第2章
1
冬がやってきた。
それほど寒いというわけではないけれど、やはりなんとなく外に出るのが億劫になる。そして、もうすぐ受験が始まるので、そもそも遊びにも行かせてもらえない。
よくもまあ、というほど風は集中して勉強している。脇目も振らず、とはこのことだ。僕の方はそんな風に脇目を振りまくっている。
「はあ」
思わずため息も出る。将棋を指すこともできない。高校に行きたいわけでもないのに、こんなに苦労しなければならないのは理不尽だ。かといってみんなを押し切ってまでしたい仕事があるというわけでもない。
好きなことを仕事にしたら楽しいだろうか。例えば……将棋。でもなんか、苦しそうなイメージしかない。蜜さんの姿を見ているからだ。父さんの仕事は風が継ぐと言っている。僕はどうすればいいのだろう。
行き詰った。息が詰まった。
部屋を出て、リビングへ。冷蔵庫から麦茶を取り出す。うちには季節にかかわりなく麦茶とシークワーサージュースが常備されているのである。
母さんはいなかった。コップを持ったままサンダルを履き、庭に出てみるが見当たらない。牛舎の方も見てみたが、父さんもいない。二人で買い物にでも行ったのだろうか。何かお菓子でも頼めばよかった。
なんとなく、リフトに腰掛ける。使い込んだせいで、椅子には穴が開いている。父さんは毎日これで干し草を運ぶのだ。牛たちは遠慮なく次々とそれを平らげていく。雨が降ろうが嵐になろうが、牛たちの空腹は満たしてやらなければならない。僕らが生まれる前から、ずっと休みなく父は干し草を運び続けてきたのだ。
いつか父も干し草を運べなくなるだろう。その時、僕はどこにいるのだろうか。本島のどこかで普通の仕事を淡々とこなしているだろうか。まったく想像できない。
ただただ時間は過ぎていく。僕はそれに、身を任せるしかない。
フェリーから次々と出ていく車。そのうちの何台かは僕らと同じ目的を持っていることだろう。
少し雨がぱらついている。そして、かなり冷え込んでいる。普段なら牛の心配をするところだが、今日は僕らが心配されている。
母さんの運転する車は、海岸沿いの道を順調に進んでいく。晴れた日ならば、透き通るような青が眩しいぐらいなのだ。しかし今日は、灰色の空を映している。
後ろの席には、僕と風。昨日の夜から風の顔はこわばりっぱなしだ。考えてみれば僕よりも合格確率は低いし、普段なかなか行かないところに泊まるし、いろいろと不安なことだろう。僕はもう、たぶん受かるだろう所を受けるし、受からなかったときはまたその時考えればいいと思っている。
「あのさ、風」
「なに」
「試験終わって街行く余裕あったらさ、なんか将棋の本買ってきてよ」
「……うん」
「試験前に何言ってんのー」
母さんの声。父さんは今家で寝ている。何があっても一人で対処しないといけない時間は、できるだけ体を休めておくことが必要らしい。
「いいじゃない。試験終わったら自由になりたいさー」
「なれればいいけどねえ」
どうせ結果が出るまでは勉強なんてしない気がする。
街に入ってきた。僕はここに泊まり、風はもっと遠い街で泊まる。本島で一番大きな場所で。なんとなく、その怖さはわかる。
「あ、ここだ」
何回か道を曲がると、ホテルの前に。こんな大きなところに泊まったこともないし、一人で外泊するのも初めてだ。ちょっとわくわくする。
「大丈夫?」
「うん」
「早く寝るのよ」
「わかってるよ。そっちも気を付けてね」
車の扉を閉める。手を振る。走り去っていく。
一人、ホテルの前。少しだけ、寂しさを感じた。
チェックインして、部屋に入る。それほど広くはないけれど、いつも風と二人部屋の僕にとっては十分すぎるスペースだ。それに、テレビも冷蔵庫も設置されている。さらにはお風呂まで。贅沢すぎる部屋だ。
かと言って、特に何かをするわけでもない。今から何かを頭に詰め込む気にもならない。今日はこの環境、一人で街に放り出された感覚に慣れるために使うのがいいと思う。
などと言い訳をしてベッドに寝転ぶ。
そういえば、と思いだしてポケットから携帯電話を取り出す。何かあった時のために、昨日購入してもらったのだ。そして、青いランプが点滅していた。新着メールがあるらしい。アドレスを教えたのは家族と、もう一人だけだ。
予想通り、メールは蜜さんからだった。
〈負けるなよ!〉
思わず吹き出してしまった。至って真面目なのだろうが、「頑張れ」とかでないところが彼女らしい。確かに試験も勝負だ。どれだけ納得がいかなくても、他の受験者に勝ちさえすればいいのだ。
〈勝つよ!〉
僕も気合を込めて返信した。蜜さんは宿のパソコンから電話回線でメールを打っているので、確認するのはいつになるのかわからないけれど。
僕は、明日頑張ればいい。勝負は、非日常の出来事だ。それをずっと続けてきた蜜さんは、どれほどつらかっただろうか。そしてまだ続けている人たちは、想像を超えたところにいる気がする。
気持ちが本当に軽くなっていくのがわかる。携帯電話というのは、いいものだ。
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