6
雨の日が続いている。
晴れ間もあるものの、すぐに雨雲がやってくる。
傘を差して、歩いて島烏を目指す。今日は将棋を教えてもらう日だ。これまで数回は全く歯が立たなかったけど、今日は違う。先日本島に行った時に、『駒落ちを指せるようになる本』というのを買ってきたのだ。最近はこれを読みまくっていたので、駒落ち定跡についてもだいぶん詳しくなった。早く駒落ちで勝って、蜜さんと平手で対局したい。
軽くて多い雨粒が、傘や木の葉を叩く音がうるさい。墓石の下で雨宿りをしている猫がいる。あの黒猫は祈念館で飼われているんだっけ。
島烏へ行くには、畑の間の道へと曲がり、少し坂を下る。ガジュマルの木が数本、風雨に叩かれて揺れている。ここら辺を歩いていると、「島烏はどこですか?」とよく聞かれる。すぐ先の民家みたいなのがそうなのだが、初めての人には宿に見えないようだ。
今日の海は唸っている。こんなときは海から遠ざかるに限る。左に曲がり、少し歩くと島烏の玄関だ。靴の数からして、三人ほど宿泊客がいるようだ。
「こんにちはー」
「はいー」
部屋の掃除をしていたようで、蜜さんは箒を持ったまま柱の陰から顔を出した。
「上がっていい?」
「いーよー。ついでだから手伝ってよ」
居間では、三人のお兄さんたちがガイドブックを見ながら話し合っていた。明日以降の計画でも立てているのだろう。この天気では、宿にこもっているしかない。
「おっ、島の子?」
「はい」
「了君、こっち」
蜜さんが、部屋の一つから手招きをする。
「これ、動かしたいの」
蜜さんが手をかけているのは、そこそこ大きな鏡台だった。
「そっち持って」
「はい」
ゆっくりと持ち上げ、手前にずらす。埃と一緒に、何枚かの紙が現れる。
「結構落ちてるんだよねー」
「パンフレットだ」
書かれているのは、観光地や宿の宣伝。随分古そうなものもある。
「おばあ一人じゃこういうところできないからね」
確かに、おばあには手が回らないところは多そうだ。おばあは最近部屋で休んでいることが多くなった。僕らには元気に見えていたが、持病があるらしい。体力も落ちてきていたところに蜜さんが来てくれたので、安心して休めるようになったのだ。
「蜜さん、働き者だね」
思わず口をついて出た言葉。蜜さんはこちらを向いて、固まってしまった。白い頬が、赤く染まっていく。
「そ、そんなことないよ」
「でも、ちゃんとしてる」
「失敗も多いよ。いっつも了君が手伝ってくれればいいのにね」
「え」
今度は僕が固まる番だった。蜜さんと僕が、二人で宿を取り仕切る、その姿を想像して……
「あ、でも了君、島出るんだもんね。あたし、帰ってくるまで待つわあ」
冗談めかして言う蜜さん。でも、少しだけ、胸が痛かった。蜜さんはこの島に来て、学校にも通わずにほとんどを宿で過ごしている。同年代の人と知り合う機会はないし、そもそもそういう人たちの輪から逃げ出してきたのだ。数少ない関わりのある人が、いなくなるということ。それは、とても怖いことではないか。
「じゃあ……出るのやめよかな」
なんとなく言った言葉だった。けれど、蜜さんは体を硬直させ、僕の目をじっと見ていた。
「冗談なら、もっと冗談っぽく言ってよ」
「蜜さん……」
「本気になったら、女の子はしつこいんだよ」
黒目が、僕のことを射抜いていた。
「僕……」
「……ごめん。困らせてもしょうがないのにね……。将棋、指そっか!」
僕は、ゆっくりと頷いた。
蜜さんが盤駒を持ってきて、この部屋で対局することになった。駒を並べ終わった後、飛車と角を駒袋に戻す蜜さん。
「さあ、どれくらい勉強したかな」
口元は笑っていたけれど、前髪に隠れた目は、きっと悲しそうに沈んでいる。蜜さんはこうして、いろんな感情を抑え込みながら将棋を指してきたのだろう。
「お願いします」
「うん。お願いします」
左手で前髪をかきあげた。瞼は閉じられていた。大きく深呼吸をした。そして開かれた目には、きらきらとした光が宿っていた。
しなやかな指が左側の銀をつまみ上げる。決して大きな所作でもなく、音もほとんど立たなかった。けれどもその一手には、力強さがこめられているのがわかった。
僕も、すぐには指さずに気持ちを落ちつけようと思った。二人にとって、大事な一局になる予感がした。息を整え、背筋を伸ばす。左から三番目の歩に、右手の人差し指と中指で触れてみる。温かい。蜜さんが将棋に注いできた熱が、蓄積しているのか。歩を、そっと一つ前に突き出す。盤面全体に、温度が流れ込んでいくのがわかる。
