12夜 告げられたその名に、一瞬、呼吸を止めた

 輸血の処置を終え、紫於の頬──艶やかなピンク色の真皮の上に白い皮膚が再生される様を見やりながら、朔月はその疑問を口にした。

「それで、誰にそこまでやられたんだい?」

 原種である紫於にここまでの傷を負わせられる者など、《機関》のハンターにもそうはいまい。銀の十字架クロスを使ったと言っても、そこまで肉薄することがそもそも困難なはずなのだ。なにより、人間との諍いを好まない紫於がハンターに追われるような状況に陥ること自体、朔月には想像できない。

 彼らは、その見た目からだけでは、人間と区別がつかない。人間の群れに紛れている者が密告によって狩られることはあっても、通りすがりにすれ違った相手がヴァンパイアであるか否かなど、百戦錬磨のハンターでも判別できないだろう。


「ふむ。朔月、貴様も知っている相手かもしれんぞ。おそらく、《機関》の離反者だ」

 紫於の返答に、朔月は僅かに目を細めた。

 朔月は今でこそ、スラムの辺縁に非合法な診療所を構える闇医者だが、数年前には政府直属の対ヴァンパイア組織である《機関》に所属する研究者だった。

 しかし、朔月が《機関》に所属していたのは三年も前だ。そもそも研究部は《機関》の中でも特に独立性の強い部署で、他部署と密な交流を持たない。その研究内容と立場ゆえに、一般の《機関》員たちが知りえない、あるいは事柄を知る研究員が、他部署の所属員たちと接触することを、執行部は嫌っていた。朔月も、他部署で見知っているのは数えるほど、言葉を交わすような相手はなおさら少なかった。それすら、三年前の知識でしかない。

「さて、三年の空白期間ブランクがあるからね。足を洗った以降の人員については、詳しくは知らないよ」

「よく言う。流歌から情報は流されているのだろう?」

「聞いているのは、《機関》そのものの動向だよ。個々人のことまでは」

 柳に風とばかりに応える朔月に、紫於は僅かに肩を竦めて続けた。

「それでも、離反者となればその限りではなかろう?」

「確かにね。名前は分かるかい?」

「『ゆきと』と、呼ばれていたな」

 平坦な声音で、特に感情を交えることもなく告げられたその名に、朔月は一瞬、呼吸を止めた。

「──雪斗」

 詰めた息を吐き出す、その吐息に乗せて囁いた朔月を、紫於は目を細めて見やった。

「知っているか?」

「ああ。三年前の脱走者だ。直接の面識はないが、覚えているよ。彼の脱走騒ぎに乗じて、《機関》を抜けさせてもらったからね」


《機関》は政府直属の公的組織であり、軍に準じる組織である。規律は厳しいが、退役が認められないわけではない。──が、例外はある。

 例えば、秘匿されるべき情報に通じている者などは、願い出たからと言って簡単に退役が認められることはない。実際、研究部に属し、《機関》が世間に──あるいは身内にすら隠している真実というやつにそれなりに通じていた朔月の退役願いは、受理されることはなかった。


 三年前の朔月は、《機関》という組織と、そこに身を置く自分自身に倦んでいた。

《機関》の研究部における研究対象とはつまり、ヴァンパイアそのもの。一般に認識されている自我を失くした化物ではなく、ヴァンパイア──伝承や伝説に語られるその存在を、科学で解析しようとしていた。

 ヴァンパイアの生態、能力、死の条件、有効な武器。転化の原理や転化種の意識の変化、その血の作用まで。つまりはどうすれば最大限効率的にヴァンパイアを滅ぼせるかということと、どうすればその存在を(主にその血を)利用できるかということ。

 目的のためには手段を選ばず、結果のためには経緯は問われなかった。転化の仕組メカニズムを解き明かさんと、罪のない孤児を実験体にしたヴァンパイアへの転化実験や、その血の作用解明を求めて、重傷を負ったハンターにヴァンパイアの血を与え化物へと貶めたことさえあり、そのすべてが不問と処された。──結果が得られなかったにもかかわらず。


