼女が訳もなく逃げ出さないように、見守ることはしたいと思った。

 風が僕らの背中から吹いてくる。あの島まで、せめて風だけでも届け。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る