8
「きーつーいー」
後ろから、息の詰まったような声が聞こえてくる。急こう配の上り坂、自転車で登るのは確かにきつい。
「もうちょっとですからっ」
僕もそんなに慣れているわけではない。一生懸命に立ちこぎする。
「あー」
振り返ると、蜜さんは自転車を押して歩いていた。僕は意地で、最後までこぎ続けた。
ようやく登山口が見えてくる。自転車も原付も止まっていないので、先客はいなさそうだ。自転車を止め、振り返る。まだ小さな姿の蜜さんが手を振ってくる。僕も手を振った。
「なんか……すごいねー」
右上を見上げながら、蜜さんが叫ぶ。そこには、岩が大地を突き破ったような山がある。平坦な島にただ一つの隆起。本島からでもその姿ははっきりと確認できるほどだ。
「あー疲れた。まだ登らなきゃなんだね……」
「案外すぐですよ」
登山口からはしばらく穏やかな坂が続く。きっと昔から島の人は登ってきたのだろう、道はしっかりと踏み固められている気がする。僕が先に行き、少し後ろを蜜さんが付いてくる。山を巻くように進み、半周したぐらいで急な階段が出現する。ここからは一気に、ほぼ垂直に登っていく。
「大丈夫ですか」
「だといいな」
振り返り手を貸しながら、山の背中をよじ登っていく。すでに木は生えておらず、ほとんど岩肌がむき出しになっている。今もきっと、島の誰かがこちらを見ている。この山は、そういう山だ。
「ほら、着いたよ」
「うん」
頂上は平べったくなっていて、二人で腰掛けるぐらいなんとかなる。
「見て」
「あ」
二人で、今来た方角、西を見る。空が赤く染まっている。太陽が、丁度海に触れるところだった。眼下に見えるのは、平らな台地。田んぼ、畑、牛舎、基地。全てが赤く染まっていく。
「ね」
「うん」
何度見ても、綺麗だ。これを、見せたかった。
二人は、太陽が沈んでいくのをじっと眺めていた。そんなに長い時間でもないけれど、記憶に残る長さだと思った。気がつくと、蜜さんの右手は僕の左手を握っていた。
「飛んでるみたい」
風が、二人の背中を押した。確かに飛んでいるような、そんな感じがした。さえぎるものは何もない。四方が空、そしてその先には海。
「広いね……」
「そうだね」
「ずっと、せまいところにいたから……」
震えが、伝わってきた。将棋ではあんなに強い蜜さんが、こんなにも世界を恐れていることに僕は衝撃を受けている。せまい勝負の世界も、せまい教室も、彼女には広かったらしい。広いのにせまいことが、歪みを生むのだろうか。
この島はせまいけれど広い。海も空も僕らのものだと思えば、とてつもなく広い。そこで心を癒していけるなら、蜜さんにとって幸せなことじゃないかと思う。
「暗くなる前に、下りましょう」
「うん」
長居してはいけない場所だと言われていた。根が生えて、山の一部になってしまうぞ、と。確かに、ここに居ると、人間をやめてしまえそうな気になる。ただ一日、太陽に照らされているのもよさそうだ。
だから、無理やりにでも下りなければならない。暗くなれば、先祖の霊が話しかけてくる。もっと話そう、もっと話そうと。
「ありがとう」
蜜さんは必ずつれてかえらなければならない。家に、だけではない。広い場所へ。傷付けられて、虐げられるからといって、せまいところへと閉じこもり続けることはできない。この島は束の間のものだ。僕も、もうすぐ出ていく。蜜さんも、きっといつかは出ていく。前向きに、出て行ってもらいたい。
僕いつの間にか、蜜さんに幸せになってほしいと思っている。こんな気持ちは初めてだった。
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