14夜 他の誰が信じなくても、自分だけは信じるから

 時刻は深夜。新月に近い月齢の月は、見上げる夜空にはまだ見えない。そんな時間でも人気の絶えない場所というのはあるものだが、スラムはその中には含まれないようだ。

 と言っても、完全に寝静まっているというわけでもない。そこここに、息を潜めるようなひとの気配はある。

 夜を昼に作り変えるかのごとくネオンを輝かせ、世界の覇者のように人々が闊歩する歓楽街の騒々しさに比べれば、夜をあくまで夜として、その闇の中で息を潜め、ひとの本分ではない時間に遠慮と気後れを忘れないスラムの〝夜〟は、秋羽にはむしろ好ましくも思えるが、危険度で言えば大差ないのかもしれない。

 美しく装った夜の街でも、闇に沈むスラムでも、あるいは日の光の下でさえ、犯罪は起こるしひとは死ぬ。

 むしろ、人工の明かりで隅々まで照らし出された作り物めいた街よりも、闇に沈みそこここに影がわだかまる〝自然〟を残す街のほうが、ひとに恐怖を喚起するものだ。


 藍と他愛もない会話を交わしながら、思考の片隅でそんなことを考えていた秋羽は、不意に意識が研ぎ澄まされるのを自覚した。

 思考に向けられていた意識が、一瞬で周囲に拡散される。感覚が研ぎ澄まされる。意識するより早く、体が警戒を訴えた。

 傍らを見れば、藍も同じように足を止めていた。眉根を寄せ、鋭い眼で周囲を窺っている。

 数呼吸、同じように感覚だけで周囲を探り、秋羽はそれを感じ取った。警戒を促した異変の元。

 においだ。ほんの微か、薄汚れたスラムの路地に澱んでいる濁った空気の中に、それまで感じなかったにおいが混じっている。嗅ぎ慣れた、鉄錆のような──


 血の、におい。


 理解した瞬間、地を蹴っていた。

「秋羽!」

 制止するように鋭く発された藍の声を背中で聞いた。気配と足音で藍がついてきていることを確認しながら、路地を駆ける。複雑に折れ曲がるスラムの路地を、可能な限りの速度で。

 そう、ここはスラムだ。昼夜を問わず、殺傷事件など珍しくもない場所。そこで微かな血のにおいを嗅いだからと言って、それが即、例の事件を示唆するわけではない。それは分かっている。それでも。

 不吉な予感に、心臓が嫌なふうに跳ねる。

 迷路のような路地を、感覚だけを頼りに駆け、角を幾つか曲がる。血のにおいがもはや間違えようもないほどに濃くなり、その代わりのように位置感覚が曖昧になる。どこをどう走ってきたかも分からなくなって、帰り道に迷うかもしれないと、ちらりと考えた。

 そんな平和な思考は、数秒後には完全に消え去ったが。


 変哲もないスラムの一角。おそらくは違法建築の建物に挟まれた、間隙のような路地。大人が二人、並べるかどうかという幅のその路地には、濃厚な血のにおいが澱んでいた。

 しんとした、路地の闇。しかし無音ではなく、微かな息遣いが漏れる。

 月のない夜空に、光源と言えば星明かりくらい。ネオン煌めく街では見えもしない星影が、闇に沈むスラムからはよく見える。それでも、路地に注ぐ光源としては頼りなく、足下にまでは届かない。

 路地の底には濃密な闇がわだかまり、そこになにがあるのか、なにかがあるのか、一見しただけでは分からない。

 ハンターとしての夜間出動の場合なら暗視ゴーグルを装備するが、非番の夜を私的に過ごしているだけの今の秋羽の持ち合せは、多少夜目の利く自らの両目だけ。それでも、そこに立つ相手を見て取ることはできた。

 半ば以上、闇に沈んだ路地で、微かな星明かりに浮かぶ顔には妙な陰影がついていて、いっそ作り物めいて見えた。生気が感じられない。等身大の人形が立っているようだ。

 その不気味さと、その顔に、秋羽は息を呑んだ。


「──ゆき、と……?」


 無意識に、その名を紡ぐ。

 会えるものなら会いたいと、願っていたのは事実だ。もう一度だけでもいい、言葉を交わせたらと。

 そう願いながらも、そんな願いは叶わないと思っていた。

 それなのに。

 三年の空白を挟んでも見間違えるはずのない友が、そこに立っていた。


 相手も秋羽を認め、目を細めた。それは、秋羽が覚えている雪斗の笑み、そのままで。記憶の中から抜け出てきたかのように、三年前と変わるところのない態度で、雪斗は口を開いた。

「ああ、秋羽か。久しぶりだね。元気にしていたかい?」

 その態度はまるで、ただ長く会わなかった知己に不意に遭遇したという、それだけのように思えた。

 だが、そんなはずはない。そんな、日常に転がっているような和やかな再会の場面シーンでは、決してない。


 血のにおいは、すでに嗅覚を麻痺させるほど濃密にあたりに満ちている。

 視線を下げれば、闇に沈んだ路面に、さらに黒々とした水溜りが広がっているのが見て取れる。それは、僅かに粘性があるのか、ゆっくりと、しかし確実に、その面積を広げている。そしてその中に、動かない塊。

 路地の壁面にもたれかかるように座り込んでいるのは、スラムの住人だろうか。ぐったりと全身が弛緩し、力なく四肢を投げ出している。一見、酔い潰れているかのようだが、酒のにおいなどしない。したとしても、分からないだろう。嗅覚を刺激するのは、すべてを塗り潰すような、ただ濃厚な血のにおい。

 そしてその首が、普通ではありえない角度に傾いでいる。

 闇に慣れた秋羽の目は、その頸が深く切り裂かれ、傷口から黒々とした液体が溢れ出しているのを見て取った。

 夜目に黒く見えるそれは、血。

 頸を掻き切られ、すでに事切れているだろう、男の死体。

 その死体の傍に、平然と立つ、雪斗。

 それはなにを意味している?

 考えようとする理性を、感情が邪魔をする。雪斗の手に握られた、小振りの短刀。その、僅かな星明かりを弾いて鈍く光る刃を見ても、なにも考えられない。


「なにを、しているんだ。こんなところで」

 馬鹿みたいに、そんな疑問が口をついて出た。疑問? 疑問などどこにもない。答は目の前にある。その手に握られた、血に濡れた短刀。雪斗の頬に一筋散った血は、返り血だろうか。

 そう、聞くまでもない。考えるまでもない。分かりきっている。雪斗がここで、なにをしていたのかなど。

 それでも、秋羽は。信じたかった。馬鹿みたいに。

 頬に返り血を受け、血に汚れた短刀を持つ雪斗の、この場にあまりにそぐわない、笑顔を。

 三年前となにひとつ変わらない、その笑顔を。その、潔白を。

 三年前、彼がなにを思い姿を消したかなどどうでもいい。この三年間、どこでなにをしていたのかも、どうでもいい。どんな理由で今、首都に戻り、ここにいるのか、それすらもどうでもいいから。

 自分はただ、行きずりにこの死体を見つけただけだと。そんな言葉を、雪斗の口から聞きたかった。

 たとえ他の誰が信じなくても、自分だけは信じるから。

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