5
もう、何度も乗っているフェリー。けれども今日は、特別な乗船だった。明日にも明後日にも、帰りの便には乗らないのだ。
風は昨日、旅立った。入学式が一日早いのだ。
下に誰もいないベッドは、運転席に誰もいない車のようだった。話しかけることができない。寝息が聞こえない。朝起きても何の痕跡もない。
そして今日、僕が旅立った。二人取り残された両親のことを思うと、胸が締め付けられる。父さんは決してさびしいなどとは言わないだろう。それを思うと、余計切なくなる。
島と島の間の海は狭い。それでもその間を、フェリーは時間をかけて進む。まるで、盤上を進む駒のようだと思った。僕らの島と本島の間での勝負。敵陣まで乗り込んでも、その駒が活躍できるとは限らない。ときには相手の駒になって、再び自陣に戻ってくる。先行きのわからない進軍。
波の一つ一つが、盤上のマスに見えた。目を凝らせばそこに魚影が見えることもある。想像で、駒を置く。海上の81マスに、40枚の駒。大昔の合戦を思い、心を躍らせる。島と島との間でどんな戦をしたのか、僕は知らない。けれども、想像の中の将棋では、見事な海戦を繰り広げることができた。
実際海の中では、いろんな争いが繰り返されているんだろうなあ、なんてことも思う。海はきれいなだけじゃない。みんな生き残りをかけて必至だ。
着実に、本島へと近づいていく。
人の多さに圧倒された入学式。毎日が運動会のようになるのではないか。
クラスが分かれるというのも新鮮だった。いつも一学年一クラスだったのだ。
そして、知らない人たち。生まれた時から島の人たちと過ごし、みんなが顔見知りみたいなものだと感じていた。それが今、僕は知らない人たちとコミュニケーションを取らなければならない。
二日目はオリエンテーションとかなんとかで、午前はいろいろな説明を受けて終わった。そして午後は部活見学の時間だった。僕は行く場所を決めていた。
「了君」
だが、教室を出ると呼び止められた。この声の主はよく知っている。
「崎原」
「ふふ、よかった。まだいて」
「どうしたの」
「あのさ……まだいろいろと慣れないでしょ。なんかさ、そのさ、うん……」
なんかもじもじしている。完全に彼女らしくない。
「ひょっとして……部活見に行くのが怖い?」
「まあ、正解」
その気持ちは、何となくわかった。僕らは厳しい部活というのを体験したことがない。そんな中すでに出来上がった集団に入っていくというのは勇気がいることだ。体育会系は特にそうだろう。
「まあでもそこは乗り切らなくちゃならないし……了君は陸上とか興味ないだろ」
「もちろん」
「だから……待っててほしいんだよね」
「ああ、いいよ」
僕も、知り合いと呼べるのは崎原ぐらいしかいないし、それはすごくありがたい申し出だった。
「えーと……三時には終わると思う。また連絡する」
「わかった」
「じゃあ、あとで」
気が付くと、二人は既に校舎を出ていた。手を振りながら、いつものように走り去っていく崎原。スカートのすそが、大きく跳ねている。
僕は、裏の方へと歩いていく。テニスコートの奥に建っている古びた三階建て、それが文化サークル棟らしい。
見学時間だというのにそれほど人の気配がしない。人気のある吹奏楽や軽音楽、美術部などは校舎の方で活動しているからだろうか。ここにあるのは漫画研究会、コンピューター研究会、登山部などのどちらかというとそんなに人数の多くなさそうな部だ。
入口すぐ横の階段を上る。手すりは完全に錆びついていた。コンクリの床には赤い土が溜まっている。隣のテニスコートから流れてくるのだろう。
三階にたどり着いた。殺風景な廊下の両側に、青い扉が並んでいる。手前から三つ目、左の扉。何も書かれておらず、不安になって扉の小さな窓から中を覗く。長細いテーブルの上にゴム製の将棋盤が見えた。ここで間違いないようだ。
そして扉を開けると……やたら細身の男性が一人。本を読んでいたようだが、僕に気が付いてゆっくりと首を回した。
「あの……」
「一年生?」
「はい」
「……入部希望者?」
「ええと、今のところ……」
