第?話

殺すことと食べることは同じだろうか。

殺すことと撤退させることは共存できるだろうか。




バーチャルだとしても、

水槽の中の脳の見る電気信号の一つだとしても、

感情も何もプログラムされて痛みなど感じない生物だとしても、

ヒトに害する生物と認定されてても、

生きるために必要だと言われても、




命を奪うことは出来るのだろうか?




カレイの開きは元々開かれたまま海を泳いでいるんだ、

煮干しは干されたまま生きているんだ、

豚肉は買っている豚と別のものだ、

缶詰は缶詰のまま出来上がるんだ、

加工食品は加工食品のまま出来上がるんだ。




そんなものは幻想だ。




カレイの開きは優雅に泳いでいた魚を捕まえて「殺し」て、内蔵を取り除いてあの形に仕上げる。

煮干しも魚を捕まえて「殺し」て、干して作られる。

買っている豚も「殺し」て、内蔵を取り除き部位別に選別して売られている豚肉にする。

缶詰も、加工食品も、何かを「殺し」て出来上がる。




漫画の世界も、ゲームの世界も、倒したら終わり。

でも、現実は違う。

倒したら、「殺し」たら消滅するわけじゃない。

何かしら残るし、感触は残るだろう。




バーチャルだからと割り切れば、『選択』すれば「倒して消える、ゲームのような世界」になるだろう。




そうすると世界で生きている実感も、急速に消えるだろう。




走り回って敵と遭遇して経験値を稼ぐ。

それは虐殺とどう違うのだろうか。






心が悲鳴を上げるなら、救われる為の理由を『選択』させてやろう。

選べば止まらないかもしれない、止められないかもしれない。

それでも良心の呵責からは逃げられる方法を。




倒されるものは悪であればいい。

殺さなければ救えない、どうしようもない悪にすればいい。

そうすれば殺すことは必要なものとなる。

救いとなれば躊躇しなくて済むだろう。

感染する悪は、感染する前に消さなければならないと理解できるだろう。






これは一つの分岐点。




命をどう扱うか、どう捉えるか。




悩め




考えろ




『選択』をしろ

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