海の81マス
清水らくは
第1章
1
雨脚は弱まってきた。放送では次の便は出航すると言っている。ほっと胸をなでおろした。
それでもまだ一時間以上ある。ゲーム機をしまって、鞄から詰め将棋の本を取り出した。一日四問のノルマが、五日分ぐらい溜まってしまっている。五手詰めばかりとはいえ一度悩みだすと全く進まなくなる。
待合室は静かだ。旅人らしき大きな荷物を持った集団がいるものの、だだっ広い空間の中ではほとんど目立たない。まだまだ観光のシーズンではないし、こんな天気の悪い時にわざわざ島に渡ろうとはしないのだろう。
「あーっ」
思わず声が出る。正解だと思っていた筋に読み抜けが見つかったのだ。たった五枚しかない敵の駒と、たった三枚の自分の駒。4×3の小さなマスの中なのに、様々な可能性があってなかなか答えにたどり着けない。
あまりにも解けないので、窓の外を見る。強い風が木々を揺らしている。水を撒き散らしながら、バスが走ってきた。バス停に止まると、見覚えのある民宿の夫婦が下りてきた。ハンチングのおじさんと、むぎわらのおばさん。島の人は、だいたい顔見知りだ。そういえば車が壊れたとか聞いたような。二人とも両手にどっさりと買い物袋をぶら下げている。
そしてもう一人、こちらは見覚えのない女性だった。いかにも、というキャリーバックを抱えて、フラフラと下りてくる。手足も細く、ここからでも輝くように白いのが分かる。さっそく濡れてしまった髪は腰付近まであり、少し茶色いように見えた。
歳は僕より少し上ぐらい、高校生だろうか。近づいてくるにつれ、僕は目を離せなくなっていた。細くて意志の強そうな目、薄い唇、とがった顎。全てが島の人とは雰囲気が違うし、なんというか、観光客という感じでもない。思い浮かんだのは、「逃亡者」という言葉だった。
待合室の建物に入り、さすがにじろじろ見続けるのも悪いと思ったので、僕は再び詰め将棋に思考を戻した。引っかかっていた問題はとりあえず飛ばし、次の入玉問題に挑戦する。ちなみに、入玉問題も苦手だ。
答えは一つだ。詰まない筋は消去していき、残った一つが正解なのだ。それなのに、なかなかゴールにたどり着くことができない。本当にその筋が詰まないのかを確かめるのも大変だし、正解の筋を発見するのもやっぱり大変だ。
「将棋、好きなの?」
突然声を掛けられて、僕は瞳だけをぎょろりと動かしてしまった。右斜め上、あの女の人がすぐそばにいた。茶色い髪は僕のこめかみを撫でている。
「え……」
「私は好き」
想像よりも低い声だった。耳の中を撫でまわすような、ねっとりとした質感があった。
「将棋……指すんですか」
「うん。私、強いの」
お姉さんは、僕の解いていた問題に人差し指を当てた。
「3七桂馬から。こうして、こう」
指で持ち駒と升目を指していく。確かにそれで詰んでいる。
「次はこう」
そう言って、同じページに載っている残り三問も指ですらすらと解いていった。一問十秒ほどしかかかっていない。
「すごい……」
「五手だもの。言ったでしょ、私、強いの」
僕は、首を動かした。真正面から見たお姉さんは、見たことないほどきれいで、怖かった。彫りが浅いとか、眉毛が細いとか、それだけに違和感を感じるんじゃない。言い知れぬ威圧感、そして現実離れした感じ。半分ぐらい魂が体を抜けてるんじゃないかと思ってしまう。
「あの……今から島に?」
「うん。住むことになったの」
「どこですか」
「おばあちゃんのところ。民宿」
お姉さんは僕の横に腰かけた。おかげで僕はその顔を見てドキドキしなくてよくなった。
「ひょっとして
「そう。そこでお手伝いするの」
島にはいくつかの宿があるが、おばあのいる民宿と言えば「島烏」だ。桧生原のおばあはすごく若く見えるのだが、「もうでっかい孫もおるから、おばあだよ」とよく言っていた。
「君は?」
「あ、うちは牛飼ってる」
「へー。そう言えば見たことあるかも」
「島に来たことあるの」
「昔。小さい頃。曇ってた」
お姉さんは、ときどきボーっとしてしまう。自分の世界に入っているようでもあるし、我を失っているようでもある。
「蜜」
しばらくの沈黙の後の、短い言葉だった。
「え」
「私の名前。前川蜜」
「……俺は、高嶺了」
「了君。よろしくね」
なぜか、握手をした。意外なことに、その手はとても固かった。
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