高校生になったら将棋部に入る、と決めていた。けれどもなんというか、まだ対局姿も見ないうちに入部を決断してしまうのは危険だと思った。将棋部の部室を借りて、別の活動をしている人かもしれない。
「おお、これはこれは! なんという僥倖」
えらく難しい言い回しで、細い人は感情を表現した。たぶん嬉しいということだろう。
「あの……将棋、指すんですよね?」
「当然。将棋部だからね」
「ほかの部員は……」
「まあ、最近は俺一人かな。去年五人の三年生が卒業してしまって。あ、ちなみに俺は二年生で部長の胡屋。よろしく」
「よろしくお願いします。じゃあ、部員一人?」
「まあ、もう一人いるんだけど。すごく強いんだけど、ほとんど来なくて」
「じゃあ、普段対局とかできないじゃないですか」
「いやいや、今日から君がいるじゃないか。対局できるぞ」
「……うーん」
思わずうなってしまった。僕の想像の中では、多くの部員が切磋琢磨するのが将棋部だったのだ。言っちゃ悪いが、この状況はいつ廃部になってもおかしくないのではないか。
「ひょっとして、初心者で気が引けるとかじゃないよね。俺も最初は全然勝てなかったけど、楽しかったよ」
「そういうわけではないです」
「よし、じゃあ一局指してみよう」
胡屋さんは、自分の正面に座るよう僕に促した。僕も将棋を指すことは楽しみだったので、一礼して腰を掛けた。
「道場とか行ったことある?」
「いえ」
「ネット将棋は?」
「ないです」
「じゃあ初心者なのかな。まあいいや、とりあえず指してみよう」
駒はすでに並んでいた。駒箱にしまわずにいるのか、見学者に備えて並べてあったのか。
「よいしょ」
振り駒は、とが四つ。僕の先手だった。
「では、お願いします」
「お願いします」
将棋部だけあって、胡屋さんの手つきはきれいだった。緩やかにに駒を持ち上げ、ピシッと指を伸ばして指す。そして、しゃべっているときはどこかへらへらしていたけれど、対局中はすごく凛々しい顔をしていた。将棋にかける思いが伝わってくる気がした。
ただ、局面はどういうわけか僕の方がよくなっていた。戦型は相矢倉だが、胡屋さんが攻め急いだため僕の玉将はするすると上部に逃げ出している。将棋には前にしか行けない駒があるため、相手陣に近づくほどこちらの玉将は攻められにくくなる。
「う……」
思わずうめきを漏らす胡屋さん。もう、形勢には大きく差がついている。
「参りました」
「ありがとうございました」
何とも言えない沈黙が続いた。胡屋さんの顔は、不可解なものを見たときのように歪んでいる。
「いやいや……謙遜したの?」
「いえ、そういうわけでは……」
「強いね。しかもなんというか……堂々としてるね。定跡に詳しいとかじゃなさそうなんだけど」
正直なところ、僕は自分がどれほど強いのかわかっていない。ただ、蜜さんと二枚落ちで互角で、その蜜さんはプロにはなれていなくて、そこから自分はまだまだとても弱いのだろうと思っていた。
「うん、これは頼もしい。これなら団体戦もいけるな」
「団体戦?」
「今度あるんだ。三人1チームでね。さすがに二人じゃ負けられなくてきついと思ってたんだ」
「すごいですね。でも大会とか出たことないんで……」
「大丈夫。なんとかなるよ」
胡屋さんはおそらく、ただの新人という以上に戦力として僕を見始めている。高校大会のレベルがわからないので、それが正しいのかどうかもよくわからない。
何となく愛想笑いをして困っているところに、いいタイミングで携帯が振動し始めた。
「ちょっとすいません」
確認すると、崎原からだった。メールに〈すぐ終わっちゃった。了君はまだかな?〉とだけ書かれていた。
「あ……あの、僕用事があるんで今日はこれで」
「そうか。部活は火曜と木曜の放課後だから、ぜひ来てくれよ。……あ、名前聞いてなかったね」
「高嶺です。高嶺了」
「高嶺君か。うん、待ってるよ」
「はい。……では、失礼します」
どこかすっきりしないものはあったけれど、そんなに悪いこともない。まだ同級生も入ってくるかもしれないし、もう一人の先輩も見られるかもしれない。将棋部、きっと続けるだろうな、と思っている。
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