僕は本で勉強した、「右四間」という形に組み上げていく。飛車、角、銀、桂馬が同じ個所を責めているので、破壊力が大きい。そして左側に玉将を動かせば、しばらくは攻められずに済む。
前回よりも、蜜さんの考える時間が増えた。やはり、こちらが勉強した分だけ相手も慎重にならないといけないんだろう。強い人の時間を独占しているという事実に、ぞくぞくしてしまう。
屋根を叩く音がかなり強くなってきた。窓の外は、真っ暗になっている。けれども蜜さんは、盤面から一切視線を動かさなかった。盤上の世界に移住してしまったかのようだった。僕も、集中しなければいけない。
駒が、美しく並んでいく。定跡というのは、そういうものなのか。僕はだんだん、将棋の深いところに惹かれてきている気がする。
蜜さんの駒が、少しずつ前に出てくる。攻め駒がないため、全体的に柔らかく受け止めようとしているようだ。将棋のことはまだよくわかってないけど、強い人というのは柔軟性があるのではないか、と思ってる。弱い僕が指す手なんて、ちゃんと予想はできないだろう。だから、どんな手が来ても対応する力がないといけない。そして、対応されてしまう雰囲気が漂っている。
覚えたとおり指していけば、こちらが悪くなることはないはずだ。なんといっても、僕には飛車も角もある。けれども、その先がわからない。その先が……
「そうね……」
蜜さんは、そんな僕の心を見透かしているかのように、本にはない手を指してきた。こちらの駒の進撃を妨げるような、不自然な手に見える。どう対応すればいいのか。僕が知らないだけで、有名な手なのかもしれない。耳の裏が熱くなってきた。定期テストが突然抜き打ちテストになったような気分だった。
雨音が聞こえなくなっていた。世界中で一人、たった一人蜜さんが将棋を指せる相手。がっかりさせたくなかった。一所懸命になれば、伝わるものがあるはずだ。
僕は、飛車を横に動かした。今すぐ攻めると、予定より一枚戦力が少ない。だから、相手が突っ張ってきたところに目標を変える。
眉間が痛くなった。ふと視線を挙げると、蜜さんと目が合った。鋭すぎて、突き刺さって動けなくなった。そんな目は疲れるだろう。何度も何度も、心をそこまで追い込むのは。
二人の駒が前に出たり引いたり、そんなことがしばらく続いた。突破できそうでできない。まっすぐに襲うとすると、ちょっと引いて、争点をずらされてしまう。力をためると、蜜さんの方も態勢を整える。じりじりとした展開が続くうちに、自分の集中力が途切れがちになってきているのがわかる。
蜜さんの駒を握る手から、筋肉のきしむ音が聞こえた。飛車の頭を歩で叩かれる。取るしかない。もう一度叩かれる。今度は角でも取れるけど、そうすると銀がただ……なので飛車で取る。ぐっと、金が進出してくる。飛車取りだ。飛車を逃げる。歩を打たれる……
だんだん、抑え込まれていく。これでは前と同じではないか。まだ、何とかなるはずだ。駒は損していないし、玉も危なくなっていない。頭を振って、色々余分なものを振り落とす。飛車と角、どちらかが活躍すればいいはずだ。銀を取らせながら、ラインを通す一手。
「ふん」
その手が指された瞬間、重たいため息が蜜さんの口からこぼれた。そして、彼女は腕を組み、目を閉じた。遊びで指す将棋とは、まるで違う世界だった。体も心も震えた。
銀を取られる代わりに角筋が通り、一気に流れは激しくなった。蜜さんもあまり受けずに、どんどん攻めてきた。攻め合い。プロを目指した人と、真剣な攻め合い。
ただ、僕は弱かった。とても弱かった。見る見るうちに守りを突破され、玉は追い詰められ、逃げ場を失った。それでも……それでも何かを探した。相手玉は詰まないか。攻防の手はないものか。何かないか、何かないか、何かないか……
何もなかった。
「負けました……」
僕は、頭を下げた。そして頭を上げると、僕のことをじっと見つめる蜜さんがいた。
「どうしたんだろう」
「え」
「すごい強くなった」
徐々に、その目つきは緩んでいった。そして、口元も柔らかくなる。
「本当?」
「うん……なんかね、一つ深くなった。一手から三手って言うか」
「よかった」
「才能あるかもね」
自分の表情も緩んでいくのがわかった。将棋で褒められるのが、こんなに嬉しいなんて。負けたのに。ハンデがあって負けたのに。それでも、成長は自分でも感じることができた。
「どうすればもっと強くなれますか」
「いっぱい勉強して、いっぱい指せばいいんだよ。……壁は、ずっと先にあるから」
窓の外、いつの間にか陽が差していた。
「うん、そうするよ」
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