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最近、中学校から帰ってくると家が静かだ。弟の
両親は風のことを邪魔しないように、極力騒がないようにしている。そうなると不思議なことに、心なしか牛たちもおとなしくなった気がする。
つまらない。みんなが風に合わせているのが癪だった。僕らは双子だけど、何もかもが違う。そして、風の方がいいとこどりだ。勉強ができるのはもちろんのこと、背も高いし、顔もいいし、声もいい。あの両親から生まれてきたとは思えない。
家にいると、「了も勉強しなさい。受験生になるんだから」と言われる。いらぬお世話だ。僕は勉強しなくても受かりそうなところを受ける。
「行ってきまーす」
将棋や小説の本を持って、すぐに家を出る。友達も勉強だ親の手伝いだと、最近あまり外に出てこない。天気のいい日は風の気持ちいいところで本を読むのが最近のお気に入りだ。
潮風で錆の付いた自転車。島の中ならだいたいこれに乗って行ける。坂道もなく、車も少ない。工場の横を抜け、最近できたコンビニを通り過ぎ、島で二つだけの信号で止まる。
ちょうど船が来る時間だったようで、民宿のバンが何台か僕を追い越して行った。フェリーはまだなので、那覇からの小型船だろう。波のきついところを通ってくるので、天候によって大きく遅れたり、ひどい時は引き返したりする。旅人から連絡があると、民宿の人たちは迎えに出て、気長に船が着くのを待っている。
「了くーん」
向こうで、手を振っている人がいる。白い肌が目立つ、蜜さんだ。島に来てから何回か見かけたが、声をかけられたのは初めてだった。
「こんにちは。買い物?」
「そう。お客さん迎えに行くついでに送ってもらったの。ねえ、暇?」
小首をかしげる蜜さん。顔は微笑んですらいないのに、その吸い寄せるような表情にどきどきしてしまう。
「ああ、特に用事は……」
「じゃあ、付き合ってよ。メモ貰ったんだけど、よくわからないのもあるし」
桧生原のおばあの車が走り去っていく。風は強い。しばらく戻ってこないだろう。
「見せて」
「これ」
書かれていたのは、ナーベラーやハンダマといった食材だった。外から来た蜜さんには何のことやらわからないのだろう。
「ナーベラーウブシー作るさーって、何の呪文かと」
「ヘチマだよ。あるとは思うけど、まだ早いかな」
島では野菜は基本的に高い。はるばるフェリーで運ばれてくるからだ。だから島や本島で育てている季節のものをできるだけ食べることになる。
「さ、いこ」
蜜さんは、僕の手を握って歩き出した。すごく恥ずかしいのだが、都会の人にとっては当たり前のことなんだろうか。
島に一つだけのスーパー。品ぞろえがいいのかは分からないけど、大体のものはここで買うことになる。おそらく安宿のお客さんだろう、見ない顔が数人、キャーキャー言いながら買い物をしていた。
「いいなあ、私も旅行してみたい」
ナーベラーを二つ見比べたあと、蜜さんは羨ましそうに若い旅人を眺めていた。
「ほとんどしたことないの」
「でも、この島にも旅行に来たと思ったら」
「そうだね。了君に案内してもらおうかな」
島豆腐や味噌も買い、僕にはガムを買ってくれた。
「まだ時間ある?」
「うん」
「宿来ない?」
「うん」
港を覗いてみると、まだ船は来ていなかった。波はうねっている。
「歩いて帰るしかないね」
二人は、まっすぐな道を並んで進む。荷物は自転車のかごの中。
「了君は、どれくらい?」
「え」
「棋力」
斜め上を見上げる。あまり考えたことがなかった。
「わからないけど……三手詰めは解ける」
「じゃあ7級」
「そうなの」
「てきとう」
島では強い方だと思う。ただ、それがどれぐらいの級になるのかは分からない。それによく考えたら、蜜さんの強さもまだよくわからない。
「蜜さんは?」
「ちょー強い」
「ちょー?」
「無敵」
「すごい」