 思い出すだけで、今でも胸が悪くなる。

 朔月は《機関》で五年の年月を過ごしたが、そこで彼が関わった研究、その内容は、今や思い出したくもない記憶となっている。

 当時の朔月は、《機関》の持つ暗部に飲み込まれまいと必至に抗い、抗うことでより深く病んでいこうとしていた。

 そんな朔月を救ってくれたのが、流歌だった。

《機関》情報部員である彼女は、その立場では本来知るはずのないヴァンパイアの実像も、《機関》が隠している実体も、朔月と知り合った時点で既に知っていた。そうして、そんな《機関》の在り方を「狂ってる」と切り捨てたのだ。

《機関》所属員は基本的に、《機関》の掲げる理想や示す方針に賛同している。『表』しか知らない者は当然、『裏』を知っている者も、その『裏』を含めて《機関》という組織を容認している。

 研究員たちもそうだった。あれほど残酷な、人間とも思えない所業に関わりながら、それに対して嫌悪を抱いている者はいなかった。

 そこに馴染めず、その所業に嫌悪を感じる自分が『異常』なのか。そんなふうに思い悩んでいた朔月に対して、『異常』なのではなく『異端』なのだと言ってくれたのが、流歌だった。

《機関》にとっての『異端』。それは、人間として正常であることの証だとさえ、彼女は言った。

 その言葉がなければ、あるいは朔月は、あのまま壊れてしまっていたかもしれない。

 その言葉で朔月を救ってくれた彼女は後に、《機関》という組織から朔月を逃がしてもくれた。


 朔月はこれ以上、《機関》に身を置くことに限界を感じていたし、流歌からも退役を勧められた。しかし、そうして提出した退役願いが受理されることはなかった。

 朔月は研究員として、ヴァンパイアの実像とともに、《機関》の『裏側』も知りすぎていた。《機関》が秘匿したがっている多くの情報を知る朔月を、あっさり退役させるはずはない。当然のことだ。

 そんな時、雪斗の脱走があった。

 ハンターだった雪斗はある日、巡回の途中で姿を消した。《機関》から貸与されていた対ヴァンパイア用の武器を携帯したまま。

《機関》所有の、人に対しても殺傷力を持つ武器を持っての脱走。それは《機関》内で、通常の脱走以上に問題視された。

 執行部はすぐさま雪斗の追跡と捕獲に動き、ヴァンパイア対応に次ぐ最優先事案として、雪斗の捜索が行われた。


 その騒動は、朔月にとって僥倖だった。

 執行部が雪斗の捜索に躍起になっている隙に、朔月は流歌の手を借り書類と認証を偽造し、執行部から正式に退役許可を得たという体裁を整え、混乱が収まる前に《機関》を脱したのだ。

 流歌の用意した偽造書類は精巧にできていたが、精査されればさすがにバレただろう。そもそも、誰かが冷静になって研究員の退役許可に疑問を抱けば、それだけで露見しかねない。我ながら危ない橋を渡ったものだと思うが、それさえ、あの騒動がなければ渡れなかった橋だ。


「彼の脱走騒ぎがなければ、僕は穏便に《機関》を抜けることはできなかっただろうね」

「穏便、か」

 どうだかな、と、紫於は皮肉げに呟き、続けた。

「では、流歌も彼奴きゃつのことを知っている、ということか」

「そうだね。流歌にとっては単なる脱走者ではなく──親しくしていたようだよ。本人は、単なる知人だ、と言っていたけれど」

 答えて、朔月は未だ《機関》に所属している友人を思った。朔月と同様、あるいはそれ以上に異端でありながら、自らの意思で《機関》に留まっている彼女。

 三年前、朔月の退役に彼女は手を貸してくれたが、友人の脱走に動揺していただろう彼女の手を煩わせたことは、朔月の後悔のひとつでもある。彼女はあの時、どんな思いで朔月の退役に手を貸し、どんな思いで執行部が布く雪斗への包囲網を見ていたのだろうか。


 頭を振って、いまさらの物思いを振り払う。

 思案から戻ると、紫於が物思わしそうな表情をしていた。

「どちらにしろ、知らせんわけにはいくまいよ。雪斗という男は、ヴァンパイアに転化している。──狭霧の従者にな」

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