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「買ったよ」

 いつものように対局が終わった後、蜜さんは言った。そして、ポケットから真っ赤な携帯電話を取り出した。

「かわいいね」

「私が選んだんだからもちろん……と言いたいけど、三種類ぐらいしかなかった」

 島には携帯電話のお店がなく、最も近いところもひどく小さいところだ。品ぞろえは確かにひどかった。

「ちょっと……電話してみる」

 そう言うと蜜さんは、ボタンを押してから携帯を前に突き出した。数秒後、僕のポケットの中から明るいメロディーが流れだす。

「よかった。通じた」

 島の電波は弱い。だから通じないこともある。でも蜜さんが知りたかったのは、それだけじゃないと思う。

「あとでメールもしてみる」

「わかった」

 携帯電話をポケットにしまう蜜さん。その時揺れた髪を見て、僕は気が付いた。

「あ」

「どうかした」

「黒くしたんだ」

「今気づいたの?」

「えっと……うん」

「鈍感だ。了君もてないかもね」

 たぶん、そうだ。僕はあんまり人の変化とかを気にしない。どんな服を着ていたかも、明日には思い出せなくなっているだろう。

「何で戻したの」

「気分転換」

「それだけ?」

「いつになく食いつくじゃない。気になる?」

「気にしたらもてるかと思って」

「ばかだなー」

 蜜さんが座ったまま、膝歩きで近付いてきた。そしてまつ毛が触れるんじゃないかってぐらい顔を寄せて、言った。

「とっくに私にはもててるのに」

「知らなかった」

 少し距離の空いた蜜さんの顔を、じっくりと見る。何度見ても、綺麗だと思う。ただ、綺麗なものは弱く見えることがある。整ったもの、理解しやすいもの。きっとそれは、多くの場合に不利になることだ。

 僕は、その先、その奥を見ようと思った。髪を黒くして、口紅を塗らず、少しだけ頬を彩って、携帯電話を購入した、その心を。

「本当に知らなかった?」

「……ちょっとは知ってた」

 初めてフェリー乗り場で会ったあの日。僕は蜜さんを見つけた。けれども、蜜さんが見つけたのは僕だっだろうか。偶然が、一冊の本を介して出会わせた。そう思えばロマンチックかもしれない。でも、そう思い込むだけの勇気が僕にはない。何も知らない土地で将棋好きの人間に知り合えば、蜜さんは誰にでも同じように接したんじゃないかと思う。もし二人が大都会ですれ違っても、きっと何も起こらない。僕が高校から帰ってきたら、僕の代わりの少年がここに座っているかもしれない。

「でも……確信はないよ」

「了君は正直すぎるね。やっぱり、私以外にはもてないと思う」

「そっか」

 蜜さんの肩が震えていた。僕は、その肩をつかんだ。正直なままでいいならば、よくわからないのだった。そして、蜜さんには悲しんでほしくないのだった。

「それでいい」

 再び近付いた顔、そして、唇が触れた。正直、恥ずかしすぎて感触とかよくわからなかった。蜜さんの手が、僕の背中へと回る。すぐ側から、嗚咽が聞こえた。

「……ごめん……私からは怖く……」

「蜜さん?」

「卑怯なんだ……私いつも……卑怯……」

「そんなことないよ。ねえ」

「了君……あきれないでね。私、本当にしょうもない人間だけど……ちゃんとしようって……今度はちゃんとしようって思ってるから」

「大丈夫、蜜さんはしょうもなくなんかないよ」

「ありがとう」

 確かなこと。それは、今蜜さんには僕しかいないということであり、僕はそれを受け入れているということ。

「蜜さん……本当に、そんなに遠くないから……帰ってきたら、必ず将棋指してね」

「うん。必ず」

「よかった」

 口にはできない、本当に本当に正直な気持ちは、蜜さんを誰かに取られるのは嫌だ、というものだった。こうして抱きしめるのも、将棋を指すのも、僕だけであってほしい。そういう気持ちを……恋と呼ぶのだろうか。

 大事にしなければならないと思った。この瞬間は、思い出になる。

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