負けず嫌いなんだろうな、と思った。ふわふわと語ることで、真面目に聞き返されるのを避けている。
「どこで指してたんですか」
「……畳の上」
「え」
「椅子もあったけど。すごく、尖った所」
「それはどこ」
「汚いところ。すっごい汚くて、狭い」
「牢屋?」
「あと二年いたら、多分ね」
蜜さんの目は、遠くを見ていた。多分、空間だけでなく、時間を超えて。
「無理やりだったの」
「違う。すごく憧れて。きらきらしたところだと思ったけど、苦しかった。きらきらした人は、二人だったかなあ……。私も地元ではきらきらしてたけど、そこではくらくらするばかり。ふらふら」
「すごそうなところだね」
僕は、島の外のことはよくわからない。たまに本島に行っても、買い物をして帰るだけ。例えばタクシーにだって、まだ乗ったことがない。想像できないことが、多すぎる。
ただ、蜜さんの話は、僕だからわからない、というのとは違う気がする。彼女の目は、異次元へと向けられているかのようだった。
「了君も行ってみる? ショーレーカイ」
「ショーレーカイ?」
「みんなで傷つけあうの。私は傷つけられた方が多いけど」
「罰ゲーム?」
「ちょっと違うかなあ。塾みたいなところ。頑張ると、いいところに行けるの」
「蜜さんは、そこを辞めたの?」
「……女だから」
最後の声はとても小さくて、僕はまだあまり人生経験はないけれど、それ以上聞いてはいけないのだと分かった。
港から東に二十分。工場を越えてすぐのところに桧生原のおばあの民宿はある。目印は、〈ヤギ〉から路地に入る。
「あーいむほー」
よくわからない挨拶で、玄関をくぐる蜜さん。それに続いて僕も島烏に入っていく。
「あ、あいむほー」
「なにそれ、真似しなくていいのにっ」
蜜さんはくるくると回りながら、奥へと進んでいく。僕も、あとへ続く。
民宿に来るのは初めてではない。おじいがいる頃はよくここで皆が集まって、歌ったり踊ったりしていた。おじいは面白い人で、三線だけでなくウクレレやジャンベも演奏することができた。宿泊客も巻き込んで、即興で色々な演奏をこなしていた。
おじいが亡くなって以降は、おばあが一人で営む静かな民宿になった。おばあはまだまだ元気だけど、元々口数が少なくて、あまり社交的ではなかった。僕らはたまに訪れて話をするのだけれど、ポツリポツリとつぶやかれる言葉は、聞き取ることも難しい。
「さー、こっちさー」
台所から突然、いかにも慣れないイントネーション。それがあまりにもかわいかったので、僕は吹き出してしまった。
「なによう」
「なんにもないさー」
台所には大きな冷蔵庫が二つ並んでいる。一つは宿用、もう一つはお客様用。飲み物やアイスなどのほか、早朝から泳ぎに行く人などは自分で調理するために食料を買っておく、と聞いた。
買ってきたものを次々と詰めていく。こういうことは家でよくやるので慣れている。
「あんまりできるとね、また頼んじゃうよ」
「いいよ」
「うふふ」
宿には、お客さんはいないようだった。いるけれど、出かけているのかもしれない。
「将棋指そっか」
「え」
「盤持ってきたんだ」
客間に行くと、想像していなかったものが置かれていた。五センチぐらいの厚さはある、立派な将棋盤。表面が照明に照らされて光っている。
「これ……」
「プレゼントされたんだ。宝物」
駒箱がひっくり返され、こつんこつんと、駒がこぼれ落ちてくる。彫りが深くて、すごく力強く刻まれている駒の字。
「了君はどんなの」
「え……駒?」
「そう」
「……変なの」
蜜さんは、しばらく僕の目を見つめていたが、ぷっと吹き出してそのあと笑い続けた。
「いひひ、何それ、普通さ、ひひ、安いとか、汚いとか、ちゃっちいとか、じゃないの? ねえ」
「でも、変だもの。おじいが作ったんだって」
それは、僕が生まれる前からあった。盤も平らじゃないし、駒も形が整ってなくて、駒字も汚い。父さんが子供の頃、おじいが一所懸命作った、と聞いた。でも父さんは将棋を全くしなかった。物置の中で埃まみれになったのを、僕が引っ張り出してきたのだ。
