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 台風が来ない確認、オッケー。とは言え、島の天気は変わりやすい。晴れている間に、早いこと行くのが吉。

「やっほー」

 出かけようと玄関を出たら、蜜さんの声が聞こえた。向こうから来るとは思っていなかった。

「待っててくれたらよかったのに」

「わくわくするじゃない。海の無いところで育ったんだから」

 真っ白いワンピースを着た蜜さんは、体全身で本当にわくわくしているのがわかった。

「すぐそばにビーチあるのに」

「みんないるんだもん」

 自転車にまたがる。蜜さんも、宿の貸し出し用の自転車にまたがった。

「いいんですか、それ」

「いーの。今日はみんな、リッチビーチ」

 島から巣から出てすぐのところに広がる砂浜は、ホテルが管理している。いつも綺麗で監視員もいるが、有料だ。正式名称もあるが、島の人たちはリッチビーチとか人工ビーチとか呼ぶことが多い。

「さ、つれてって」

「はい」

 温度が高くても、湿度が低いのでそれほど暑さも感じない。適度に雲もある。実に海水浴日和だ。

「了君はさ」

「なに」

 僕の後ろからついてくる蜜さん。

「泳げるの」

「まあね。なんで?」

「泳げない人多いって聞いたから」

「あー。確かに風は泳げないっけ」

「双子なのに?」

「練習すればできると思うけど。ずっと勉強してるから」

 信号を抜け、もう少し先。左に曲がって畑を抜ける。一見すると道が消えていくようだが、よく見ると舗装された細い小道がある。

「ここに止めとこう」

「了解さー」

 舗装路の終点に自転車を止めると、目の前には小さな砂浜が広がっている。手入れはされていないが、地元の人間がよく使うビーチだ。

「うわー、いいね」

「でしょ」

 空も海も、遠くまで青い。おまけに静かだ。

「よーし、泳ぐぞー」

「ちょ、ちょっと!」

蜜さんはワンピースのすそに手をかけ、脱ごうとしていた。僕は目をそらした、いやちょっとだけ見た。

「どしたの?」

「いやだって脱ごうとしてるから」

「ちゃんと水着着てるよ」

「そうだろうけどさ、いやさ……」

 白い肌は、やはり全体的に白かった。水色の水着が隠すのは、最低限隠すべきところだけだ。

「島の人はシャツ着るから……」

「そうなの?」

「日焼けするしさ……恥ずかしいから」

「でも私は恥ずかしくないもーん」

 蜜さんはそう言うと、海の中に入っていった。跳ね上がる水しぶき。茶色い髪だけが浮かんで見える。そのまま空の中へと溶け込んでいってしまいそうだと思った。

「ほら、了君も!」

 僕はズボンを脱いで、蜜さんの後を追った。海水が足首を撫でる。足の裏はざらざらするし、気をつけないとぬめっとしたナマコを踏んでしまう。

「すっごーい綺麗!」

 確かに今日の景色はとてもいい。けれども蜜さんが感動しているのは、それだけではないようだった。

「私の知ってる海、偽物みたい」

「偽物?」

「青くもないし、底も見えない」

「水なのに、見えないの?」

「都会の海は、ゴミ箱みたいなところなの」

 思い浮かべてみた。紙くずや生ごみが捨てられて、底の見えない海。確かにそれはもはや海ではない。

「でもさ、風が吹くと、何も見えなくなるよ」

「風?」

「台風とか。船も出ないし、海は黒い鰐皮みたいになる」

「へー。まだそれは見てない」

 蜜さんは腰を下ろし、肩まで水につかって、遠くを眺め始めた。僕もその隣に座る。

「了君……今まで聞かなかったよね」

「え、何を」

「私がここに来た理由とか」

「そうだね……気にならなかったから」

「ふふ。珍しい人」

 僕の左手を、蜜さんの右手が包む。髪が、僕の方に少しだけ垂れている。震えが伝わってきた。

「……よかった」

「何が?」

「ここに来て。苦しいものは何もない」

「楽しいものもないよ」

「……そんなことないし、それでもいい」

 少し大きな波が、二人の顎を揺らして通り過ぎた。

「あのね……私、勝負が苦しくなったの」

「勝負が?」

「そう。好きだから続けてて、気が付いたら強くなってて。でも、勝負は苦手だった。普通に……普通に女の子でいたかった」

「そう」

「将棋だけじゃなくて、学校も怖くなった。争うことが全部……勉強も、恋愛も」

「ここではそれがなかった?」

「今のところ、ね」

 指がきつく食い込んでくる。海水がなければ、こすれて傷付いてしまったかもしれない。

「でも……こわいんですか?」

「……こわいよ」

 僕も少し、指に力を込めた。

「将棋が好きなのに……ね。続けられないなんて……」

 蜜さんの瞳には、海も空も映っていなかった。僕の知らない世界、僕の知らない悲しみを見ている。それでも……横顔が、とても綺麗だと思った。

「僕には……教えてくれるんでしょ」

「そうだね」

 指がほどけた。僕の方を向いた瞳に、僕の顔が映る。

「今は……楽しいから大丈夫っ」

 蜜さんは僕のシャツに手をかけ、強引に引っ張り上げた。

「ちょっとっ」

「さらけ出せこの野郎」

 抵抗しているうちにひっくりかえって、一瞬視界が空だらけになり、そして海だらけになった。

「……ぷあっ! 危ないなあっ」

「海なんだぞ。さ、泳ご」

 いつの間にかシャツは、蜜さんの手の中にあった。全身で浴びる波と光は、とても気持ちが良かった。


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