3
もうすぐ、ここから離れる。それを実感するようになり、僕はできるだけ島の中を見て回ろうと思った。自転車に乗り、隅々まで走る。
天気によって風景も変わる。北海岸などは特にそうだ。風が穏やかで太陽も照っているときは、断崖から海の方へと飛び込みたくなる。穏やかに水が湧き出している様子は、見ていて心を落ち着かせる。けれども風が強く雨が降っていたりすると、海の方から吸い込みに来ているような感じがする。ちっぽけな僕は、必死で抗いたいような、いっそ引きずり込まれたいような、不思議な気分になってしまう。
島はすっかり春を迎えている。半袖の人すらいる。これからどんどん暖かくなっていく。本島の夏も、同じように暑いだろう。そう、距離はそれほど遠くないのだ。ただ、間には海が横たわっている。毎日フェリーに乗ってバスに乗っていては、遅刻してしまう、それだけのことなのだ。
海は、いろいろなものを隔てている。そしていろいろなものをつなげている。
「了くーん」
ぼーっと海を眺めていると、聞き覚えのある声で呼ばれた。こちらに駆け寄ってきて、あっという間に僕の目の前まで来た。崎原だ。
「今日も練習?」
「うん。あのさ……四月からもよろしくね」
「ああ……え?」
「一緒の高校」
崎原が右手を出したので、つられて僕も右手を出した。握手をしたまま、ぶんぶんと腕を振られる。
「え……だって……」
崎原は私学に進学すると言っていた気がする。いや、陸上のために絶対に行きたい高校があるのだと……
「結局、お父さんを説得できなかったんだ。まあ、出資者に反対されちゃあねー」
「でも、合格したって……」
「してたけどね。でも、しょうがないよ」
やっと手を離した崎原の顔は、少しだけこわばっているように見えた。悔しいに違いない。ずっとずっと、目標にしていたのだから。けれども、崎原の家が裕福でないことも知っている。おじいの入院生活が長く、兄弟も四人いる。受験までは許したのだ、お父さんだっていろいろと揺れる思いがあったに違いない。
「じゃあ、走るのは」
「やめないよ。どこに行ったって走れるし。ちょっと部活が弱いだけ」
本音でないことは明らかだった。崎原は、中学生の間にも施設の整ったライバルたちとの差が開いていくことに焦っていた。だから雨の日も休むことなく走っていたのを知っている。
「そっか。頑張ってね」
「もちろん」
手を振りながら、だけど振り返らずに、崎原は走り去っていった。何の目的もなく高校に行く僕と、あきらめて同じ高校に行く彼女。「同じ」の間には大きなかい離がある。
景色が天候によって全く違う場所。砕けては消えていく波を見ながら、しばらく崎原の悲しみを思った。
「ねえ、了」
「ん」
「……変な感じするね」
風が、本棚を指さして言った。確かに、中身が空っぽになった本棚は、今まで見たことのない何かのようだった。
僕らは今、荷造りをしている。風も当たり前のように合格し、四月からは二人ともこの家を出ていく。共有のものが多いので、同時に荷造りをしないと不公平でしょ……と母さんには言われたのだが、言われなくても作業をしたい時間帯は変わらないようだ。僕らは時折双子らしくなる。
「ずっとこの部屋にいたのにね」
「そうだね。色々あったなあ」
喧嘩したこともあれば、二人で立てこもったこともあった。二段ベッドの上下をたまに交換した。知らない間に引き出しの中にプレゼントが入っていたこともあったし、知らない間に僕のものがなくなっていることもあった。
そんな思い出は、もう作られなくなる。この部屋は空っぽになっていく。そして住人もいなくなる。僕らはきっとこの部屋のことをほとんど忘れて、新しい部屋で別々の思い出を作る。
二人の視線が、自然と写真立てに吸い寄せられている。家族四人、火口の前で笑っている。初めて県外に旅行した時の写真だ。本当はすごく寒くて、でもずっと残る写真だと思ってみんな必死になって顔を作っていた。二泊三日の短い旅行だったけど、それでも知り合いに牛の世話を頼まねばならず大変だった。
次に行けるのは、いったいいつになるだろうか。
「家族って、いいよね」
風はとても感傷的になっていて、それを隠そうとしない。僕は少し気取って、間を置いてみた
「……そうだね」
「島から出ていくのも、さびしいな……」
さびしい。風の口からも出たその言葉。じわじわとその予感が、僕の胸にも響いてくる。
「頑張ろう。風は島に戻ってくるんだろ」
「まあね。了はまだどうするかわからないんだよね」
「……そうだね。何か見つかるといいな」
それは思う。ただ、思うべきかはわからない。風が、蜜さんが、崎原が追い立てているようにも思う。僕はまだ、そんなに先のことまで考えなくてもいいんじゃないのか、そうも思う。
「この写真……僕が持って行ってもいいかな」
「いいよ」
「ありがとう」
風は僕より遠いところに行く。それは距離だけではない。風はこの島から優秀な高校に行く久々のエリートであり、将来この島を支えたいと宣言する希望の星なのだ。きっと今から、いろいろなプレッシャーを背負うことになるだろう。
僕らはそのあとも、発掘されるいろいろな思い出について語り合った。幸せな時間だと思った。
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