「へー。今度見せてね」
「うん」
蜜さんは、王将を取り上げて自陣の真ん中にびし、と置いた。まだ顔は笑っているけど、手つきは厳しかった。それは、テレビで見るプロの先生のものに似ていた。
「どうする?」
「え」
「あ、ごめん。多分、落とした方がいいから」
並べ終わった駒から、飛車と角を取り上げる蜜さん。よく意味がわからない。
「あの……それ……」
「特別だよ。元奨励会員がただで教えてあげるんだから」
それは、ハンデ、ということなのだろう。しかし飛車、角というのは将棋の駒の中でも特に強い力を持っていて、その二つがなければ相手を攻めることなんて不可能だ。
「でも……」
「お姉さんを信じなさい」
そう言うと蜜さんは、深々と頭を下げた。
「お願いします」
「あっ……お願い、します」
じゃんけんも何もしていないが、蜜さんはすぐに左の金を斜め左に上がった。駒を使わないハンデの代わりに、先手をもらうということなのだろうか。
そして僕が驚いたのは、その手付きのしなやかさだった。さっきまでいい加減でふわふわしていた蜜さんなのに、駒を持つ手はピシッと伸びていて、美しかった。
見上げると、背筋も伸びて、目つきも鋭くなっている。その姿は、さっきまで膝の上で喉を鳴らしていた猫が、突然小鳥を見つけて狙いを定めたかのようだ。
小鳥なら空を飛んで逃げればいい。けれども僕は、好んで蜜さんと向き合っている。そして、僕の方が優位なのだ。
角道を開け、飛車先の歩を突く。相手には大駒がないのだから、攻撃力は断然僕の方が勝っている。蜜さんは金銀玉を押し出すようにして守備態勢を整えるが、攻めて来れないのだからしょうがない。
攻め駒の数を足していけば受け切れないはずだと、桂馬も跳ねていく。こんなもの、負けるわけがない……と思った。
蜜さんの駒は、柔らかく柔らかく、僕の駒を受け止める。勢いよく攻めているはずなのに、全く突破できそうな気がしない。そしていつのまにか、右側の金がするするとこちらに向かってきた。桂馬がいなくなった僕の玉の周りは、えらくすっかすかだ。特に角の頭は守るものがなくて、金の横に歩を置かれると、と金作りが受からなかった。
僕の陣形は、ぼろぼろになっていく。たった二枚の攻め駒を受け止めることができない。それでも、最後まであきらめたくはなかった。玉が完全に詰まされるまで、指した。
「……負けました」
「はい」
僕がお辞儀をするのに合わせて、蜜さんも深々と頭を下げた。盤にかかるぐらいの髪が、光に照らされて艶やかに見えた。
「ひっさびさに将棋指したーっ」
両手を突き上げ、満面の笑みを浮かべる蜜さん。さっきまでとはまるで別人だ。そして、かわいかった。
「了君、駒落ちは初めて?」
「……うん」
「そっか。しょうがないよね。お姉さん、結構強いんだ。わかってくれたでしょ」
「うん」
「でも、了君もどんどん強くなれるよ。強くなりたい?」
「うん」
「じゃあ私の弟子ね」
「弟子?」
「光栄なことに一番弟子だぞ」
「わかった」
蜜さんは僕の手を取り、ぶんぶんと振った。きれいな手だけど、指先は少しだけざらざらしていると思った。
「よーし、君を地域一の使い手にしてあげよう。あ、私が一番だから二番か」
「蜜さんも抜けるよう頑張ります」
「言ったな。血ヘド吐くまで頑張ったら可能かもね!」
不思議なことに、血ヘドを吐く蜜さんの姿が鮮明に脳裏に浮かんだ。こんなに将棋が強くなるためには、本当にそういうことも経験しないといけないのかもしれない。
「やっぱり、二番目でいいかも」
「それがいいさー。一番、楽しめばいいんだよ」
笑いかける笑顔に、えくぼができていた。何度でもそれを、見たいと思った。
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