11

 しまった。

 釣りをしていたら、雨が降り出した。大したことがないと思ったら、土砂降りになった。

 あわてて家路につく。風も強くなってきて、とても自転車には乗れない。傘も差せないので、カッパだけで何とかしのぐ。それでもすでにびしょ濡れだ。

 寒いような暑いような。とにかく気持ちが悪い。このまま倒れたら、海まで流されてしまいそうだ。必死に、家路を急ぐ。

 前が見えない。雨が岩のようになって落ちてくる。体が自分のものでなくなるような感覚。後悔も何も考えられなくなり、前に進めているのかすらわからなくなる。

「了君?」

 聞き覚えのある声が。車が止まる音。続いて、駆け寄ってくる足音。

「……蜜さん……」

 温かい感触に、僕は安心しきってしまった。体から力が抜けていく。

 そのあとは、ほとんど意識がなくなっていたようだ。遠くの方から、小さな声が聞こえてきた気もする。そして、いつの間にか僕は眠ってしまった。

 昔にも一度、こんなことがあった気がする。夢の中で、とてもひどいことを言われた。誰が言っているのかはわからない。けれども、胸の奥をえぐられるような言葉が、とても痛い。

 そして、全てが白くなっていく。視界も、音も、香りも。ただどこまでも沈んでいくかと思われた中、一筋だけ光が見えた。細く、弱々しい光。僕は、それをじっと見つめている。いつもと同じように、その光が失われないように……

「大丈夫かねえ」

 瞼が開いた。突然、現実が見えてくる。ただ、ぼんやりとはしていた。しかも、何かがおかしい。僕は布団で眠っているのだが、いつもの二段ベッドではなかった。ゆっくりと首を回す。見覚えのある天井、家具。ここは……島烏の一室だ。

「あ……」

 何か言おうとしたけれど、うまく声が出なかった。のどが細くなっているような感覚。

「了君、起きたの?」

「あら」

 入口からこちらを除く、四つの目。蜜さんと、母さんだ。妙な組み合わせ。

「熱が40度近くあるのよ」

 母さんが、あきれたような、少し楽しそうな声で言った。そうか、やっぱり風邪を引いたのか……と思うものの、それ以上頭が働かない。

「私が見つけなかったら、行き倒れになってたかも」

「本当にねえ」

 首を持ち上げられ、お湯を口に含ませてもらう。小さいころもよく、こうしてもらった気がする。

「それでね、明日あたり出産がありそうでしょ、風に移してもいけないし。熱下がるまであんた、ここにいさせてもらったらと思って」

「幸いお客さんもいないしね」

 十月半ば。島への観光客はまだいるが、島烏はたまに誰もお客さんがいないということがあるようだ。

「ぁぁ」

 声を出そうとしたが、息が漏れる音しかしなかった。自覚しているよりもずっと弱っているらしい。

「しばらく寝てないとね」

 その言葉に安心したのか、僕の意識は再び沈んでいった。蜜さんの温かいまなざしが、最後まで残像になっていた。



 不思議な朝だった。

 目が覚めたものの、緊張感が感じられない。毎朝我が家は、牛の世話をする父さんを中心に動いている。母さんが一番先に起き、料理を始める。そしてテーブルの上に小さなおにぎりとお茶が置かれ、起きてきた父はそれを口にしてから牛舎に向かう。そのあと僕ら二人が起きてきて、朝食を並べるのを手伝う。

父さんが気分よく仕事をできるように。そのことを第一に家族は生活をしている。それはびびっているとか敬うとかではなく、それぞれが役割分担をしっかりしているということだと思う。畜産業には休みがない。日々を乗り越えていくには、家族の協力が不可欠なのだ。

そんな当たり前の日々から離れて、僕は今宿の一室にいる。蜜さんもおばあも、すごくのんびりと一日を過ごしているようだ。宿泊客がいないのもそうだが、外も大雨なので洗濯をすることもなければ急いで買い物に行く気分にもならないらしい。フェリーも朝の便は欠航になったらしく、今日来る予定のお客さんもキャンセルになるかもしれないとか。

僕は寝たきりで、ぼんやりと天井を見ている。寝すぎてもうまったく眠くない。それでも熱が引かず、ただ横になっているしかない。

「おかゆ作ったよー」

蜜さんが部屋に入ってきた。茶碗から上がる白い湯気。母さんも風邪をひくとおかゆを作ってくれたっけ。

「食べられそう?」

「……うん」

 体を起こすと、蜜さんは左手で腰を支え、そして右手でおかゆを運んでくれた。食べ物を口に入れて初めて、空腹だったことを実感する。

「何か……」

「ん?」

「保健室みたい」

 蜜さんは口の端で笑っている。目は笑っていない。

「……そう?」

「うん……まあ、普通はこんなにきれいなお姉さんはいないけどね」

「そうだね」

 保健室は、ほとんど行くことがない。健康診断の時ぐらいだろうか。普段はどんなところなのだろうか。蜜さんは何を知っているのだろうか。

「自分が誰かのお世話するなんて、本当に想像しなかった」

 おかゆを食べ終わり、温かいお茶を飲んだ。雨が屋根をたたく音が、鳴り続けている。

「もうすぐ受験だね」

「うん」

「まあ……今は休もう」

 考えてみれば、蜜さんは高校受験をしたことがあるのだ。でも、そのことを聞くのはいけないことのような気がした。蜜さんは、そこから逃げてきたのだ。蜜さんにとって保健室のようななこの空間は、きっと居心地がいいはずだ。僕はただ、ここにいればいいと思う。

 僕はと言えば、少しはましになったもののまだぼーっとしている。今どころかいつも真面目に受験勉強なんてしてないけれど、今はそういうことはすべて忘れていた方がよさそうだ。

「ありがとう」

 自然に出た言葉だった。けれども蜜さんは、僕のことを凝視していた。

「……どうしたの?」

「……将棋では、負けた時に『ありがとうございました』って言うよね」

「うん」

「でも、ありがたくはないよね」

「そっか」

「本当は……いい言葉なのに」

 負けたら悔しい。それでも頭を下げて、「ありがとう」を言わなければならない。まっすぐなようでいて、屈折した勝負の世界。いまだにそこにとらわれている蜜さんは、勝負から切り離せない何かを持っているのかもしれない。

「今は……休もう」

 もらった言葉を、今度は返した。ぎこちないけれど、蜜さんは笑ってくれた。僕は、瞼を閉じた。


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